創造雑感

創造雑感ノート

「おふぇりや遺文」

2023-10-17 04:39:42 | 創作雑感

 

これは10数年前に書いたものです、、。。
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「おふぇりや遺文」


小林秀雄の数少ない創作のなかでも『おふぇりや遺文』ほど批評家を悩ますものもあるまい。 

またこの『おふぇりや遺文』に言及しているものもそうはいまい。 
かのシェークスピアの代表作である『ハムレット』。 
その恋人であるオフェリヤ。 
小林秀雄はオフェリアの秘められた哀しみ、魂の奥底を観る。 

気がふれて入水自殺したこの女性にひとは何を読み取るのであろうか? 
ロミオとジュリエットの対極に位置するかのような、この作品。 
作者が主役を引き立てるために必要としたのか?未来無き絶望とはこのように死に至らしめるのか? 
華々しいものではない、平凡な悩みのヒロインの物語。 
この一見何気なく何処にでもありそうな心理を何故選び描いたのか。ここに小林秀雄の秘密が見え隠れする。 
観ようと思えば何処にでも『真理』はそこかしこに転がっているのだと。 

和やかな眼だけが恐ろしい、と言い切る小林秀雄。 
大義名分やヒロイックなるものは平凡人にはたまらなく刺激であるか。 
では日常の自分達の実生活はそれほどつまらなく退屈であるか。 
無能有能とは如何なる基準をもってすべきや否や。 
主人公と脇役とは如何なるからくりであるか。 

諸君、しかと見たまえ、君たちの足元にあるものを、とでも言いたげな小林秀雄の名状し難い音調を聞くのは私だけであろうか? 


この拙い感想と引用文を、世の鋭敏と称される批評家に無視され続ける『おふぇりや遺文』に捧げよう。 
「なぜ、あなたはいつも横を向いていらしたのか、なぜ、わたしの無邪気を育ててはくださらなかった。何もかも黙って見ていらしたのじゃありませんか。育ててくださったら、どうしてわたしは無邪気が悲しいものだなどと申しましょう。無邪気がこみ入っているなどともうしましょう。」(おふぇりや遺文より)

 


私の作品集と詩朗読ライブ写真。

2022-04-30 21:40:23 | 創作雑感

私が銀座で「ギャラリーケルビーム」を経営していた時に出版した。

1990年、40歳の時。

この年の暮れに肺結核で入院。

当時人間関係で超多忙、一番重要な時期に頑丈だった自分が病院に閉じ込められた、、何とも如何ともし難い想いであった、、。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結核になった年の夏

高尾山に登った時、登っていた時に息切れが激しかった、、。。

 

 

自分の画廊で、朗読ライブは毎月のように開催していた。

この時は「宮澤賢治」の詩であった。

既に結核の兆候が見られる、、

注:写真が反転しています・m・;当時はフイルムカメラしか無かった、、すみませぬ、、。。

 

 

 

これはアルトナン・アルトーを読んだ後のもの

ライブ会場が酒を出す店であった為に酔った客が「この悪魔~!!」とカウンターをが蹴り続けていた。

その客を見たときの写真。

この年の暮れに結核で入院。


「件p表現の命名」

2009-12-01 04:45:00 | 創作雑感
「件p表現の命名」

 現代美術という名称は甚だ短絡的な命名である。

今という時代に生きて表現している作家達は例外なく「現代の表現」であり、その表現内容が如何なるものであれ「現代美術」に属する。
 今日の状況を自覚・認識し得た者のみが「現代美術家」あるいは「造形美術家」等々、いかにも今風の意匠を纏い、自分だけは現代に即した表現をしている、といった錯覚に陥っている。

 なかでも特に滑稽なのは「概念美術・環境美術」と称する作家の群れである。彼等は単に今日を生きているというだけで過去の作品や世界観を否定する。その彼等自身は抽象表現が何故生じたかの考察抜きで時代の風潮に依存している。また、たちの悪いことに、情報的知識の継ぎ接ぎの貧相な自称批評家達に媚を売っている作家が少なくない。
近代精神である相対的視点による件p表現の考察は足場を失い方向を失い、出口なし状態であり、この出口なしの状態そのものが表現の基盤である、との大いなる錯覚混迷を「現代美術」と認識し、称している。これは悲惨というも滑稽な光景である。

 相対的意識そのものは「偏見を消し去る」ための一視点にすぎない。抽象表現の作家達が禅や東洋の思想に惹かれたのは足場無き足場をどうやって維持するか?との自己矛盾を打破せんがためであった。だが、その彼らとて真に自覚していた訳ではない。

 近代人の悲劇と云われるものの決着は未だついてはいない。多少鋭敏な感受性や直感力を具えていた者のみがこの「問い」に関してジタバタして斃死していった。この事情が時と共に情報的知となり、今日の作家もどき、評論家もどきが時代に合わせて乱用している。
 真に今日に生きるものが成さねばならぬ表現とは「創造的能動的意志」を核とした広義の意味での実践的表現なのである。
自分自身をも単なる一素材として大いなる生成活動の一環として組み込む事、これ以外に今日・現代の表現は存しない。

 個々人が大いなる一環としての個々人である、ということを知らしめる未知なる創造表現を目指さなければ、今後の件p表現は衰退と不毛の無用皮相なる趣向物と堕すであろう。

「表現の本質と人間存在の本質について」

2009-11-12 09:53:00 | 創作雑感

「表現の本質と人間存在の本質について」      2009年7月29日

(1)

 仰々しい表題である。だが我々は人間存在として生存していく以上この問いから逃れることはできない。否、逃れようにも逃れられないのである。
 仮に我々に思考というものが備わっていなければこの問い自体が成立しない。
ただそれは単に動物以上でも以下でもない、というにすぎない。もし思考という道具が備わっていなければ自己認識、つまり私・自我意識は生じえないからである。

 この考察は、私が前から何度も繰り返して言い続けている内容である。

 私という自覚が無ければ世界も他者も認識の対象たり得ない。
 ただこの我々の用いている思考とは単なる個人の所有物でもない。我々人間に本来備わって、用いている普遍的な「思考存在・実体」でもある。この思考の考察、頗る重要な問題は今日の時代に至っても厳密には考察の対象にはされていないのが実情なのである。
 我々は如何なる時にでも思考を用いている。思考の結果我々は様々な、或いは各個々人に相応しい行為に及ぶ。
 この思考に関する考察という問題は共通の意識状態、基盤に立たぬ限りは限りなく紛糾する。思考そのもの、思考の実体を物の如く指し示すことは出来ないからである。この考察自体が其々各自の主観に基づくもののとして簡単に処理されてしまう。此処に紛糾の問題が含まれているのだが、これは感覚界にあるあらゆる事物を知覚するようには知覚できない、という単純な理由による。
 万人が共通に認識し得るような数量化不可であるという、これまた単純な根拠に依る思考法が殆どの魂を呪縛しているからである。これを物神思想とも言う。この物神思想とは唯物論的世界観的思考法を基盤とした極一般的な私を含めた世界に対する認識法なのである。この呪縛を打破するのは容易ではない。
 私が死ねば知覚する「主体」である「私」は消え去る。私が消え去るとすれば「知覚する私」が存在しない以上は世界を知覚することは不可能である。ゆえに「私が消滅すれば世界も消滅する」という彼の有名な唯物論的基盤に立脚した観念的世界観が生じる。この世界観は今日でも衣装、概念は違えど殆どの哲学者と称する存在達の魂に根深く巣食っている。この世界観が既に日常的に、習慣的に用いられている。
 
 さて、これは日常生活を営む人々、存在だけではなく件p表現する存在達の魂をも深く浸食しているのである。
 近代から現代に至るまでに個々人を襲った受難劇とも謂える悲劇劇は今や意匠となって件pを蹂躙しているといっても過言ではあるまい。

 先日或る先駆的抽象画家に対して知名度のある学者と文学者がテレビで語っていた。実名を挙げても大して意味はない。殆どの自称他称博学、識者と称される人物の代表のようなものだからである。

 抽象表現形式が生じた要因は必然的なものである。これは思考の考察にも似た困難な問題を含んでいる。
 簡単に言えば、無知の知や不立文字、相対的意識、虚無、空等々の概念、意識状態と同質の意識状態、或いは自己認識の個人の限界の自覚であるが、これは到着点ではなく此処の地点が真のスタート地点である、と言えば大抵の人物の思考は混乱する。単に事物を公平、純粋に偏見なく観る一視点にすぎぬ、と言い切れば反感さえ抱かれるであろう。
 さらに換言して言えば「我々はやっと自己認識の真のスタート地点に立ったのだ」と。この物言いは「おまえは何様のつもりだ、偉そうに」と。傲岸不遜極まりない人物と看做される。
 我々の時代に至って、あらゆる境界は消失した。この消失は個人の魂に内的倫理的な課題を自らが背負わなければならぬ、という自己責任と自覚が伴う。
 この自覚は個々人の趣味趣向や個人的興味なども完全に消滅することを意味する。この個人の受難劇はあらゆる表現形式に及んでいる。この重責に耐えきれずに殆どの先駆的表現者は斃れた。これは今日出回っている様々な斃れた、或いは難破、方向を見失い自滅した魂の「表現者達の作品」を一瞥すれば分かることである。
 この難破した状態は依然として打破されずに百花繚乱の如き様相を呈している。