昨年に書いたものを再掲載。
これは気が向いた時にでも違う側面から考察したい。
『美について』小林秀雄「当麻」より 2006/10/04
「(中略)、無要な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういうふうに考えたかを思い、そこに何んの疑わしいものがない事を確かめた。『物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし』。美しい花がある、『花』の美しさというものはない。彼の『花』の観念のあいまいさについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きよりはるかに微妙で深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものは、お面で隠してしまうがよい、彼がもし今日生きていたら、そう言いたいかもしれぬ」(角川書店「無常ということ『当麻』より」
『美しい花がある、『花』の美しさというものはない。』
この物言いに対しては様々な解釈がある。
誰にでも分かるように、という批判がある。
だが、こればかりは簡単に語れるものと、語れぬものがあるということを小林秀雄も書いていたが、確かにそうである。
『物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし』と世阿弥が書いたようなことを個々人がそれぞれ極めぬ限りは、様々な解釈で百花繚乱の様相を呈するであろう。
口当たりのいい蜜の如き「多種多様のそれぞれの美がある」という物言いは各自の虚栄を充たすであろうから。
敢えて言えば、相対化されたものの意識、観念に美なる概念は存しない。
これを前提として真の「美」なるものを感受する。だが、それを美という概念をもちいるかは別物である。
これは気が向いた時にでも違う側面から考察したい。
『美について』小林秀雄「当麻」より 2006/10/04
「(中略)、無要な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういうふうに考えたかを思い、そこに何んの疑わしいものがない事を確かめた。『物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし』。美しい花がある、『花』の美しさというものはない。彼の『花』の観念のあいまいさについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きよりはるかに微妙で深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものは、お面で隠してしまうがよい、彼がもし今日生きていたら、そう言いたいかもしれぬ」(角川書店「無常ということ『当麻』より」
『美しい花がある、『花』の美しさというものはない。』
この物言いに対しては様々な解釈がある。
誰にでも分かるように、という批判がある。
だが、こればかりは簡単に語れるものと、語れぬものがあるということを小林秀雄も書いていたが、確かにそうである。
『物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし』と世阿弥が書いたようなことを個々人がそれぞれ極めぬ限りは、様々な解釈で百花繚乱の様相を呈するであろう。
口当たりのいい蜜の如き「多種多様のそれぞれの美がある」という物言いは各自の虚栄を充たすであろうから。
敢えて言えば、相対化されたものの意識、観念に美なる概念は存しない。
これを前提として真の「美」なるものを感受する。だが、それを美という概念をもちいるかは別物である。