創造雑感

創造雑感ノート

終の住み家

2012-01-04 01:09:00 | 日記 雑感
 転居して初めての年越しである。
 
 前の住居から徒歩10分位の場所にある。
 一昨年暮れにマンションオーナーから32年住んでいたビルを建て壊すので立ち退きしてくれとの話が来た。ゆくゆくは転居せねば、と思ってはいたものの急な話であった。
 で、今の住居を見つけた。
 かなり古家ではあったが作品を保管できる物置を作れる庭があったので決めた。此処は終の住み家となろう。

 部屋の細かい仕切りをぶち抜きアトリエに改造した。
 屋根の補修に上るために地下足袋を買い、モルタルやペンキ塗りを昨年暮れにした。若い頃に建築現場で働いていたのが役に立った。最も私は大工の息子でもあるが。

 また、点検のために床下に潜るとコンクリートでがっちりと作られたた防空壕のようなものがあった。階段があり横穴がある。基礎の木材が細かく格子で作られており中には入ることは出来なかったが家が壊れることがあってもシェルターの様な防空壕は残るであろう。またこれは墓にもなると思われる。

 古い分だけ基礎土台にはがっちりとした素材が用いられている。
 私たちが死ぬまでは十分持つであろうと思われる。

 30年後には石棺から二人のミイラが、、、。。



「いろは歌」47文字に込められた世界観。

2010-12-02 07:39:00 | 日記 雑感
「いろは歌」47文字に込められた世界観。


「色は匂えど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」

「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」
(涅槃経第十四聖行品の偈)の意を和訳伝承。(広辞苑より)

 この内容は「色即是空空即是色」と同じ意識状態である。

 世の推移するあらゆる感覚的現象から解脱し、またこの感覚界に於いて敢えて生存する意味を説く。

 ただ、これは簡単に理解され得るものではない。
 今日の相対的世界観を基点とする思考による考察では単なる「空」何も無い、実体無き「無」という結論に至る。

 浅き夢の中に居て夢を見ることの戒めが説かれているがその意味を体感している者は皆無に等しいのである。

 この「いろは」を我々は未だ学んではいないのが現状なのである。
 昨今の世の動きはこの最も基本の「いろは」すら無自覚そのものである。今後もこの状況は悪化する傾向にある。

 是又是非も無しであるか。 


情というもの

2010-10-21 13:31:00 | 日記 雑感
「情」というもの

 小林秀雄が「殆どのものは情で片付く」と言ったが、これは彼自身が情に脆かったのだと、自らの有様を吐露しているにすぎぬ。ただその情が若干緻密で思考と結びついていたから深く懊悩したのである。彼自身が情に惑わされて或る地点に至ると視界が曇るのはそれ故である。
 人は環境により影響を受けるがその逆も然りである。個々人の自我は世界と密接に連動しているが、個体を所有している限り外的世界とも対立している。
 私がかつて「小林秀雄論」を書いた時は彼の情の脆さ、優しさに準じ、即して書いた。

だが私自身が還暦を超えても未だ生かされているという事はやり残している事がまだ多くあるという事であろう。

 かつて「小林秀雄を超えて」という人物等の浅薄な考察の著作を読んだ。
 今日でも小林秀雄が謂わんとした内容、本質は頗る難解のようである。
 自明であるが、誰でも自分自身に引きつけて読み解くしかない。各自の人生観の自覚の程度により視点観点が違う。これも当然の事である。例外無く自分自身が苦労して得たものを捨てる者はいない。無論、自分自身の視点観点を捨て去ることが出来得れば物事を公正かつ偏見なくあらゆる事物や現象を観る。
 おのれを消去して観る事の出来る存在には自明の事であろう。此処に又情の厄介さが忍び込む。捨てても良い情と捨ててはならぬ情というものがある。是もまた同じ「情」という言葉の質という問題が生じる。
今日のように相対的世界観が蔓延している時代に於いては十人十色とは真に個々人に都合のよい言葉である。

 下記に掲載する引用文は、私が肺結核になる前年に書いた文章である。推敲もせずに一気に書き上げた故足取りは乱れて文章の体を為してはいぬが、謂いたい事は言っている。
 ただ、今は同じ内容でももう少し違う書き方をするであろう。今でも内容自体は大して変わらぬと思うが。
 
――――― 

「表現について」(1)」

次の文章は小林秀雄の「批評家失格」に書かれていたものだが、今日におい
ても最も重要と思われる問題を含んでいる。それに私自身一表現者として、一
生活者として「核」に係わる問いでもある。少々長いが引用する。
「――『件pを通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて件pを決し
て了解する事は出来ない』と。これは誰の言葉だか忘れたが或る並々ならぬ作
家が言ったことだ。一見大変いい気に聞こえるが危い真実を貫いた言葉と私に
は思われる。普通の作家ならこうは言うまい、次のように言うだろう。『件p
は人生を了解する一方法である』と。これなら人々はそう倨傲な言葉とは思う
まい。だが、これは両方とも同じ意味になる、ただ前者のように言い切るには
よほどの覚悟が要るだけだろう。理屈を考える事と、考えた理屈が言い切れる
事とは別々の現実なのだ。
 件pの、一般の人々の精神生活、感情淘汰への寄与、私はそんなものを信用
していない。(略)彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来た
のだ。異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と件pとは放電する二つの
異質である。』と。
 断わっておくが、この文章に吐かれた言葉は小林秀雄の本音ではない。彼の
時代状況と若さが言わしめた言葉である。方便と言えば方便、レトリックと言
えばレトリックである。
 もし、小林秀雄が先の言葉を本気で吐いたものであれば彼が最も強く影響さ
れたフランスの天才詩人アルチュール・ランボオのごとく「砂漠」にそうそう
に消えたであろう。もし私が小林秀雄の他の文章を読まず、先の引用文だけを
読んだとしたら「何というど盲な男だ!」と思っただろう。こんな男に人生だ、
件pだ、などとうんぬんする資格はない!と、断じる。――残念ながら、遺憾
ながら、ここに「表現」の難しさがある。伝達の困難がある。
 又、少々長いが別の面白い引用文をのせる。「わたしはキリストにあって真
実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこう証し
をしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる
痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身
がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。――」(ローマ人への手紙、
第九章)と。これはパウロのセリフである。かつてパウロは最も過激なキリス
ト教徒の迫害者であった。――ダマスカスへの途上の路上で、ふいにキリスト
の「啓示」を受けた。以来、最強のキリスト教の戦士となる。その存在が小林
秀雄と似たようなセリフを吐く。吐かざるを得ぬ、――。
 紀元前になると少々事情が異なる。ソクラテスは真理を説きつつ、たとえ国
法が誤っていても国自体には汲ゥず「毒杯」をあえて仰ぐ。ソクラテスは
小賢しいレトリックなど一切認めぬ。緻密な対話法を持って相手を着実に「無
知の知」へと追いつめる。がゆえに敵を作り、謀られて死刑を宣告される。
 だが深く見れば彼らには時代を超えて常に一貫した精神が流れている。ソク
ラテスと同時代人の荘子においても表現の仕方は違うが「――自分が蝶なのか
蝶が自分になった夢を見ているのか」と。自己と自然の、万物との境界は有る
ようで無く、無いようで有る。その区別がつけがたいと、これはソクラテスの
無知の知と同質の内容である。人間のなかに、あらゆる現象的錯覚や思い込み、
偏見がある限り、実体はつかめず、真理へは至らない。常に彼らに流れている
のは真理への愛、万物への愛、人間に対する愛である。このことは現代におい
ても同じである。ただ時代やその時々の状況や、その個人をとり囲む環境が表
現方法や形式を生み出す。又、その努力をする。無論、その個々人の能力や素
質に応じてというのはいうまでもない。


一九八九年十月九日


「耳に順がう」事の難しさ

2010-10-19 22:11:00 | 日記 雑感
「耳に順がう」事の難しさ                                 

 日常生活は基より、優れた表現者(件p家)といえども虚心坦懐に聴く耳を備えているか?といえば微妙な難問に変じる。

 かの孔子ですら「六十にして耳に順う」と言っている程であるとすれば、よほど洞察力に自信がある人でも謙虚にならざるを得まい、と思われるのだが現実の情報社会のなかにあっては悠長すぎて死語と化しているらしい。無論、「死語」という言葉には自他共に辛辣な皮肉を込めている。  

「百聞は一見に如かず」とは他者の意見や噂に囚われぬ公正な見方を所有せよ、との格言であるが、このまま額面通り受け取るわけにはいかない。何故なら、染み込んだ他者の見解を脱色しているか?自己の眼や耳が研ぎ澄まされているか?が問題となる。
 我々の裡には聖者でないかぎりは、半ば無意識的に自己防衛生命本能ともいうべき意識が潜んでいる。その意識の自己分析の自覚化、徹底度に準じて自他との関係に様々な視点、観点の差異が生じる。ましてや、怜悧な頭脳の持ち主ほど精妙な自己防御意識が潜んでいる。いかなる他者の評価といえども質と量の真偽を洞察するには同等の、それ以上の慧眼を必要とするからである。この問題自体が今日においても錯綜しているのが現状である。
 さらには「詩人は自己の裡に最上の批評家を蔵している」とも言われているが、これに関しても事は同じで、近代以降、その批評の観点自体が如何なる世界観の基に形成されているかによって微妙なずれが大きな障壁ともなりうる。人間存在探求の土台自体、その尺度となるべき視点が、実証可能な唯物史観が強力な趨勢事の哲学界はもとより、それに準じた諸分野も混迷している時代であれば、種々なる批評家が異様ともいえるほど蔓延しても不思議な現象ではない。換言すれば、実質を問わず、如何なる批評も相対的には存在可能なのである。  
 かといって、この現象自体を即善悪という問題に転化するのは早計である。視点を変えれば状況や環境に左右されぬ強靭な個性が育つ可能性をも含んでいるからである。だが、その可能性を自他共に育成、深化させうるかは各自が繊細かつ強靭な「聴く耳」を所有しなければならぬ。
 古今を問わず、世に溢れている数多の論戦は常に自己を優位にするための「論戦の為の論戦」に堕している。無論、論争、論戦となれば弱肉強食的力学が作動するのも当然である。各自、自己の持てる限りの武器と戦略を総動員して戦う。戦い自体の次元の高低など問題にならず、勝利か敗北しかない。この戦い自体に関する現象の「不毛か否か」は各自の世界観と倫理に属するとしかいえない。善悪の彼岸すら相対化しうるのが今日の現状だからである。  

 個人が人間の名のもとに「平等と自由」の権利を所有、乱用すれば、世に最善と最悪の混淆する個人が出現するであろうとは、すでに精神の自由を希求した鋭敏な批評精神を蔵した先駆的存在達が予言的に危惧していたことである。

 明敏な精神の所有者にとっては眼前に繰り広げられる暗澹たる光景も自明の結果と映じる。さらにその様々なる光景をも自己の裡で徹底的に消化せざるを得ないということも痛感するであろう。その為には今まで以上に「耳に順う」ことの微妙で過酷な苦闘を、その難しさを噛みしめ味わうのみである。名状し難い味と云っても始まらぬ。自覚した者が各自の方法で忍耐強く確実に知肉化するしかない。  

 いかなる時も、我々は常に途上である事を謙虚に知るべきであろう。