信仰についてお話すると、実は息子も私と同様 信仰者です。
私が信仰を持ってからしばらくして、息子も神様を信じるようになりました。
彼は20代中ば、信仰よりも他に何かやりたいことがあるだろうと考えていた私は、息子を本気で伝道したことはありませんでした。
しかし、彼は自分の人生における最大の疑問であり悩みだった答えを信仰の中に見出し、自らクリスチャンの道を選びました。
しかし、彼は自分の人生における最大の疑問であり悩みだった答えを信仰の中に見出し、自らクリスチャンの道を選びました。
彼は大学中退後、仕事に就いたことはありません。
彼の仕事に対する考え方は世の中的に見ると単なる我儘であり、働きたくないがための言い訳に過ぎないと誰もが感じると思います。
私もずっとそのように思っていました。
その考えとは、自分にとって最も適した仕事、天職は何か、それが分かるまで仕事には就かないということです。
彼の仕事観は以下のようなものです。
仕事は1日24時間の生活の中で大半を占め、人生を幸福に生きられるかどうかを左右する重要なこと。
人生を充実させることができるのは、趣味や娯楽ではなくあくまでも仕事。
自分にとってこれしかないという仕事が見つかれば、寝食を忘れるくらい夢中になれる、そのように自分は働きたい。
サザエさん症候群のような日本人の仕事へのネガティブな意識を知るにつけ、彼の仕事観は益々揺るぎないものになっていきました。
「妥協して仕事を決めてしまうと、結局、いつも辞めたいと思いながら嫌々仕事をすることになる。そのような大人の姿を子どもに見せてはいけないのではないか。」
確かに彼の主張も一理ありますが、「仕事をしないと のたれ死んでしまうよ」と言い返すと、なぜこんな窮屈な社会に自分を産んだのか、生きやすい社会に変えてから自分を産んでほしかったと厳しく指摘され、話し合いはいつも平行に終わります。
息子には発達障害に起因する「強いこだわり」があります。
想定外の事態に対して臨機応変に対応できず、気に病むと立ち直るのに時間を要します。
日本では場の空気を読むことが重要視されますが、彼にとって想像力を働かしたり忖度したりすることは苦手そのもの、日本の職場は息子にとっては戦場に近い場所なのです。
更に彼の場合、父親の暴力によるトラウマから怒られることに対する恐れがいまだにあり、職場でミスをしないようにと必要以上に神経を使い過ぎることは目に見えています。
万が一就職したとしても、精神的に破綻するのは時間の問題、彼が仕事に就くことは難しいと感じていました。
彼は以前何度かアルバイトを経験していますが、精神的に辛くて数回働いて辞めました。
彼自身、このような自分の特性を鑑み、仕事に就くことを回避するためにこのような主張に固執しているのではないか、私はそのように勘繰っていました。
しかし、時には感情的になってお互い何度も議論を戦わせる中で、私の考えは次第に変化していきました。
続きます。
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