Serendipity -セレンディピティ-という言葉があります。
これは、私が3年ほど前……
ってもう3年前!?と書きながら驚いておりますが、
2019年頃に、私は岩手県で働くことになりました。
この言葉は、そこで知り合った方が教えてくださった、今でも印象に残っている言葉です。
その頃、私は前の記事で書いたとおり、
新天地でさあ頑張るぞとしてはいたのですが、
当時社会経験のまったくない22-3歳の青二才(韻踏んでる)が、
いきなり数ヶ月前まで名前も知らなかった土地で、
トントン拍子で社会貢献的なことをする立場になったものですから、
まぁ手も足も出ず。
おまけに高校生あたりからその頃くらいまで、ずっと簡単に言ってしまえば鬱のような感じだったのです。
心療内科系の病院にも通ってました。
これは、同じようなケースの方々の助けになればなぁと思って、最近は多少重い話でも忌憚なく話すようにしています。
こういう過去は伏せる方々意外と多いんじゃないかと思ってはいるのですが、私は敢えて伏せません。
話すことで、私自身が過去のものとして消化できるというのもありますし、
なにより、今は完治している(寛解している)と言いきれる自信があるほど、私は良い状態になれているからです。
本当に、人のご縁のおかげ様です。
さて、
人のご縁という言葉をちょうどよく出せたあたりで、
セレンディピティの意味に触れます。
ネット辞書からヨイショヨイショするとこういうことです。
セレンディピティ◆別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能。
もともとはざっくり言えば英童話からの造語らしいですが、英単語として浸透しているかと。
また才能となってはいますが、その事象自体も意味に含まれるのかと。
私は、この言葉を、
見ず知らずの土地で、「人のためになにかしなきゃ」という義務感からの"やらなきゃ"に自ら押しつぶされに行っていた中で、
唯一自分が心から興味のあった、音楽(音響)というもので自分から繋がりに行った、
昔の真空管アンプに始まるようなステレオと、それらでジャズを聴くのが大好きな素敵なおじ様から教えていただいた言葉でした。
(探したら見せてもらった真空管アンプの写真がありました。懐かしい。)
そのおじさまは、機材にとても興奮して食いついている私に、
「私は『邂逅』と『セレンディピティ』という言葉が好き。」と、
おそらくジャズ、かつての名作などの知見から得た言葉と察することができる雰囲気で、私に話してくれました。
邂逅の意味もセレンディピティと辿れば似ていて、
思いがけなく巡り会うことという意味。
ちょっとセレンディピティの意味合いが色々含まれている感じで、未だに解釈が難しいですが。。。
この言葉の意味の豊富さ、壮大さ自体が、まさに言葉にしきれない偶然というものを表しているな…と思います。
「あなたと出会ったのも、何か意味があるのかもしれないね。」
おじさまはたしか、そんなことも言っていたようにうっすらとですが覚えています。
当時の私は、本当に心が死んでいて、笑ってるようで心にまでは届かずに笑ってないみたいな状態でしたが、
そんな中でも、そのおじさまや、以前のブログでも紹介していたEさんやIさんなど、その他もちろんたくさんのご縁もあって感謝はしていますが、やはりそのセレンディピティ現象的な?ものを知るキーパーソンとなる方ような方がいらっしゃって、
乾いた心にも残るような出来事だったんだと、本当に奇跡のようなものを感じます。
そしてその後の発展をつなげていく過程もまた、セレンディピティがそこにある感。
点と点がつながる感覚。
今となっては本当に、その出会いには意味があったのだと感じています。
そもそも偶然や巡り会いは普段当たり前のようにどこにでもあることであって、たぶん感度の違いや、カメラのピントがタイミング的に合うか合わないかの違いみたいなものかな、と思います。
偶然隣の席になった、
偶然同じ場所に居た、
偶然タイミングが合った。。
それらを偶然だとして見なければ、それは偶然ではないから。
電車で隣に見ず知らずの人が座っても、「奇遇ですね!!」という話にはいきなりならない。
然るべき経験があって、初めてそこにピントが合うようになって、はじめてその"点"に気づくこと。
ストーリーがあること。
そしてそれがつまるところ縁である。。。
偶然というものは、常に起きていて、
それはつまり常に起きている奇跡だけど、それに気づくには過程が要る。
私はそれをちょっとばかり多くありがたく思えたのか、
本当に、運が良いといいますか、ちょっとばかり点と点を繋げやすい(繋がったと思いやすい)ひとだったのか、
特にややオカルティックな面では取り柄はないと思っていましたが、
セレンディピティ、
そんな名前の誰しも持つ才能にだけは、ちょっとばかり早く、気がつけることができたのかななんて思ったりします。
道端の名もない花に気づけるかどうか。
誰だって、みんな、気づけた瞬間には、愛でて幸せになる力は持ってるはずですもんね。
まずはそのおじさまに、私がつなぐことのできた点となるものをいただけて、ありがとうございました、ですね。
ほんとに、こういうときのために、「有り難い」という言葉があるんだなぁと思います。
きっとこのブログは、様々な伏線で繋がったセレンディピティ物語を綴っていくんだろうなぁ。
その後のセレンディピティさん(?)たちの話はまた別記事で。
いつもありがとうございます。