昨日、決心して入院前後のこころの状態を思い出し、たくさんパソコンに打ち込んでみた。そして、それを家族にも読んでもらい、主治医の先生の前でも読み上げた。わたしにとっては本当に体験した苦しみなのだが、その多くは病気になってしまったための幻聴や妄想ということで片付けられてしまった。そんなことは予測していたので構わないけれど、少しもの足りなかった。とても残念だった。かえって自分のなかでは、それは本当なんだと強く確信を持った。
主治医の先生は、わたしの体験談を認めてくださったが、「苦しい思い出はこころの箪笥の奥にしまっておきましょう。」とアドバイスをしてくださった。主治医の先生は、また少し薬を増やしたいようであった。でも、わたしが必要ないといったので、このまま事務局のお手伝いをしながら様子をみることになった。
事務局へ行くスケジュールについても、心配性の家族と、たくさん手伝いたいわたしの間で意見が合わない。主治医の先生のまえで、つい言い合いになってしまった。まあ、旭川へ行くのが間近に迫っているので、無理は禁物ということで、今回は主治医の先生にまとめられてしまったが、これからはわたしのリズムで仕事ができるようになったらいいなぁと思う。
主治医の先生は、わたしの体験談を認めてくださったが、「苦しい思い出はこころの箪笥の奥にしまっておきましょう。」とアドバイスをしてくださった。主治医の先生は、また少し薬を増やしたいようであった。でも、わたしが必要ないといったので、このまま事務局のお手伝いをしながら様子をみることになった。
事務局へ行くスケジュールについても、心配性の家族と、たくさん手伝いたいわたしの間で意見が合わない。主治医の先生のまえで、つい言い合いになってしまった。まあ、旭川へ行くのが間近に迫っているので、無理は禁物ということで、今回は主治医の先生にまとめられてしまったが、これからはわたしのリズムで仕事ができるようになったらいいなぁと思う。
私の現実、というものもあると思う。他の人には現実でなくても。その人にとっては現実。でもそれを現実と認めてしまったら、日常に生きている自分の現実は何?ということになるので片付けられてしまうのだろうか。私は現実は一つではなくて人によって違う現実が現実の中で共存するのでは?と考えている。だって、同じその場で同じものを見ていても、見方、感じ方がそれぞれ違うように。
わたしは皆と共有した現実と思いたいのですが、そうするとあまりに辛すぎるので、「こころの箪笥の引き出しの奥にしまっておきましょう」と主治医の先生は仰ったのだと思います。
その辛い思い出がなければ、わたし自身だって楽になれると思うし、結局は主治医の先生の意見が正しいのだと思うようにしました。