うたのたまご

わたしの五行歌と、感じたことなど、きもちのままに。

作品評を書いてます。

2007-04-07 21:23:44 | 五行歌
 五行歌誌の3月号から作品評を書かせて頂いています。忌憚なのないご意見・ご感想が伺えたら嬉しいです。4月号の作品評は、母に生意気だと言われてしまいました。自分では、そんなつもりはなかったのですが…。というわけで、皆さまの声をお待ちしています。m(_ _)m

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2 コメント

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感じるままに (OK)
2007-04-30 13:33:33
こんにちは、お邪魔します。

「作品評」お疲れさまです。あれは大変な作業ですよね。
僕も昨年のいまごろ、ヒーヒーしながらやっていましたので
ご苦労がわかります。生意気であるかないかより的確かどうかが
大切なことだ、と僕は思います。

4月号の評を拝読して感じたことを2~3書かせてもらいます。
片桐さんの作品は「歌会レポート」にしか載っていないものですよね。
ていねいな選び方をされているなぁ、と感心しました。

「うたびとに近づいたか」で終わるウタがありますけれど
個人的な好き嫌いとか、見解の相違でしょうが
僕は「うたびと」という把握の仕方や意識を持ちたくないので
このウタのような価値観に嫌悪を感じます。
こういう人って「いい気なもんだ」とは思いませんか?

その次にある「女の真」というウタ、僕は意味さえ不明でした。
多分、ありのままを、いつわらずに生きる女性を称えているのでしょうが
女性のすべてがそう生きているわけではありませんし
「内臓」とか「晒す」とか「真」とか、思わせぶりな単語を並べただけの
「真」からも「芯」からも遠い作品ではないでしょうか?
確かに「巻頭歌」にも入っていましたけれど(何がいいんだろう)
こういうもっともげな男の言葉に騙されないでほしいです。

と、感じるままを記しました。好みや考え方の違いはお許しください。
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コメントありがとうございます。 (ひさこ)
2007-05-04 06:19:12
OKさま

貴重なご意見をどうもありがとうございました。
ものすごく、ためになりました。
ほんとうにありがとうございます。

OKさんはひっかからなかったようですが、
母が生意気だといった箇所は、純ちゃんの歌のところでした。

母はわたしが「いくつもの葛藤があるものです」と書いたところが、
「本当に村のことを知っているのぉ?」と思ったそうです。

わたしは学生時代に民俗調査に参加したことがあって、
村について自分なりの考えがあったので、
つい断定的に「あるものです」と書いてしまったのですが、
母は「あるようです」としてほしかったと言われました。

でも、自分の考えに基づいて書いたものなので、
「あるものです」と書いてよかったと思っています。
でも、知ったかぶりはしたくないので、
今後、気をつけていきたいとは思いました。

OKさんが仰るように適切であることは大切だと思います。
あと3回、作品評があるので、気をひきしめて頑張ります。

さて、「うたびと」についてですが、
わたしは評にも書いたように自分の体験からこの歌に共感しました。

昔は、自分のことを「うたびと」だの「歌人」だのと
思うのは畏れ多い気がしていました。

いまでもその思いは変わらず、こころの中にあります。
そのため、OKさんに共感する部分もあります。

歌人の枡野浩一さんも世間で自分を歌人といったら、
あやしさ1000%だといっていたのを何かで見ました。

ですが、自分がベッドの上で歌を詠みつづけていたとき、
こんなに書きたいと思うのは、
自分の中に表現することに対する
特別な情熱があるからかもと感じました。

それをうまく言いあらわす言葉を探しているときに、
この歌に出会い、そういう気持ちをもつ人を
「うたびと」というのかもと思いました。

もしかしたら、自分の考えが変わるかもしれないし、
今後、他にいい表現をみつけて
違う言葉で表わすこともあるかもしれませんが、
今の時点では、そう思いました。

OKさんは、お仕事柄、
昔から言葉に対して細かい配慮をされているので、
きっとOKさんは自分のことを、今さら特別な言葉でもって、
把握したいとは思わないのかなと考えました。

その次の「女の真」のウタですが、評にも書いたように
わたしも「真」とは何かわからないまま、
「真」とは何かをしりたくて、このウタに惹かれました。
わたしが表現できないものを表現してくれたように思いました。

わたしは生き方というよりも男に対する女の思いだと感じました。
OKさんへのお返事を考えているうちに、
このウタに対するわたしの思いが発展してきて、
女はほんとうの幸せを見つけるために、
自分の「真」を賭けているのかもと思いました。

そう思いついたのは、昔読んだある本の内容を思い出したからです。
その本は、河出書房新社の文藝別冊「寺山修司」にでてくる、
宮台真司の「自由になりたければ、不自由になれ」(81P)という文章です。
うまく引用できなくて申し訳ないです。
気が向いたら本屋で見てみてください。

話しが飛んだりして、うまくレスになっているか心配ですが、
OKさんのおかげで、いろいろ考えて、
自分の考えが広がって、とてもよかったです。
ありがとうございました。
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