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【霊学的イエス論(9)】イエスの奇跡

2010-09-13 00:30:04 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
 イエスの治病は、死んだとされた者を生き返らせるなど、かなり奇跡的なものであったが、その他の面では、それほどの大きな奇跡(キリスト教では「奇蹟」と書くことになっているらしい。そこらへんのちゃちな奇跡とは違うよと言いたいのだろう)を行なっていない。
 共観福音書に書かれた、予言を除く奇跡現象は次のものである(復活も別)。

バプテスマのヨハネの洗礼での精霊の降臨 (マルコ1:9-11、マタイ3:13-17、ルカ3:21-22)
嵐鎮め                 (マルコ4:35-41、マタイ8:23-27、ルカ8:22-25)
五千人の供食              (マルコ6:32-44、マタイ14:13-21、ルカ9:10b-17)
海上歩行                (マルコ6:54-52、マタイ14:22-33)
四千人の供食              (マルコ8:1-10、マタイ15:32-39)
変貌と霊姿               (マルコ9:2-8、マタイ17:1-8、マルコ9:28-36a)
イチジクを枯らす            (マルコ11:12-14,20-21、マタイ21:18-20)

 スピリチュアリズムの蓄積から言えば、鳩のような霊の出現も、海上歩行も、変貌と霊姿も、植物を枯らすことも、稀ではあるが空前絶後の奇跡ではなく、優秀な物理霊媒が起こせる範囲のものである。嵐鎮めは、イエスが天候の変化を予見した(必ずしも予知ではなく勘で)のかもしれないし、まあ、密教行者や修験者ならできそうではある。よくわからないのが数千人にパンを配ったというもので、真実だとしたら規模的に類例がないものと言える。現代の学者さんは、「これは集まった人々の中に携帯食料を持っていた人がおり、それを進んで供出したからだ」という解釈をする人もいるが、それもすっきり信じられない。
 ただ、いずれも弟子たちが目撃者となっているもので、一般を相手には、何ら物理的奇跡のたぐいは起こしていない。このあたりをパリサイ派にいちゃもんをつけられるという場面もある。
 《イエスは弟子たちと共に舟に乗り、ダルマヌタ地域に入った。するとパリサイ人たちが出て来て、彼に質問し始めた。天からのしるしを彼に求め,彼を試そうとしてであった。イエスは心の底から深く嘆息して言った。「どうしてこの時代の人々はしるしを求めるのだ。はっきりと言っておく。あんたらには何のしるしも与えられないだろう」。》(マルコ8:11-13、マタイ12:38-40;16-1,4、ルカ11:16,29-30)
 神の子などと噂される者なら奇跡でも見せてみろ、と迫るパリサイ派に、にべもなく拒否をしているのである。

 もし神が人々を改心させたいのなら、大々的に奇跡を起こして、はっきりと目にもの見せればいいだろう、というのは人間誰しも考えることである。心霊研究でも、霊の実在を知らせたいのなら、もっとはっきりと証明をしてくれればよかろうに、という思いはぬぐえない。
 しかし、どうもそういうものではないらしい。
 物理的な奇跡と言えば、D・D・ヒュームの右に出る者は少ないだろう。彼の周りでは、ありとあらゆる物理的霊現象が起きた(TSLホームページの霊媒人名録参照)。物理的な奇跡という点では、ヒュームはイエスをはるかにしのぐ能力を持っていたのだ。
 でも、ヒュームをしても世の中は変わらなかった。まあ、王侯貴族たちがそれを見て、スピリチュアリズムの拡がりを助けたという功徳はあったけれども、唯物論と実証科学は、まったく無視し、霊現象の抑圧を続けた。
 どうも、神は物理的な奇跡をこれ見よがしに出して人間を高めるつもりはないらしい。また、物理的な奇跡をいくら積まれても、人々は、そしてある時代というものは、改心することはないらしい。

 ともあれ、イエスには、物理的奇跡によって人々を悔い改めさせるという意図はまったくなかった。「本当に信仰を持てば、山を海に投げ込むこともできる」(マルコ11:22他)と宣言し、おそらく彼自身やればできただろうが、そういうことは一切しなかった。奇跡的治病も、しばしば「誰にも言わないように」と戒めているので、その奇跡性を売り込んだわけではない。(ちなみに、ムハンマドも物理的超常現象は一切起こしていない。)
 残念ながら共観福音書ではなくヨハネ福音書にしかない言葉だが、イエスはこうも言っている。
 《見ないで信じる者は幸いである。》(20:29)
 イエスは人を信じさせるために奇跡を行ないはしなかった。ただ病気や霊障に苦しむ人に関しては、奇跡の治療力によって苦悩を取り除いた。苦しむ者に手を差し延べる、それが人として第一になすべきことだということを、彼は示した。

      *      *      *

 ところで、キリスト教は自らを「天啓宗教」と称しているが、これははっきり言って、疑わしい。
 ユダヤ教は、モーセのシナイ山での啓示(十戒の授与)を真実とすれば、「神からの啓示」に基礎を置く宗教である。預言者の書の中には「神はこう語った」という記述もある。イスラームはムハンマドの口を通して神の言葉(クルアーン)が語られたとするのだから、「啓示宗教」である。
 まあ、スピリチュアリズムからすれば、大宇宙の主宰者である神が人間ごときに直接語りかけるなどということはありえない、不遜の極みの考えである。啓示するのは霊であって、高次の霊なら素晴らしい啓示であり、低次の霊ならろくでもない妄言となるということなのだが、そのことはちょっと置いておく。
 イエスは自らを通して神の言葉を伝えていない。イエスがトランスに入り、まったく違った崇高な語り口で語ったという記録もない。神はこう語ったとも述べていない。いくつかの予言(予知)はあるが、終末予言にしても復活予言にしても、厳密に言えば当たったわけではない。
 キリスト教が「天啓宗教」と自称するのは、ひとえに「イエスが神の子である」という一点にかかわっている。神は人類史で一回限り、自らの子を遣わした。それがイエスであり、キリスト教が他の宗教に優越する根拠となる最大の奇跡なのだ、というわけである。
 だが、共観福音書を見ればわかるように、イエスは神の子ではない(誰もが神の子という意味では神の子だが)。イエスを神の子とするのは、「洗礼での精霊の降臨」と「変貌と霊姿」の場面で、「これは私の愛する子」という声が聞こえたという伝承があるからだが、まあこれは創作だろう(前述したように、洗礼の場面のものは、誰がそれを聞いたか混乱している)。また仮にイエスが「神から愛される子」であったとしても、イエスの言葉が神の言葉だということにはならない。
 イエスが、「神は私にこう語った」と言えば、「啓示」の教えとなるだろうが、そういうことは一切ないのである。

 なぜこういう物騒な喧嘩を売っているかというと、「啓示宗教」が「“神”からの教え」を説くものであるとするなら、憑霊型の宗教こそがその役割を果たすものだと思うからである。高次の存在からの言葉を純粋に伝えるのは、媒介者の個人的意識が介入しない、純然たる憑霊型霊媒である。そして、セム系一神教の中では、憑霊型霊媒は忌避され、脱魂型シャーマンが尊重される。そこでの「啓示」は媒介者の意識によって歪められている。
 それに対して、スピリチュアリズムは、憑霊型霊媒が主役である。霊媒の意識は外に置かれ、そこに高級霊が憑依し、語る。これこそが「啓示」「天啓」であろう。

 もっとも、イエスの言葉が、啓示のような響きを帯びたことは、否定できない。イエスはそれを神の言葉だとも言わなかったし、神から教わったことだとも言わなかったが、そこには崇高な「権威」を感じさせる文体、響きがあった(翻訳でしかわからないので「あったはずである」としか言えないかもしれない)。神の国の譬え話(これのみがイエスの直説だと主張する人もいるようだ)や、トマス福音書に収められた不思議な言葉は、どうも人間の思考から発せられたものとは思えない。
 ここにイエスのイエスたるところがあるのだが、それについては、また改めて述べることにする。

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1 コメント

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奇跡 (へちま)
2010-09-18 08:42:21
スエデンボルグによる奇跡に関する説明を以下に要約します。

奇跡は、それを為す者により語られ、教えられたことは真であると力強く人間を説得し、捕らえることは否定できない。しかし、そのため人間は合理性と自主性の2つの能力を奪われ、理性に従って自由に行動し思考することができない。
奇跡から生まれた信仰は信仰ではなく、単なる説得にすぎない。

信仰とは内的な承認であり思考です。誰でも、自由に考え意志するという内的な自由をもっています。(誰も、内的な考えを強制されることはできません)
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