創造雑感

創造雑感ノート

「表現についての一考察」

2024-01-09 23:51:47 | 雑感 人生 世界観 芸術表現


「表現についての一考察」


この感想の如き拙文は今から34年程前に書いたものであるが、今日でも充分通用する内容を含んでいる。無論、この内容に対する異論反論は百も二百も承知の上で敢えて掲載する。

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「表現について」

 

今日、あらゆる分野の「表現」の核となっている世界観は相対的ニヒリズムと言っても過言ではない。この現象自体は極めて矛盾に満ちている。


それにも関わらず自覚無自覚を問わず個人の魂を魅了している。生成死滅する感覚界においては確かに生存自体が無意味で一切が相対化されうるとの思考は可能である。だが、この一思考の結果が生存即無意味であると判断するのは誤りである。世界に対する態度としての、一切の偏見や公正な一視点としては自明の如く必要ではあっても、この視点から思弁によって導き出された世界観などあくまでも唯物論の範疇にすぎない。  

確かに自然科学的考察においては自明である相対的思考にすぎぬ視点が人間生存の世界観となり目的となれば、個人の個人たる足場は消失し自滅に至るのは当然である。それにも関わらずファッションの一意匠として威力を奮い我々の魂が好んで魅了され酩酊するのは何故か?(敢えて精神とは言うまい。)通俗的な言い方をすれば味噌も糞も一緒くたにしてしまえば都合がよいからである。

「全ては等価値にすぎぬ」と、個々人の魂に何と心地よく響く言葉であろうか。さらに弱肉強食のおまけ付きとくればなおさらである。一切の価値が相対化されるとは一切の基準の無を意味する。その限りにおいては自由も不自由も無ければ善悪の区別も無い、さらには全て個人の責任においての選択の自由とくれば何でもござれである。個人という存在すら相対化され、当然なことに責任や倫理という概念すら消滅する。かかる一切の境界を消し去り、好き勝手な言動何でもありということが可能な魔法のごとき思考、思想を誰が拒もうか。  この物質界のみ当てはまる一思考が芸術、文学、思想界に君臨し、一般化されて久しいが、かかる現象は単に世を混乱退廃させるだけではなく無自覚な社会的集団狂気へと変貌させるのは必至である。  

しかし、個人の魂において不可欠であった相対的思考は内実を伴わず伝播したとはいえ、総体として厳密に考察すれば決して悪しきことのみではない。腐食した土壌が生物の養分となるように、環境に呪縛されずに貴重なるものが成長することも又可能となったのである。その意味では自己認識においてはやっとスタート地点に立った、と言うこともできる。だが、このスタート地点以前の存在達が時代の最先端にいる、と自負しては社会でのさばっている。(最も、時代の流動推移する色合いにすぎぬ彼らは攻撃するまでもなく放置していても単に無知愚鈍なるがゆえに自然消滅するであろうが。)   

換言すれば相対的世界観とは悪しき無常観でもある。本来の相対的意識は表現方法としては抽象表現の母体にすぎない。くどいようだが一切の価値転換とは全ての事物(不可視なる霊魂、想念をも含む。)に対して無偏見視、透明な眼差しの獲得に他ならぬ。それ以上でも以下でもない。故に自己探求の途上で抽象表現に至った作家達は東洋的世界観に強く惹かれた。自己滅却したうえでの自己保持が如何にして可能であるか?純粋な関係性のみの関係の意識のみで如何に自己意識を保ちうるか?と。さらには解体された過去の論理体系は全ての支点を喪失し、個人は言語的矛盾に陥るどころか完全に失語する。  だが、依然として思考自体は個人の思惑とは関係無く活動する。なぜなら思考自体はそれ自体で独立した意識存在なのである。換言すれば純粋思考存在である思考は我々が人類として存在するように思考存在も思考存在として完成した独立存在として我々に与えられている。

この思考自体の存在の自覚無自覚の度合いに準じて分析の緻密さの濃淡が存する。哲学的用語を使えば先天的即自的に我々人間に備わっているのである。我々に何時何処で何の為、誰が等々の問い、あらゆる問い「備わっているということ自体何故分かるのか?」という問いにもこの即自的普遍存在であるとしか言えない完成されて独立した思考存在の助けを必要とする。この最も重要な本質的、根源的考察自体がはなはだ不明瞭な為に分析の基本となるべき言語、概念が曖昧に使用され論理矛盾に陥るのである。

「最初に思考在りき」が意識無意識を問わず前提となる。この我々自身を対象化、考察する道具としての思考存在を前提として思考しなければ一切の分析思考は迷走混乱するのみである。   

さて、話を戻すと我々にとって知覚する対象(世界の全て、概念も含む。)を相対化した以上単なる名称無き「ある意識」としか言えない。全ての概念は思弁的な仮の命名にすぎない。いわゆる意識という言語ですら思考によって分析判断命名された一概念である。(無論、思考という言語も然り。)さらには知覚する対象、或いは知覚する機能が停止、消滅すれば一切は無(無論、物質界、感覚的現象界においてのみだが。)と化す。 

生成死滅する現象界に限定した観念的世界観、これが「世界は表象にすぎぬ」という素朴な世界観となる。物質界を基盤とし、知覚する対象自体、それを知覚する主体である個人の自己意識の消滅と共に一切が無と化す。何のことはない元の木阿弥ということである。かかる結論に至るような思索や問い自体のみであるとすれば最初から思考停止の状態で獣の如く生きればよいことである。一切は屁理屈というも愚かである。確かに此の限定された物質界に依存従属した存在であれば、それが全てであれば至極自明というも無用である。 

だが、我々は人類という考える生物でもあり動物でもある。此の実体を伴わぬ虚無観に不満を抱き、更に先に生存の意味を探求し、結果的には似た視点に至るもその無意味な生存を丸ごと受け入れて生きるのが人類の運命であり常に超克する意志の存在、すなわち超人が人類の課題であるという世界観、かのニーチェの「生命哲学」と称される唯物論を土台とした徹底的な個人主義が生まれ、さらにそのいびつな落とし子として実存主義なる唯物論を足場とした矛盾を孕んだ観念的世界観が生じた。この事情は詳細に語るまでもなく、他のシュールリアリズム、ダダイズム等々はその範疇の一実験にすぎない。一切の基準を無くしたら単なる無自覚な生物にすぎぬ。ましてや自己意識すら持たぬ存在に表現自体不可能である。

生存の為の生存、生物的生、自然の摂理に依存しなければ生存自体が不可能であることなど、考えずとも子供でも分かる単純な理屈である。だが、この単純な問い自体が未解決のまま現在でも最先端の思想としてまかり通っているとは、形容し難い悲惨な光景である。   

我々は紀元前からの人類の基本命題である「汝自身を知れ」という自己認識の困難さを克服するどころか未だ無知の知の実体すら朦朧たるものとしてしか認識していない。否、それどころか現状では真摯な自己探求の意志を自ら放棄している、と言ったほうが事実に近い。  

今日の我々の意識の在りようは約二千三百年前の荘子の世界にのどかにじゃれあう児戯に等しい。さらに三百年ほど遡る孔子の厳しい実践的意識を前にすれば実存主義思想、それに準じる思想哲学など赤子の如きである。 


1989年某日

 


ヴァレリー著「テスト氏」(小林秀雄訳 創元社)

2024-01-09 23:40:42 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

ヴァレリー著「テスト氏」(小林秀雄訳 創元社)


「ヴァレリー著テスト氏」小林秀雄訳の初版本(昭和14年)

小林秀雄はこの創元社から出版する7年前に翻訳、二三訂正して出版した、と書いてある。
31歳と言えば彼が孤軍奮闘しつつ批評活動していた時期である。

「テスト氏」の翻訳文からは小林秀雄の張りつめた緊張感、悲壮感、激しい熱情が感じられる。
小林秀雄自身の翻訳序文の文章にも何とも名状し難き激しい、祈りにも似た想いが込められている。

「前略 『人間』がそのまゝ純化して『精神』となる事は何の不思議なものがあろうか、人間が何物かを失ひ『物質』に化す事に比べれば。 -中略ー 僕は繰り返す。何處にも不思議なものはない。誰も自分のテスト氏を持ってゐるのだ。だが、疑ふ力が、唯一の疑へないものといふ處まで、精神の力を行使する人が稀なだけだ。又、そこに、自由を見、信念を摑むといふ處まで、自分の裡に深く降りてみる人が稀なだけである。缺けてゐるものは、いつも意志だ。」

小林秀雄はヴァレリーと親和融合しつつ作者の意図を汲み取り、自分自身の言葉に置き換えて翻訳する。

この小林秀雄訳「テスト氏」を読んだ或る読者が恫喝するような小林秀雄訳よりは清水徹訳の方が分かりやすい、などと感じるのは真摯な自己探求をせぬ己を恥ずべきだと思う。


己の宿命と刺し違え、徹底的に自己解体した魂の名状し難き苦悩と悲哀

彼の「批評家失格」は孤軍奮闘している時期に書いたものだ。

――「今や私は自分の性格を空の四方にばら撒いた、これから取り集めるのに骨が折れる事だろう。」このボードレールの言葉を小林秀雄は「✕への手紙」に引用し、さらに自らを「――俺は今この骨の折れる仕事に取りかかっている。もう十分に自分は壊れてしまっているからだ」と告白する。骨の折れる仕事とは何か、それは単に「いかにかすべきわが心」という思いで佇み、身動きしないというわけにはいかぬ。言わばいかにこの世が「地獄絵」で、それを全身で感じ、観た者はただ「虚空遍歴」などするわけにはいかぬ。
百年前だったらランボーのように砂漠へと、人々に別れを告げ、ざらざらとした現実の中でのたうち、自減出来たかもしれぬが、時すでに遅く「前例」がいる。――断じて架空のオペラを演じない事。それにしても、自己のバラバラになった意識をいかに生々しい現実の中に復活させるか?変容せしめるか?果してその受け継いだ「事業」をどこまで成し得るか?ここで小林秀雄の自己自身の内的戦いの末の表明が、覚悟があの「批評家失格」という文章を書かせた。

「――地獄絵の前に佇み身動きも出来なくなった西行の心の苦痛を、努めて想像してみるのはよいことだ」と。
これはそのまま小林秀雄自身の姿にも当てはめることが出来る。彼は相手の眉間を割る覚悟はいつも失うまい、と言った。だが彼は一度たりとて相手の眉間を割ったことはない。彼に対する攻撃の急所、隙はまさにここにある。情の脆さである。その脆さが、その情が深く緻密でなければ人生を達観する「仙人」と化す。仙人面した物分かりの良い浅はかな人種、それを彼はインテリと呼んだ。それにしても、それにしてもである、彼は相手の眉間を割ることは無く、常に「寸止め」をする、――他人を切り刻む前に自分を徹底的に切り刻んでいるからだ。彼が論じたランボオ然り、ニーチェ、西行、その他然り――。彼の取りあげた人物達には自己の宿命と似た所謂「愛と認識の殉教者」が多かった。同じ心、つまり「いかにかすべきわが心」の思いをもって人生を「のたうちまわった」人物達の魂が、その思いが小林秀雄の表現の原動力であった。だから「探る眼はちっとも恐かない、私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ。」とか、「私は、理智を働かせねば理解出来ぬような評論を絶えて読んだ事がない(私の評論などは言わずと知れたこの部類だ)」(拙著「小林秀雄論」より抜粋)

彼の評論は賛否が多い。歴史上の天才的な人物しか扱っていない、と。しかし、下記のランボオについて書いたものは紛れもなく彼自身の本音であり、己の宿命と刺し違えた、彼の言語表現の原動力である。

「ランボーⅢ」の中で小林秀雄ははっきり明言する「――彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼はランボオであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆んなのぎりぎりの姿だ。」と。

 


「虚無的世界観からの超克: ――未知なる道を歩む魂へ捧ぐーー」

2023-12-18 19:09:48 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

アマゾン電子書籍、二作目を出版しました。

「虚無的世界観からの超克: ――未知なる道を歩む魂へ捧ぐーー」

現実の中での思考生活は同時に 神の中での思考生活である。(ルドルフ・シュタイナー著・自由の哲学・イザラ書房・一九八七・高橋巌訳、第十五章279頁)

人間には如何なる状況や環境にあれどもその環境状況を変え得るものが具わっている。時空を超えて個人の魂を普遍的高みへと至らしめる神性の萌芽が誰にでも宿っている。その萌芽を育成するのは我々個々人の課題である。
 我々人類に託された普遍的自我、高次の自我へと至る道筋は各自に応じて違うとはいえ確実に各個人に委ねられている。
 今日の時代は相対的世界観が個々人の魂に猛威を振るい浸透し始めている。相対的世界観は同時に生きる方向性、意志を喪失した虚無的世界観と化す。この虚無的世界観に呪縛された魂は動物にも似た低次の刹那的衝動の言動になりやすい。
 これは世界の各国家、民族、種族にも当て嵌まる。現状ではこの状況を打破するのは容易ではない。
 今日、虚無的世界観は人々の魂を流行病の様に蝕んでいる。この著作は虚無的世界観を超克する為に書かれた。

*画像の写真は表紙画です。
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「虚無的世界観からの超克: ――未知なる道を歩む魂へ捧ぐ」

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黙せる詩人

2022-10-11 13:24:54 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

 

黙せる詩人


 彼の実体を誰をも見抜けず、又それを意に介さず然して逝った。

 末期癌の激痛の中、死を目前にした三日間は両眼をかっと見開いていたという。


 彼は寡黙であった。或いはその言動は他者に理解不能、誤解されうる印象を与えた。酒乱、淫乱、冷酷、有情無情が混沌たる彼の衣装であった。


 自ら修繕屋という立場を日常に実践した希有な歌わぬ詩人であった。分野、意識のレベルを超えて酒を飲み、アルコール共同体と称して種種雑多なる人物と交流をもち、その人脈を継承維持しうるは皆無と言えるほど至難事である。

 無私なる精神を蔵し、深々とした緻密なる心情と透徹した思考、及び不屈の意志を血肉化し、さらに真摯なる求道精神を必要とする。彼を慕う者はあまたいれども所詮自称ファンにすぎない。

 彼の苦悩は彼自身ではなく他者の苦悩であるということを正確に現す言葉が見いだせぬ。「いかにかすべきわがこころ」に彼自身翻弄されていた。と言っても何のことやら分かるまい。


百万の桜の下に酔い臥して恥濃きわれををののき嗤ふ

数しれぬ過失は酒とともにありその酒抱きてけふも堕ちなん

 

彼の晩年の数少ない自虐的なこの二首の歌には名状し難い激しい苦悩が秘められている。
 
彼は多感な時期に三島由紀夫と出会い、そして自決という決別は他者の窺い知れぬ傷痕を、痛苦を刻印したであろう。

 不撓不屈の意志をもってしても現代の相対化された不毛の対人関係を変革せしめることの困難さは筆舌に窮する。この暗澹たる状況にどっぷりとおのが身を浸して生き抜いたという意味では享年五十三歳は長生きともいえ

るであろう。


他者との比較等詮無きことであるにしても、想像を絶する軋み、苦渋の人生であった。

漆黒の闇の淵なる神楽舞その笛の音は虚無の使者かは間近なる自己の死を見据えての一首である。
 

――自らに息絶えるまで自己表現を禁じ、おのれを素材として媒体として供儀に捧げた希有かつ真摯な恐るべき詩人であった。


一九九九年十一月十四日