旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(神社と祭神・宝満宮・・潤野)

2013年05月23日 11時24分10秒 | 神社と祭神
神杜と祭神

古来わが国民は「日本国は神国なり。」の信念を持ち、神杜は国家神道として尊崇(そんすう)された。

太平洋戦争終了後は、国家神道は神社神道にかわり、神社は一宗教として位置づけられ、わが国の歴史における一大変化で、転換期の概略を記して前書きとする。

義務教育においては、教科書から国家神道的色彩をもつものが一掃された。

行事においても四大節の、教育に関する勅語の奉読、祭興に代表児童の参拝、教師の指揮による学童の一斉拝礼学校設置区域に鎮座する産神の宮日の休業など,一切が廃止された。

その維持管理については、物心ともに、国家、町村の庇護が禁止され、関係者の自主的な意志によることとなった。現在は前の氏子が信者に変わっている。

此の現象のがマンネリズム的な一時現象として衰退をたどるか、自然発生的に昔のようになるかは、時勢の推移と信者の自主性によって左右されよう。

具体的には、祭典行事は、信者にかわった旧氏子たちが、従来どおり実施しているようであり、また維持費も負担している。

清掃維持は数人割りあて制、区域、全員など種々な方法によってなされている。


潤野宝満宮




1、鎮座地 鎮西村大字潤野字宮山

2、祭 神 

玉依姫命(神武天皇の母親)
     
天照皇大神

磐余彦命

葺不合命(神武天皇の父親)

火火出見命(神武天皇の祖父)

豊玉姫命(天孫・邇々芸命の娘)

3、察 日  9月9日

4、杜 殿 (イ)神殿、横2間1尺8寸 入1間4尺5寸
     
(ロ)渡殿、横6尺6寸, 入1丈2尺

      (ハ)拝殿、横2間1尺9寸2分 入2間1尺9寸2分

5、境 内 2,052坪

6、由 緒 福岡県地理全誌に「文明(1477)九年の棟札に奉再興満明神上檀一字御意趣者神徳益新国家安全特当所繁昌万快民楽善願成就而巳本願主筑紫民野田大膳亮藤原朝臣経久当所地頭武藤筑紫備中守藤原経勢文明九丁酉年(1477)二月十五日大宮司貞次諸神官貞吉等、神輿の飾に用ひし銅製流金の鳳の胴部(銘に勝屋次郎左衛門願主九月九日とあり社家にて長享年中と云へり、長享は後土御門院の年号なり、勝屋氏は今鞍手郡下村に子孫あり)ありしが文化元年(1804)甲子に焼失す、(鳳は腹のみあり)、探題行踊と云事あり,(真丸踊共云ふ)毎年八月新穀を供へ村民群参して是を行ふ、西京の輸踊とも云ものに同じ………」とある。

また太宰管内志に「筑前国穂波郡宝満明神者、振古乏名杜也、文明年中筑紫氏再造之、其時所揚之棟札今尚有之、然年所久文字漫減将失其真、予蒙君命巡邑之日、祀官請改書乏以為副遂不得辞書以与乏、其間唯一二不可解者如臼書後之者勿疑之、元蔵庚午仲秋十四日貝原好古判」とあってこの宝満杜と言うのは穂波郡潤野村にある。またこの杜の神輿の鳳形の銘に「宝満大菩薩云々脇屋次郎左衛門願主」とあり、「文化元年十一月(1804)朔日炎上して悉く滅せり。」と書いてある。現在の杜殿は昭和4年(1929)春吉日しゅん工式を行なったものである。

7.境内神杜

(イ)若八幡宮 祭神 品陀別命、息長足姫命、大鶴鵜命、由緒不詳例祭8月、
建物横1間3尺入1間3尺と(潤野青柳神官蔵神杜明細帳)にあるが
現在は建物はない。

(口)天満宮 祭神 菅原神 由緒不詳 例祭8月 
建物 横5尺入1間(神殿左側の建物か)

(ハ)厳島神杜 祭神 市杵嶋姫命 由緒不詳 例祭11月11目.・石祠

(ニ)飯祖神杜 祭神 稚産霊神、埴夜須神 由緒 不詳 例祭8月 石祠

(ホ)甲子神杜 祭神 大国主命 由緒不詳 石祠

(へ)祇園杜 祭神 素蓋鳴命 潤野下区より境内にうつした。








     


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