せつ子のつれづれ奮闘記さんから転載です。
御魂磨きで、心の安定を図る
今、日本は大艱難の真ただ中にいます。低級霊たちが、我欲の強い人たちを次々と憑依しているようです。
十分気をつけて下さい。心の波動を乱さないように気をつけてくださいね。私たちは、元々は神なのです。特に大和の民は、神の民です。自分自身の良心神に目覚めれば、神と同じように何でもできるのです。御魂磨きをして波動を高めれば、雨・風、何でも操れるのです。自分を信頼してください。
テレビに心を支配されないよう気をつけてください。周りの低い波動と共鳴しないように十分気をつけてください。心清らかに利他の心で、これからも生きてくださいね。下記に恐怖心からのがれる方法が、書いてあります。恐怖は恐怖を産みます。創造神を信じ、御魂を磨きながら覚悟を決めて、楽天的に生きることも大切なのかもしれません。
<転載開始>
なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki20120715.html
人は信じるものを引き寄せる
この「信じる」ということは、「心の使い方」の基本となるものですのです。人は信じるものを引き寄せるからです。そこで大切なことは「何を信じるか」ということです。「日本が再び地震や津波に襲われることを信じる」人もいれば、「自分はどうせ運が悪いのだ」と信じている人もいます。
「恐怖心」すなわち「恐れる」という心の働きも、「恐れる対象の力を信じている」ということになります。人は恐れるものを引き寄せますが、別な言葉で言えば「人は信じるものを引き寄せる」ということなのです。自分が(奥の心では)何を信じているか、が運命を左右します。
「人は信じるものを引き寄せる」ということは、人が集団となって同じことを信じれば、引き寄せる力は絶大になります。日本人の7割はテレビや新聞などマスコミの報道を簡単に信じるという調査結果があります(アメリカ人は24%)。さて、いまマスコミはどんな報道をしているでしょうか。
特にテレビの報道は映像で流されますので、洗脳効果(信じさせる効果)は絶大です。しかも繰り返し同じような映像を流すことで完璧に「岩に書いた文字」となって集合意識の中に刻まれます。実相の世界では大規模な地震や津波が出番を待っている状態でしょう。
四苦八苦する必要はない
株式への投資では株を買った人しか配当金はもらえないのと同じように、「恐怖心」という心の力を集合意識に送り込んだ人だけが、「恐怖すべき出来事」という配当を受け取ることになります。恐怖心を持っていない人は分け前はもらえないのです。心のメカニズムの公平さは完璧です。
「恐怖心をもっているかどうか」は自分ではなかなかわからないものです。問題なのは「ふだんの心」ではなく、「奥の心」の状態だからです。「私はちっとも恐くはないよ」と強がりを言っている人ほど、実は本心では非常に恐がっている場合もあります。人は虚勢を張るものです。
仏教が教えている「四苦八苦」の中に「怨憎会苦(おんぞうえく)」があります。そのまま理解すれば「怨み、憎むものに会う苦しみ」ということですが、怨み憎む対象は人だけとは限りません。地震や津波、あるいは原発事故に伴う放射性物質なども対象になるでしょう。
「四苦八苦」のひとつ「愛別離苦」は「愛するものと別れることの苦しみ」です。この場合も、愛する対象は人だけとは限りません。東日本大震災では津波によって、愛する人はもちろん、ペット、家、アルバムなど思い出の品、町並み、ふるさとの自然、働く場所、などが失われました。
最終的に、私は「恐怖心を持つ必要はないんですよ」ということを言いたいわけですが、そのためには「奥の心」に刻まれた恐怖心を整理していく必要があります。そこで「恐怖心を持つことになる原因や持つことの弊害」について説明しているところです。
仏教でも、結論としては「四苦八苦する必要はない」と教えています。そのために、「なぜ人は四苦八苦するのか」ということを説明することから始めているのです。四苦八苦の残りの2つは「求不得苦(ぐふとっく)」と「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」です。
「求不得苦」は直訳すれば「求めるものが得られない苦しみ」です。「求めるもの」は物とは限りません。結婚相手や働く職場など、私たちが求めるものはいろいろありますが、それが希望通りに得られないことは、不満や不安な気持ちにつながります。
「五蘊盛苦」の「蘊(うん)」は「色」「受」「想」「行」「識」の五つです。「色」は般若心経の「色即是空」の「色」で「物質」のことです。「受想行色」はいろいろな「心の働き」ということです。つまり、「五蘊盛苦」とは、「物質や心に影響される苦しみ」ということになります。
以上、四苦八苦の全体像を見て来ました。「身魂磨き」の必須要件である「身・口・意のコントロール」の中で、潜在意識の中に染みついた「恐怖心」を一掃していくことは非常に大切です。「恐れる心は恐れるものを引き寄せ、ますます恐れる気持ちを強くする」という悪循環に陥るからです。
私が実践している「恐怖心と縁を切る方法」をご紹介します。一口に言えば「覚悟を決める」ということです。自分の身に降りかかる結果をすべて「(自分の進化のため、カルマの清算のために)必要なことだ」と肯定的に受け止めることです。不満に思わず、むしろ感謝します。
人が恐れるような出来事が身に降りかかっても不満に思わない心の訓練――これが好ましくないカルマを解消するためのゴールデンルールです。「ああ、これで潜在意識に蓄積していた善くないカルマが少し整理(解消)できただろう」と考え、小出しにしてもらえたことに感謝します。
その前提となる考え方は、「自分は過去および過去世における身・口・意によって、他人様にもいっぱい迷惑をかけ、善くないカルマを作っているはずだから、それをこの人生で清算してしまわなくてはいけない。不運に思える出来事は借金返済が進んでいる証拠だ」というものです。
「自分の身に降りかかる試練を恐れず、感謝して受け止める」という姿勢は人生を強く生きるために欠かせない心の使い方です。「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛和尚の至言です)。
テレビや新聞では「今度は首都直下型地震だよ~」「東海地震は間違いなくくるよ~」「東南海地震も連動するかもよ~」「浜岡原発は危ないね~」と恐怖心のネタをばらまいています。そのつど「どこに逃げようか」と心が右往左往していては、恐怖心の虜になってしまいます。
「どこにいても助けるものは助ける」と日月神示の神様はおっしゃっています。肉体生命を助けるという意味とは限りませんが、現世での修行が終わった人は、終末の大混乱を体験することなく霊界に旅立ちます。断末魔を味わって初めて気づきを得る人よりは魂が進化しているのです。
カルマの法則に関しては、私のHPの次の一文もぜひご参考に。
→ 「カルマがこの世の現実を作り出している」
今回がこの世で最後の人生?
私たちは現在の人生以外にも過去世において別の人生経験を持っています。人によって回数に差はあるでしょうが、何回も生まれ変わっているのです。その時々の人生で身につけた心の癖が現在の人生を形作っています。ただし、どうやら今回がこの物質世界での最後の人生になりそうです。
ですから、現在の人生は過去の人生以上に大切に生きなくてはいけません。魂の垢をきれいさっぱり落としておく必要があります。いま人は二極分化しつつあり、「コツコツとカルマの清算に努めた人」と「好ましくないカルマを貯め込んだまま終末の大峠を迎える人」に色分けされるでしょう。
好ましくないカルマを貯め込んだままの人(魂)は、終末の大峠において地獄絵図を体験することになるかもしれません。それによって目を覚ます人と、恐怖に駆られて自分を見失う人に分かれると思われます。終末の破局現象は、この物質文明に対する執着心を捨てさせるための天の配剤なのです。
まずは「言葉」のコントロールから
終末の時代において身魂磨きが大切なことを述べてきました。身魂磨きの要諦は「身・口・意をコントロールする」ということです。最終的には「心の使い方」がすべての鍵を握っているのですが、まずは「言葉」と「行為(態度)」を正すことから始めるべきでしょう。
「言葉」や「行為」が乱れれば、その影響で「心」が乱れます。また、「心」が乱れると「言葉」や「行為」も乱れてきます。日本人の言葉、行為の乱れは日本人の集合意識の中に好ましくないカルマを育て、自然災害や事故など社会を混乱させる出来事として形を現してくるのです。
仏教で言う「身・口・意」のことを、大本神諭や日月神示などの日本の神示では「口・心・行」と表現しています。「身=行」「意=心」ですから、全く同じ意味です。同じ表現の「口」は言葉のことです。仏教も日本の神示も、言葉のコントロールの大切さを強調しています。
「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して言い開きをしなければならないでしょう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからです」。新約聖書(マタイによる福音書)に出てくるイエスの言葉です。審判の日とは終末の大峠のことです。
イエスはまた「心からあふれることを、口が語るものです。善人は良い倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出します」とも述べています。私たちの言葉は私たち自身の心の状態を表現しているのです。もちろん、心が汚れていても、人前では良い言葉を使うことは可能です。
カルマの善悪を判定するのは、最終的には心の状態ということになります。「意図」や「動機」が最も大切なのです。愛する子供を立派な人間に育てるための厳しい言葉(口)や仕打ち(身・行)は、それが子供(他者)への愛情から出たものである限りマイナスのカルマとはならないのです。
逆に、人前では慈愛あふれる言葉を使っていても、動機が見栄や体裁を繕うためであったり、裏に邪悪な意図が隠れているならば、その心の中の状態がそのまま良くないカルマとして潜在意識に刻み込まれていきます。そのような心の癖が身についた人はカルマの清算は難しいでしょう。
美しい言葉を使っていても、心の状態が汚れていればマイナスのカルマを蓄積していきます。「心」が最も大切なのです。しかし、「言葉は乱れていても心はきれいだから大丈夫」ということはありません。イエスが言っているように、言葉は心の状態を反映したものだからです。
他人の噂話や悪口、愚痴や不満、悲観的な言葉、他者を軽蔑する言葉、自慢話、……そのような言葉のことを一括りにして、イエスは「無益な言葉」と表現しています。自分を悪く言うこと(卑下)も良くないのです。倫理的な意味からでなく、運命を左右する秘訣として述べているのです。
「誰にも聞かれていないなら、何を言ってもいいだろう」と思っている方があるといけませんので、あえて忠言しておきます。言葉が口から出る限り、他人が聞いていなくてもカルマに与える影響は変わりません。「壁に耳あり、障子に目あり」と言いますが、実は自分自身が聞いているからです。
転載以上