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これは最初の投稿である。
自叙伝「孤高の歩み孤高の歩み」あとがきより
人生の中で誰でも自分はなぜ人間存在として存在しているか? その存在理由や意味、意義、或いは何をすべきか? などの疑問が個々人の差こそあれ生じる。私自身がそうであったようにこの根源的問いは程度の差こそあれ、過酷な魂の試練が襲ってきた時に強く生じる。
我々には如何なる状況や環境にあれどもその環境状況を変え得るものが具わっている。時空を超えて個人の魂を普遍的高みへと至らしめる神性、仏性の萌芽が誰にでも宿っている。その萌芽を育成するのは我々人間、個々人の課題である。
我々人類に託された普遍的自我へと至る道筋は各自に応じて違うとはいえ確実に各個人に委ねられている。
今日の時代は相対的世界観が個々人の魂に猛威を振るい浸透し始めている。相対的世界観は同時に生きる方向性・意志を喪失した虚無的世界観と化す。この虚無的世界観に呪縛された魂は動物的低次の刹那的衝動の言動になりやすい。
これは世界の各国家、民族、種族にも当て嵌まる。現状ではこの状況を打破するのは容易ではない。
だが、時期が来れば、この自叙伝の意図を理解把握し受け継ぐ人物が出現するであろう。これは人類進化のために魂から魂へと時空を超えて受け継がれるものだからである。そのような歩みをする人物の一助、参考、里程標となるべく私自身が実生活で体験してきた魂の変容と活動のプロセスを残すことにした。(自叙伝「孤高の歩み孤高の歩み」あとがきより)
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あとがきより抜粋
人生の中で誰でも自分はなぜ人間存在として存在しているか? その存在理由や意味、意義、或いは何をすべきか? などの疑問が個々人の差こそあれ生じる。私自身がそうであったようにこの根源的問いは程度の差こそあれ、過酷な魂の試練が襲ってきた時に強く生じる。
我々には如何なる状況や環境にあれどもその環境状況を変え得るものが具わっている。時空を超えて個人の魂を普遍的高みへと至らしめる神性、仏性の萌芽が誰にでも宿っている。その萌芽を育成するのは我々人間、個々人の課題である。
我々人類に託された普遍的自我へと至る道筋は各自に応じて違うとはいえ確実に各個人に委ねられている。
今日の時代は相対的世界観が個々人の魂に猛威を振るい浸透し始めている。相対的世界観は同時に生きる方向性・意志を喪失した虚無的世界観と化す。この虚無的世界観に呪縛された魂は動物的低次の刹那的衝動の言動になりやすい。
これは世界の各国家、民族、種族にも当て嵌まる。現状ではこの状況を打破するのは容易ではない。
時期が来れば、この自叙伝の意図を理解把握し受け継ぐ人物が出現するであろう。これは人類進化のために魂から魂へと時空を超えて受け継がれるものだからである。そのような歩みをする人物の一助、参考、里程標となるべく私自身が実生活で体験してきた魂の変容と活動のプロセスを残すことにした。
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拙著「小林秀雄論」より
「未知のものに達する。そして狂って、遂には自分の見るものを理解する事が出来なくなろうとも彼はまさしく見たものは見たのである。」又「他界から取って来るものに形があれば形を与えるし、形のきまらぬものなら形のきまらぬ形を与える」(ランボオⅢ、千里眼の手紙)しかない。確かに、形になり得ぬものがある。
カメレオンは色だけだが形は変容しない。ましてや、人間の複雑な心となればなおさらである。形にならぬ形、ある秘められた実体というものは確かに存在する。小林秀雄がある友人に語ったように「じっと見つめているんだ見て見て、見抜くまで見つめているんだよ、ただ見抜いただけではいけないんだよ。そこまで来たら、さっと底の底まで知りつくすことが出来るようにならなくてはいけないんだよ」と、この地点まで至らねばならぬ。そこまで至ればすでに対語など不用になる、つまり「以心伝心」の境地だからである。
青山二郎との対談の中で小林秀雄は日常秘めていた本音を語っている、彼は言う「否定する精神なんてないさ。僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。最後はあすこなんだよ。キリストが芸術家に見えたのだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば自分が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうふうなひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。――」。
さらに、「牧師だって絵かきと同じだ。」と。又、「――何のためにパレットを人間が持たなければいけないのだ。絵の具を混ぜなければいけないんだ。どうしてそんなまわりくどい手段を取るのか、キリストみたいに一目でもって人が癒されればいいじゃないか。何んで手が要るんだい、道具が要るんだい、ゴッホはそういうことろまで来たのだよ。だけどそれがゴッホの運命さ、そんなことをゴッホはとてもよく分かっていたのだけれども、どうすることもできなかったんだ。」と。そのゴッホの痛感した、味わった「いかにかすべきわが心」を、小林秀雄も骨の髄まで味わった。
青山二郎はそんな思いは「あこがれ」にすぎぬと言う。この溝は深い、――。小さな円も大きな円も同じ円だからである。ただ青山二郎はそこまでしか見えなかったにすぎぬ、人間存在に対する不信が完全に払拭し得なかったに過ぎぬ。その視点からすれば小林秀雄は所詮「蒸気ポンプ」の煙にすぎないのである。もしくは魚をつる、その手つきだけで、等々。だから小林秀雄としては「――自分の運命を甘受するんだ。甘受するよりしょうがない。考えればそういうところに行くのだよ。」と言わざるを得ない。断わっておくが、青山二郎に友情が無いなどとここで言っているわけではない。むしろ、深く小林秀雄には同情している、ただ、その同情のべールが小林秀雄の真意を汲み取ることが、観ることが出来なかったにすぎぬ。――だから小林秀雄は自分に与えられた運命を「甘受」する、するしかないとしか言えぬ、語れぬ。
小林秀雄は「魂の深淵の旅」の成果を確かめる、再確認の意味をも含めた実験的表現を「近代絵画」で試みた。出来うる限り他者の魂の在り方、意図、心の動きに即して、――魂の遠近法と透徹した科学者の無私の精神をもって。自らの「自我の奥底を覗き込んだ芸術家達」の肖像画を描く。
「マネからゴッホやゴーガンに至る道は、ボードレールからランボオやヴェルレーヌに至る道であった」と。そして、それを日常化する思想家的存在として「ピカソ」を最終章にもってくる。小林秀雄はピカソを自分と似た「宿命」を胸中深く蔵した存在と、観た。ピカソのなかに「自己解体」の果てに至った自己の「断片」をいかに、個人の名において「生命的に統一」するか?と真摯におのれの問題と化した、果した芸術家の魂を観た。観えてなを、それを「宗教の名」において語らず、「体系」の名において語らず「いかに自由に」表現しうるか?と、日常化しうるか?と、――ピカソは「万人の自画像」を描こうとした。その内的歩みにどれほど深く秘められた孤独と、悲哀、絶望がピカソを襲ったか、いかにそれを乗り超える内的努力をし続けたかを、小林秀雄の慧眼はしっかと見抜き、見据えていた。ピカソに対して一番長い文章を必要としたのはそのためである。そこいらの美術評論家の上っ面をなでるような分析的表現とは雲泥の差がある。「近代絵画」は小林秀雄の心が「素裸」のまま、存在と存在が融合しつつ、ぶつかり、火花を散らし、そして「親心の眼差し」で、深い共感をもって現わした、かつてないほど比類なき芸術家の「魂の肖像画」なのである。
歯ぎしりが楽音に、忍耐が空間へ、悲哀が慈しみに、孤独と苦悩が魂と魂の生きた織物へと、――ついに、毒が薬へと変容する。肉を具えた「同胞」への限りない「深い真面目な愛」が日常の意識と化し、不動のものとなる。次の文章は小林秀雄の批評の極意と言ってもよい。
「セザンヌは、自然というところを感覚と言ってもよかったのである。或は感動とか魂とか言ってもよかったであろう。感覚を解放するとか純化するとかいう事は、感覚から感受性を隔離するということではない。そういう工夫は、感覚に対する言わば外的注釈にすぎない。在るがままで、自足しているが、望めば望むだけいくらでも豊かにもなるし、深くもなる。そういう感覚はある。画家たらんと決意すれば立ちどころにある。静かに組み合わせ、握りしめた両手の中にある。一方の端は、自然に触れ、一方の端は、心の琴線に触れていて、その間に何の術策も這入って来る余地はない。大事なのは、この巧まない感覚の新鮮な状態を保持し育成する事なのだ。彼の言葉に従えば、油断すれば、あらゆる言葉となって、行動となってばらばらに散って了う、この不安定なものを繰り返し、静かに両手のうちに握り合わす事なのだ。『いつまでも、自分の開いた道の原始人に止まろうと努める事なのだ』。自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事だ。セザンヌの実感或は信念よりすれば、自然にも心の琴線があるという事である」
(拙著「小林秀雄論」より抜粋)
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「表現についての一考察」
この感想の如き拙文は今から34年程前に書いたものであるが、今日でも充分通用する内容を含んでいる。無論、この内容に対する異論反論は百も二百も承知の上で敢えて掲載する。
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「表現について」
今日、あらゆる分野の「表現」の核となっている世界観は相対的ニヒリズムと言っても過言ではない。この現象自体は極めて矛盾に満ちている。
それにも関わらず自覚無自覚を問わず個人の魂を魅了している。生成死滅する感覚界においては確かに生存自体が無意味で一切が相対化されうるとの思考は可能である。だが、この一思考の結果が生存即無意味であると判断するのは誤りである。世界に対する態度としての、一切の偏見や公正な一視点としては自明の如く必要ではあっても、この視点から思弁によって導き出された世界観などあくまでも唯物論の範疇にすぎない。
確かに自然科学的考察においては自明である相対的思考にすぎぬ視点が人間生存の世界観となり目的となれば、個人の個人たる足場は消失し自滅に至るのは当然である。それにも関わらずファッションの一意匠として威力を奮い我々の魂が好んで魅了され酩酊するのは何故か?(敢えて精神とは言うまい。)通俗的な言い方をすれば味噌も糞も一緒くたにしてしまえば都合がよいからである。
「全ては等価値にすぎぬ」と、個々人の魂に何と心地よく響く言葉であろうか。さらに弱肉強食のおまけ付きとくればなおさらである。一切の価値が相対化されるとは一切の基準の無を意味する。その限りにおいては自由も不自由も無ければ善悪の区別も無い、さらには全て個人の責任においての選択の自由とくれば何でもござれである。個人という存在すら相対化され、当然なことに責任や倫理という概念すら消滅する。かかる一切の境界を消し去り、好き勝手な言動何でもありということが可能な魔法のごとき思考、思想を誰が拒もうか。 この物質界のみ当てはまる一思考が芸術、文学、思想界に君臨し、一般化されて久しいが、かかる現象は単に世を混乱退廃させるだけではなく無自覚な社会的集団狂気へと変貌させるのは必至である。
しかし、個人の魂において不可欠であった相対的思考は内実を伴わず伝播したとはいえ、総体として厳密に考察すれば決して悪しきことのみではない。腐食した土壌が生物の養分となるように、環境に呪縛されずに貴重なるものが成長することも又可能となったのである。その意味では自己認識においてはやっとスタート地点に立った、と言うこともできる。だが、このスタート地点以前の存在達が時代の最先端にいる、と自負しては社会でのさばっている。(最も、時代の流動推移する色合いにすぎぬ彼らは攻撃するまでもなく放置していても単に無知愚鈍なるがゆえに自然消滅するであろうが。)
換言すれば相対的世界観とは悪しき無常観でもある。本来の相対的意識は表現方法としては抽象表現の母体にすぎない。くどいようだが一切の価値転換とは全ての事物(不可視なる霊魂、想念をも含む。)に対して無偏見視、透明な眼差しの獲得に他ならぬ。それ以上でも以下でもない。故に自己探求の途上で抽象表現に至った作家達は東洋的世界観に強く惹かれた。自己滅却したうえでの自己保持が如何にして可能であるか?純粋な関係性のみの関係の意識のみで如何に自己意識を保ちうるか?と。さらには解体された過去の論理体系は全ての支点を喪失し、個人は言語的矛盾に陥るどころか完全に失語する。 だが、依然として思考自体は個人の思惑とは関係無く活動する。なぜなら思考自体はそれ自体で独立した意識存在なのである。換言すれば純粋思考存在である思考は我々が人類として存在するように思考存在も思考存在として完成した独立存在として我々に与えられている。
この思考自体の存在の自覚無自覚の度合いに準じて分析の緻密さの濃淡が存する。哲学的用語を使えば先天的即自的に我々人間に備わっているのである。我々に何時何処で何の為、誰が等々の問い、あらゆる問い「備わっているということ自体何故分かるのか?」という問いにもこの即自的普遍存在であるとしか言えない完成されて独立した思考存在の助けを必要とする。この最も重要な本質的、根源的考察自体がはなはだ不明瞭な為に分析の基本となるべき言語、概念が曖昧に使用され論理矛盾に陥るのである。
「最初に思考在りき」が意識無意識を問わず前提となる。この我々自身を対象化、考察する道具としての思考存在を前提として思考しなければ一切の分析思考は迷走混乱するのみである。
さて、話を戻すと我々にとって知覚する対象(世界の全て、概念も含む。)を相対化した以上単なる名称無き「ある意識」としか言えない。全ての概念は思弁的な仮の命名にすぎない。いわゆる意識という言語ですら思考によって分析判断命名された一概念である。(無論、思考という言語も然り。)さらには知覚する対象、或いは知覚する機能が停止、消滅すれば一切は無(無論、物質界、感覚的現象界においてのみだが。)と化す。
生成死滅する現象界に限定した観念的世界観、これが「世界は表象にすぎぬ」という素朴な世界観となる。物質界を基盤とし、知覚する対象自体、それを知覚する主体である個人の自己意識の消滅と共に一切が無と化す。何のことはない元の木阿弥ということである。かかる結論に至るような思索や問い自体のみであるとすれば最初から思考停止の状態で獣の如く生きればよいことである。一切は屁理屈というも愚かである。確かに此の限定された物質界に依存従属した存在であれば、それが全てであれば至極自明というも無用である。
だが、我々は人類という考える生物でもあり動物でもある。此の実体を伴わぬ虚無観に不満を抱き、更に先に生存の意味を探求し、結果的には似た視点に至るもその無意味な生存を丸ごと受け入れて生きるのが人類の運命であり常に超克する意志の存在、すなわち超人が人類の課題であるという世界観、かのニーチェの「生命哲学」と称される唯物論を土台とした徹底的な個人主義が生まれ、さらにそのいびつな落とし子として実存主義なる唯物論を足場とした矛盾を孕んだ観念的世界観が生じた。この事情は詳細に語るまでもなく、他のシュールリアリズム、ダダイズム等々はその範疇の一実験にすぎない。一切の基準を無くしたら単なる無自覚な生物にすぎぬ。ましてや自己意識すら持たぬ存在に表現自体不可能である。
生存の為の生存、生物的生、自然の摂理に依存しなければ生存自体が不可能であることなど、考えずとも子供でも分かる単純な理屈である。だが、この単純な問い自体が未解決のまま現在でも最先端の思想としてまかり通っているとは、形容し難い悲惨な光景である。
我々は紀元前からの人類の基本命題である「汝自身を知れ」という自己認識の困難さを克服するどころか未だ無知の知の実体すら朦朧たるものとしてしか認識していない。否、それどころか現状では真摯な自己探求の意志を自ら放棄している、と言ったほうが事実に近い。
今日の我々の意識の在りようは約二千三百年前の荘子の世界にのどかにじゃれあう児戯に等しい。さらに三百年ほど遡る孔子の厳しい実践的意識を前にすれば実存主義思想、それに準じる思想哲学など赤子の如きである。
1989年某日