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達人たちの仏教 ②顕と密

2011-08-05 00:03:52 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 密教というと、私たちは真言宗を思い浮かべますが、密教は固有名詞ではなく、仏教の一「部門」です。「密義(密儀)宗教」(エソテリズム)という言葉にすれば世界の諸宗教のうちいくつかを指す概念になります。さらに「秘義(秘儀)」というもの、つまり平信徒や外部には公表しない部分というのは、「秘密」を標榜しない宗教にもしばしばあります。カトリックで言えば「悪魔祓い」(エグゾシズム)は、最近はずいぶん知られるようになりましたが、本来は「秘事」に属することでした。神道でも、御神体やそれに関連する行事は、高位神官以外は見ることができません。
 日本仏教でも、真言宗に限らず、密教・密儀というものは多くの宗派が持っています。そもそも真言宗が成立した時代にも、天台宗は「台密」と呼ばれるきわめて似た実践をやっていました。黒田俊雄氏の「顕密体制」論は、鎌倉新仏教の時代にも、「旧仏教」(天台・真言・律)は、教義布教の「顕」部分以外に、密教的実践によって、広く活動していたことを明らかにしました。中世中期には、禅の曹洞宗(本来は「只管打坐」つまり坐禅のみ)は、密教的加持祈祷を積極的に行ない、その宗勢を全国に拡げました(道元の思想のみではこんなに拡がることはなかったでしょう)。

 なぜ宗教には「秘密部分」があるか。
 社会学的に見れば、というかそんな大仰なことを言わなくても、「秘密」は権力を生みます。ある人間しかアクセスできないというものは、その人間に権力を与え、他はそれをめざそうとお金や活動をつぎ込みます。もっともこのためにはその秘密が非常に価値があるものだということだけは宣伝しなければなりませんが。
 また、「秘密」は集団帰属意識を作り出します。外に漏らしてはいけない秘密を分け持つことで、一体感・帰属の安心が生まれるわけです。こういったことは子供の社会でもよく見られます。

 以上は外側からの批判的見方ですが、「秘密」にはもっときちんとした宗教的な存在理由があります。
 その最大のものは、「素人がへたに扱うと、危険なことが起こる」という理由です。
 たとえば、降霊術や除霊術は、いたずら心や邪な心で行なうと、とんでもない災厄を招くこともあります。面白半分に九字(道教系の護身・除魔作法)を切っていたら、変な霊に憑かれたといった話があります。真偽は不明ですが、あり得ない話ではないでしょう。「こっくりさん」でおかしくなったという噂話は絶えません(かなりの部分は霊的事象への反感によって作話されているかもしれませんが)。霊的存在との交渉という、デフォルト状態の人間には馴れていないことを行なうには、それだけの自己統制術が必要になるわけで、それには一定の修練が不可欠です。当然、あまり素人には見せたり教えたりするものではない、ということになります。

 上記はテクニック部門の問題ですが、知識や情報においても、同じようなことがあります。
 この問題は微妙な部分を含んでいるのですが、「ある種の知識や情報は、ある種の人々には害になることがある」ということです。もっと露骨に言うと、未熟な魂に高度な真理を伝えると、場合によっては破壊的な作用をもたらす、ということになるでしょうか。
 たとえば、「絶対他力」という親鸞の思想(法然にすでにあったようですが)は、ある高度なレベルで宇宙の霊的様相を見た場合の認識であって、それは一定の宗教的探究をした人には意義深いものとなるでしょうけれども、果たしてこれを一般人に向けた教えとしてよいものか、私にはいささか疑問に思えます。そして、「念仏のみでOK」と同様、「絶対他力」も、悪用する人々にかかるととんでもない教えとなってしまうわけです。
 密教の場合は性的な問題を含む教え・修法もありますから、こんなものをへたな好奇心の対象にされてはかなわない。ただでさえ誤解を招きやすいものだし、こんなことを悪用されたらたまったものではない。高度なレベルまで教育を受けた者にしか教えない。それは当然のことでしょう。(悪用する人は何でも悪用するのでしょうが、宗教的諸真理は内包する力も大きいものですし、善きものが悪しきものになるのはやはり痛ましいものです。)
 だから、段階を踏んで教えていかなければいけない、という考え方が生まれるのは当然で、「これは限られた人だけの秘密」というものが出てくるのは致し方ない。

 ただ、こういう考え方は、人をレベル分けすることになるという側面があります。
 日本仏教史上の大論争の一つに、「三一論争」(三一権実諍論)というのがあります。最澄と徳一との間で展開されたもので、単純に言うと、「最終的には誰でも等しく悟れる」(一乗)とした最澄に対して、徳一は「人によって悟りの境地は異なる。悟れない人もいる」と主張しました(徳一の主張は法相宗の難しい教理から出ていますのでこんなにアホな表現ではありませんが)。
 別に私が判定する資格があるわけではありませんし、これは人間では答えることのできない部分だとは思いますが、現実的にはやはり徳一の見方が正しいのではないでしょうか。一乗論は「世界平和」みたいなもので、究極の理想かもしれませんが、それには数千年、数万年先の話でしょう。
 魂には古い・若いもありますし、霊統・霊系とか役割とかもあります。平等・等質というわけには行かない。ある真理はあるレベルの魂にしかわからない。イエスだってブッダだって、「聞く耳ある者は聞け」と言っているではありませんか。それは差別とは別の話です。
 だから、教えの面においても、ある程度の秘密主義はやむを得ないのでしょう。

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 ちなみに、スピリチュアリズムには、密教的部分はありません(神智学はばりばり密教ですが)。それは「万民の宗教」であって、知識や情報はすべてオープンにされている。隠された秘義や儀式などはありません。
 けれども、何でもかんでもフラットに、というわけではない。「あまり言い立てない」というところはあります。それは、たとえば未浄化霊の憑依といった問題です。カルデックのスピリティスムはけっこうそういうこともばんばん述べていますが、英米系のスピリチュアリズムでは、あまり触れない。それは隠匿・隠滅しているわけではなく、そういった恐怖を煽って信者を増やすというような「過去の悪しき轍」を防ごうという意味もあるでしょうし、恐怖や不安を与えることは霊的に悪効果を招くという判断もあるでしょう。また、神聖な光(真・善・美)を希求していれば多少のことはあっても必ずよい方向に行くという確信があるからかもしれません。
 もちろん、霊の目では明らかなこと、すでに知られていることなのに、人間に明かしてはいけないことというものもあるようです。「あなたたちはそれを知る必要はない」「あなたたちにはまだ理解できない」といった言葉は霊信中に散見されます。それは霊の側の教育的配慮ですから人間が文句を言えるものではありません。そしてそれは人類全般に対して適用されるもので、レベル分けして教えるというものではありません。

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 現代の風潮は、誰もがみんな平等、誰もがみんな同じレベル、という悪しき平等主義がありますから、達人主義や秘密主義は非難されがちです。
 でも、やはりレベルというものはあるし、達人というものはいるし、いてもらわなければ困るし、秘密にすべきものもあると思います。
 だから密教徒は、プライドを持って密教を探究してもらいたいと思います。そういう人でなければ知り得ない真実・叡智・技術というものもあるでしょう。ごちゃごちゃ言う人間には適当に煙幕を張っておけばいいだけのことです。「唯物論? そんなものは平民の宗教ね」「死後存続? そんなものは初歩中の初歩だろ」くらいのことを言ってほしいものです。
 ただし、達人、エリートには、平民よりはるかに厳しい倫理規定が適用されることは間違いないことでしょう。

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 まいったな。ちょうどこれ(と次回分の記事)を書いた後に、ちょっとしたシンクロニシティがありました。
 友人が現在は稀覯本になっているユング『夢分析Ⅰ』をオークションで入手し、見せてくれたのですが、そこにこんな記述がありました。考察は別にしてそれを引用しておきます。

 《彼ら〔マンダ教徒。バプテスマのヨハネ教団の残党で現在もイラクにいる〕は洗礼者ヨハネの信奉者であり、〔その聖典である〕『ヨハネの書』によれば、ヨハネは世間への対応(パブリシティ)をめぐってキリストと激しく対立しました。キリストは教えを世界に明かすべきだと考えますが、ヨハネは、それを明かすべきではない、なぜなら世界はそれを破壊するだろうから、と言います。〔中略〕『ヨハネの書』は、キリストを「欺瞞者」と呼びます。というのも彼は秘密を明かしたからです。キリストとヨハネのあいだに長い議論がありますが、それは最後まで決着をみません。彼らの主張はそれぞれ内向的視点と外向的視点からなされています。内向型のヨハネは「それを明かしてはならない、彼らはそれを損なうだろう」と言います。外向型のキリストは「しかし私はそれによって奇跡を行なうことができる」と言います。》(C・G・ユング/入江良平訳『夢分析Ⅰ』人文書院、2001年、316頁)

 ただしこれはあくまでマンダ教徒の言い分とそれに対するユングの解説で、私はこの観点にはちょっと賛成しません。


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