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【「私」という超難題】(13) 現実認識と自己客観化

2012-08-21 00:20:30 | 高森光季>「私」という超難題

 前のエントリで、現実認識や自己客観化を経ていない「幼児的ナルシシズム」について書きました。
 「私はすごい」「私が不愉快なのは誰かが悪い」「私が言うことは誰もが聞くべきだ」というような心性です。
 で、だいたい、成長の過程でこういう自己愛はぶっ潰される。「おめえなんか大したもんじゃねえ」「何たわけたこと言ってるんだ?」「てめえの問題はてめえで解決しろや」「現実なんてそんな甘いもんじゃねえぜ」とボロクソに言われる。
 で、傷だらけになって、ボロボロになって、現実を認識し、自己を客観的に観るようになる。

 まあ、心優しい日本社会(笑い)では、こういう過程を経ずに育つ人も多いようです。何せ、運動会の徒競走でも順位を付けない。人に順位を付けるのは心や人権を傷つけるからだそうです。あほか。「君は世界に一つしかない花」だから、誰にも馬鹿にされたり蔑まれることはあってはならない、とか。馬鹿にされたりダメ出しをされたりしないと、成長などしようがないでしょうに。
 で、幼児的ナルシシズムを卒業できない人たちがたくさん生まれる。

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 現実認識や自己客観化というのは、けっこう難しいものです。
 厳密な(懐疑的な)ことを言えば、絶対明証的な“現実”というものはありません。どんなに緻密に検証しても、観察者自身のバイアスは排除できない。これは現代哲学が解明したことです。(ちなみに言えば、「絶対中立」というものも存在しません。人間はどうやっても「中立で公正な判断機関」というのを持ち得ないわけです。報道機関や第三者委員会などが中立だと思うのは間違いです。)
 客観化というものも同じです。まあそもそも自己は自己を完全に客観化することは不可能です。

 そういうレベルの問題ではなく、それでも、「現実」を認識し、自己を「客観化」することが可能であり、しかも必要だということです。そしてそれもものすごく難しいことだ、と。

 現実を認識するのには、まずは理性や知識が必要です。自己の感情や情動を排除して、関係する対象を合理的に認知・判断すること。それに関する知識を持つこと。
 ある場所に橋を架けたいのなら、架けられる場所なのか、架ける意味があるのかを判断することと、橋の技術やコストに関する知識が必要なわけで、それ抜きに「架けたいから架ける」とごり押ししても通りませんわね。現実に対処するには、そういうプロセスが必要だということです。
 でも、それだけでは現実を捉えたことにならない。橋を架けるような単純なタスクだったら上記のことでいいかもしれませんが、現実というのはもっと多様な事象があって、それらが複雑に絡まり合っている。前にも書いたように、それは「複雑系」であって、人間の知性では捉えることができない。
 そしてしばしばそれは「不合理」「不条理」として立ちはだかる。

 理性や知識が及ばないところをカバーするのが「知恵」です。
 「知恵」というのは、人生の経験を積んだ人が経験的に知った一般則とか、天才が直観した真理とか、そういったものの蓄積とかです。
 商売の知恵とか、職人の知恵とか、聖者の知恵とか、いろいろあるでしょう。
 たとえばイエスの発言とされている「後のものが先になり、先のものが後になる」とか「持っている者はもっと与えられ、持っていない者はわずかに持っているものまで奪われる」といったものは、彼独自のものか、当時の格言なのかは不明ですが、とにかく「知恵の言葉」です。旧約聖書にはこういったものをまとめた文書があります。仏陀の言葉としてまとめられているものにも、たくさんの知恵の言葉があります。
 知恵は、絶対的に正しいわけではありませんが、けっこう急所を突いているものです。「後のもの」という言葉は、「後進の地域・領域から新時代の萌芽が現われる」というようなことで、よくあることですがいつも正しいわけではない。でも、そういうことがあると知っていることは役に立つ。知識のようにそのまま使うのではなく、全体像を掴んだり、コツを会得するために用いることが多いかもしれません。
 (ちなみに、知恵というのは断片的な性質のものですが、これが総合され、倫理的・哲学的、あるいは霊的なものまでカバーするようなものになると、“叡智”と言われるようなものになるのでしょう。)

 われわれは理性や知識を使い、さらには先人の知恵や自ら経験して得た知恵を使って、ようやく現実とはどういうものかを知る。その像はそれぞれに違いがあるし、不確かなものですが、それによって一定の「妥当な生き方」ができるようになるわけです。
 同時に、現実とは不合理・不条理なものであって、自分の味方ではないことも知る。自分はごく小さな存在に過ぎず、能力もエネルギーも限られていることがわかる。それは「幼児の全能感」が崩壊する苦いプロセスです。

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 自己客観化というものも、難しい。
 理性や知識による、妥当な自己評価、自己相対化ということも、一つの方法です。
 お釈迦様のエピソードにこんなのがありました(うろ覚えで細部は間違っているかも)。
 「ある女性が子供を喪って我を忘れるほどの悲嘆に陥っていた。そこでお釈迦様は、供養をしてあげるから村を回って、“家から死者が出たことがないという人”からお米をもらって来なさいと言った。女性は指示に従って村を回ったが、死者が出たことのない家はどこにもなかった。そして女性は、家族を喪う悲しみが、自分だけのものではないと悟った。」
 まあ、こういう“頭での理解”は激しい感情を抑えることができないこともあります。住む立派な家があって、年収も高いのに「不幸だ」と嘆く人はたくさんいます。
 けれども、自分が直面していること、抱えている問題(特に悲劇)が、自分だけのものではなく、世にはもっと困難なものがあると知ること――理知による相対化――で、「過大な評価」には陥らずに済むというのはあり得ることでしょう。

 しかし、真の自己客観化というのは、そういう知的なものではなく、「私自身をきちんと対象化して観る」ということではないかと思います。
 それは、「肉体の問題や心の問題に振り回されている私」を、それを超えた視座から見据えるということではないか。このカテゴリの(11)でちょっと書いたような、「考えたり感じたりしている私をさらに観ている私、あちゃこちゃ右往左往する私をいろいろな感懐を抱きながら観察している私、さらには『私とはなんだろう』『世界とはなんだろう』と問いかけている私」であり、「純粋な観察・感知主体としての私、私自身の動きをも対象として認知する私。しかも単なるモニターではなく、なにがしかの意志・力を持った私」。それをしっかりと獲得することが、本当の自己客観化への道ではないかと思います。(そのためには瞑想とか心理鍛錬・訓練などが必要かもしれません。)

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 なんか難しくなっちゃいましたね。
 でも、けっこう難しいものなんじゃないでしょうか。すっと現実を正しく認識でき、すっと自己客観化できる優れた魂もいるでしょうが、少なからぬ人は、我欲や自己愛で歪んだ見方にとらわれている。幼児的ナルシシズムをなかなか卒業できない。だからいろいろな問題が起こる。

 ただ、世間に出て働く人というのは、こういう現実認識や自己客観化を、仕事の中で鍛錬されるわけですね。中には全然できずにただ上司にゴマすって地位を得て、碌な仕事もせず部下をいじめるというような悪辣な人間もいますけれども、多くの人は懸命に理性を使って知識を得て、先達・先輩の知恵を学び、自己の能力や立場を客観化して生きている。中には肉体や心の問題に振り回されない「私」を獲得している人もいる(「胆力がある人」などというのはこういう人のことを言うのでしょうかね)。
 そう考えると人間社会というのはそれなりの深い意味があるのかもしれません。
 多様な、全然毛色の違う魂と出会い、ぶつかったりしながら苦労していくのも、正しい現実(魂が多様であること)を認識し、自己の魂の姿をはっきりと知るために、必要なことなのでしょう。
 まあ、そう捉えると、しんどいこの世は、スピリチュアリズムの霊信が言うように、「魂の成長にとって必要な鍛錬の場」ということになるのかもしれませんね。
 そういう意味でも、幼児的ナルシシズムで留まってはいかん、と。

 とはいえ、あまりに現実的、客観的(特に知的相対的)になりすぎると、別の問題も起こってくるようです。それはまた。


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