創造雑感

創造雑感ノート

告知

2010-10-23 01:14:00 | イヴェント・告知
「告知」


 人々が深い眠りに墜ちる時、その時に密やかに語られる言葉がある。

 本来、その言葉は昼夜に関わり無く語られているのだが、感覚界の鈍重な知覚のベールがそれを常に阻んでいる。ゆえに夢の中でさらに意識的に夢見ることが可能なほど強靭なる魂しかその霊妙なる言葉を日常のなかで聞くことは出来ない。  

 一体、何だ?さっきの妙に生々しく鮮烈な夢は。不思議な郷愁とおぞましさが混淆していた。            

 それにしても、この冷徹なおれがたかが夢ごときにおののくとは、、、。  

 おれにとって此の世界、日常自体が夢のようなものだ。誰も彼もが自分を見失い微睡みのなかで夢のように生きている。おれはそんな奴等の夢と付き合いながら同じ夢をみることはない。奴等は夢から醒めることを恐れている。おれは物心ついた頃から此の世は実体の無い夢に似ていると感じていた。

 おれにとって他人の夢とは浅いまどろみの心理学的範疇にすぎない。それぞれの自覚していない深層のなかに潜む願望や欲望が様々な様相をもっては多彩に現象化し、それに自分勝手な意味付けをしては安心している。  

 世の心理学者や哲学者共はそんな眠りの意識を暴露したり整頓してはわれこそは目覚めていると独り悦に浸っている。所詮、同次元の五十歩百歩にすぎぬ。お互いにせいぜい夢を夢みている同類であるのだが、夢の世界の住人達同士ではその判別は困難であろう。
さては、無常なる此の世にあって彼らには必須の生存の支えでもある、その夢を無碍に壊す必要はあるまい。  

 おれはそのように此の世は夢の世界、即ち無常であると認知して生きていたのだが、そのおれ自身の認識がこのところ怪しげになってきた。ふいに何の前触れも無くおれの精神、いや、存在自体を震撼させるような戦慄的な衝撃が時折襲いかかってくる。それも昼夜を問わずに得体の知れぬ痛みや吐き気を伴ってだ。おれの何かが変化しようとしているのを感じるが、それがなんであるかは不明である。
 
 このところ不眠もひどい。恐らく、疲労であろう。そのせいか、まるで自分が自分でなくなるような時がある。如何なる時も冷徹であることが信条のおれにとってはすこぶる不快ではあるが、忌々しくも如何ともし難い。                   


            *

 さあ、眼をそらさずに見るのだ。お前にとってこのおれの姿がどれほど醜悪に見えようとも、このおれはお前自身なのだ。そしてこのおれをお前が見た以上はこのおれから逃れることは出来ない。何故なら、このおれの姿は今後のお前如何で如何様にも変化する。  

 お前はお前自身が完全に成熟する前にこのおれに出会った。これはお前自身が望んだことだ。おれの存在は今までのお前達から見れば死の天使でもあり霊界の番人でもある。お前次第によっては良き導き手にも悪しき導き手にもなるのだ。おれはお前が何度も転生を繰り返してきたのを知っている。お前が肉体を自分の自我だと信じている時も常に側にいて試練を与えてきたのだ。だが、すでにお前が望もうが望むまいが、お前達にとっては死と呼ばれている世界に踏み込んだ。お前がおれを知る前はお前をおれと共に導いてきた霊界の存在は一切に離れる。

 ゆえに、今後はお前自身を導いてきた存在達の助け無しに全ての行為はお前自身に回帰する。さらに、お前であるおれの姿が醜悪な悪鬼と化すか崇高な存在と化すかも、お前自身のこれからのお前の行為次第である。おれはこれからは常にお前から離れることはない。

情というもの

2010-10-21 13:31:00 | 日記 雑感
「情」というもの

 小林秀雄が「殆どのものは情で片付く」と言ったが、これは彼自身が情に脆かったのだと、自らの有様を吐露しているにすぎぬ。ただその情が若干緻密で思考と結びついていたから深く懊悩したのである。彼自身が情に惑わされて或る地点に至ると視界が曇るのはそれ故である。
 人は環境により影響を受けるがその逆も然りである。個々人の自我は世界と密接に連動しているが、個体を所有している限り外的世界とも対立している。
 私がかつて「小林秀雄論」を書いた時は彼の情の脆さ、優しさに準じ、即して書いた。

だが私自身が還暦を超えても未だ生かされているという事はやり残している事がまだ多くあるという事であろう。

 かつて「小林秀雄を超えて」という人物等の浅薄な考察の著作を読んだ。
 今日でも小林秀雄が謂わんとした内容、本質は頗る難解のようである。
 自明であるが、誰でも自分自身に引きつけて読み解くしかない。各自の人生観の自覚の程度により視点観点が違う。これも当然の事である。例外無く自分自身が苦労して得たものを捨てる者はいない。無論、自分自身の視点観点を捨て去ることが出来得れば物事を公正かつ偏見なくあらゆる事物や現象を観る。
 おのれを消去して観る事の出来る存在には自明の事であろう。此処に又情の厄介さが忍び込む。捨てても良い情と捨ててはならぬ情というものがある。是もまた同じ「情」という言葉の質という問題が生じる。
今日のように相対的世界観が蔓延している時代に於いては十人十色とは真に個々人に都合のよい言葉である。

 下記に掲載する引用文は、私が肺結核になる前年に書いた文章である。推敲もせずに一気に書き上げた故足取りは乱れて文章の体を為してはいぬが、謂いたい事は言っている。
 ただ、今は同じ内容でももう少し違う書き方をするであろう。今でも内容自体は大して変わらぬと思うが。
 
――――― 

「表現について」(1)」

次の文章は小林秀雄の「批評家失格」に書かれていたものだが、今日におい
ても最も重要と思われる問題を含んでいる。それに私自身一表現者として、一
生活者として「核」に係わる問いでもある。少々長いが引用する。
「――『件pを通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて件pを決し
て了解する事は出来ない』と。これは誰の言葉だか忘れたが或る並々ならぬ作
家が言ったことだ。一見大変いい気に聞こえるが危い真実を貫いた言葉と私に
は思われる。普通の作家ならこうは言うまい、次のように言うだろう。『件p
は人生を了解する一方法である』と。これなら人々はそう倨傲な言葉とは思う
まい。だが、これは両方とも同じ意味になる、ただ前者のように言い切るには
よほどの覚悟が要るだけだろう。理屈を考える事と、考えた理屈が言い切れる
事とは別々の現実なのだ。
 件pの、一般の人々の精神生活、感情淘汰への寄与、私はそんなものを信用
していない。(略)彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来た
のだ。異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と件pとは放電する二つの
異質である。』と。
 断わっておくが、この文章に吐かれた言葉は小林秀雄の本音ではない。彼の
時代状況と若さが言わしめた言葉である。方便と言えば方便、レトリックと言
えばレトリックである。
 もし、小林秀雄が先の言葉を本気で吐いたものであれば彼が最も強く影響さ
れたフランスの天才詩人アルチュール・ランボオのごとく「砂漠」にそうそう
に消えたであろう。もし私が小林秀雄の他の文章を読まず、先の引用文だけを
読んだとしたら「何というど盲な男だ!」と思っただろう。こんな男に人生だ、
件pだ、などとうんぬんする資格はない!と、断じる。――残念ながら、遺憾
ながら、ここに「表現」の難しさがある。伝達の困難がある。
 又、少々長いが別の面白い引用文をのせる。「わたしはキリストにあって真
実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこう証し
をしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる
痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身
がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。――」(ローマ人への手紙、
第九章)と。これはパウロのセリフである。かつてパウロは最も過激なキリス
ト教徒の迫害者であった。――ダマスカスへの途上の路上で、ふいにキリスト
の「啓示」を受けた。以来、最強のキリスト教の戦士となる。その存在が小林
秀雄と似たようなセリフを吐く。吐かざるを得ぬ、――。
 紀元前になると少々事情が異なる。ソクラテスは真理を説きつつ、たとえ国
法が誤っていても国自体には汲ゥず「毒杯」をあえて仰ぐ。ソクラテスは
小賢しいレトリックなど一切認めぬ。緻密な対話法を持って相手を着実に「無
知の知」へと追いつめる。がゆえに敵を作り、謀られて死刑を宣告される。
 だが深く見れば彼らには時代を超えて常に一貫した精神が流れている。ソク
ラテスと同時代人の荘子においても表現の仕方は違うが「――自分が蝶なのか
蝶が自分になった夢を見ているのか」と。自己と自然の、万物との境界は有る
ようで無く、無いようで有る。その区別がつけがたいと、これはソクラテスの
無知の知と同質の内容である。人間のなかに、あらゆる現象的錯覚や思い込み、
偏見がある限り、実体はつかめず、真理へは至らない。常に彼らに流れている
のは真理への愛、万物への愛、人間に対する愛である。このことは現代におい
ても同じである。ただ時代やその時々の状況や、その個人をとり囲む環境が表
現方法や形式を生み出す。又、その努力をする。無論、その個々人の能力や素
質に応じてというのはいうまでもない。


一九八九年十月九日


「耳に順がう」事の難しさ

2010-10-19 22:11:00 | 日記 雑感
「耳に順がう」事の難しさ                                 

 日常生活は基より、優れた表現者(件p家)といえども虚心坦懐に聴く耳を備えているか?といえば微妙な難問に変じる。

 かの孔子ですら「六十にして耳に順う」と言っている程であるとすれば、よほど洞察力に自信がある人でも謙虚にならざるを得まい、と思われるのだが現実の情報社会のなかにあっては悠長すぎて死語と化しているらしい。無論、「死語」という言葉には自他共に辛辣な皮肉を込めている。  

「百聞は一見に如かず」とは他者の意見や噂に囚われぬ公正な見方を所有せよ、との格言であるが、このまま額面通り受け取るわけにはいかない。何故なら、染み込んだ他者の見解を脱色しているか?自己の眼や耳が研ぎ澄まされているか?が問題となる。
 我々の裡には聖者でないかぎりは、半ば無意識的に自己防衛生命本能ともいうべき意識が潜んでいる。その意識の自己分析の自覚化、徹底度に準じて自他との関係に様々な視点、観点の差異が生じる。ましてや、怜悧な頭脳の持ち主ほど精妙な自己防御意識が潜んでいる。いかなる他者の評価といえども質と量の真偽を洞察するには同等の、それ以上の慧眼を必要とするからである。この問題自体が今日においても錯綜しているのが現状である。
 さらには「詩人は自己の裡に最上の批評家を蔵している」とも言われているが、これに関しても事は同じで、近代以降、その批評の観点自体が如何なる世界観の基に形成されているかによって微妙なずれが大きな障壁ともなりうる。人間存在探求の土台自体、その尺度となるべき視点が、実証可能な唯物史観が強力な趨勢事の哲学界はもとより、それに準じた諸分野も混迷している時代であれば、種々なる批評家が異様ともいえるほど蔓延しても不思議な現象ではない。換言すれば、実質を問わず、如何なる批評も相対的には存在可能なのである。  
 かといって、この現象自体を即善悪という問題に転化するのは早計である。視点を変えれば状況や環境に左右されぬ強靭な個性が育つ可能性をも含んでいるからである。だが、その可能性を自他共に育成、深化させうるかは各自が繊細かつ強靭な「聴く耳」を所有しなければならぬ。
 古今を問わず、世に溢れている数多の論戦は常に自己を優位にするための「論戦の為の論戦」に堕している。無論、論争、論戦となれば弱肉強食的力学が作動するのも当然である。各自、自己の持てる限りの武器と戦略を総動員して戦う。戦い自体の次元の高低など問題にならず、勝利か敗北しかない。この戦い自体に関する現象の「不毛か否か」は各自の世界観と倫理に属するとしかいえない。善悪の彼岸すら相対化しうるのが今日の現状だからである。  

 個人が人間の名のもとに「平等と自由」の権利を所有、乱用すれば、世に最善と最悪の混淆する個人が出現するであろうとは、すでに精神の自由を希求した鋭敏な批評精神を蔵した先駆的存在達が予言的に危惧していたことである。

 明敏な精神の所有者にとっては眼前に繰り広げられる暗澹たる光景も自明の結果と映じる。さらにその様々なる光景をも自己の裡で徹底的に消化せざるを得ないということも痛感するであろう。その為には今まで以上に「耳に順う」ことの微妙で過酷な苦闘を、その難しさを噛みしめ味わうのみである。名状し難い味と云っても始まらぬ。自覚した者が各自の方法で忍耐強く確実に知肉化するしかない。  

 いかなる時も、我々は常に途上である事を謙虚に知るべきであろう。