天照神杜
1、鎮座地 鎮西村'大字蓮台寺字宮前
2、祭 神
天照皇大神、
瓊瓊杵命
猿田彦命
3、祭 日 9月9日
4、社 殿
(イ)神殿 横1間4尺、入1間3尺
(ロ)渡殿 横2間、入1間
(ハ)拝殿 横2間4尺、入2間3尺
5、境 内 360坪
6、由 緒 八額山(八面山とも云う)にある、八額山の峯八顆に分かれる。
ゆえに八面神杜とも言う。由緒不詳,明治5年(1872)11月3日、
村杜に被定される。
7.境内神杜
(イ)貴船神社 祭神 高龗神・闇龗神・
建物 横1間、入5尺、
由緒 不詳杜中に諾神が合祀してある。
(口)山の神 巡手より境内にうつす。天神さまを合祠詳細不詳、建物 横1間、入5尺
この神社に関しては、村人が残した記述が残っているので、紹介します。
何れが元祖か天照皇大神
筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には八面神社が祭られています。
八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。
処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。
池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。
天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。
天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。
瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。
昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。
それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。
昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻のわが家の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。
そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。
皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。
蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。
その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。
この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。
私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。
そして新しい発見をしたのでした。
新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。
その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。
処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。
その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。
その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。
村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。
これ即ち天照神社の誕生なり。
八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(五百年前)に再建されたといふ。
池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(二百四十九年前)に改築され、寛政三年十月(二百一年前)に幣殿が増築されました。
(村人の言い伝え・・・)
2、祭 神
天照皇大神、
瓊瓊杵命
猿田彦命
3、祭 日 9月9日
4、社 殿
(イ)神殿 横1間4尺、入1間3尺
(ロ)渡殿 横2間、入1間
(ハ)拝殿 横2間4尺、入2間3尺
5、境 内 360坪
6、由 緒 八額山(八面山とも云う)にある、八額山の峯八顆に分かれる。
ゆえに八面神杜とも言う。由緒不詳,明治5年(1872)11月3日、
村杜に被定される。
7.境内神杜
(イ)貴船神社 祭神 高龗神・闇龗神・
建物 横1間、入5尺、
由緒 不詳杜中に諾神が合祀してある。
(口)山の神 巡手より境内にうつす。天神さまを合祠詳細不詳、建物 横1間、入5尺
この神社に関しては、村人が残した記述が残っているので、紹介します。
何れが元祖か天照皇大神
筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には八面神社が祭られています。
八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。
処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。
池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。
天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。
天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。
瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。
昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。
それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。
昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻のわが家の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。
そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。
皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。
蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。
その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。
この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。
私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。
そして新しい発見をしたのでした。
新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。
その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。
処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。
その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。
その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。
村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。
これ即ち天照神社の誕生なり。
八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(五百年前)に再建されたといふ。
池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(二百四十九年前)に改築され、寛政三年十月(二百一年前)に幣殿が増築されました。
(村人の言い伝え・・・)
● 鳥居の写真を4枚掲載しているが、手前にあるのが天照皇大神・一段高いところにあるのが八面宮とある。(それと、もう一つの話・・・)
天照宮が、鞍手郡宮田町磯光にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていない。この宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。
「笠置山を挟んで反対側にもうちと同じ天照神社がありましたよ。」驚いて、車を飛ばした。
飯塚市伊川の近く、蓮台寺の地に確かに天照大神社があった。
(このときには分らなかったが、直近にもう一つの天照神社があるそうだ。)
この宮の宮司が、飯塚市伊岐須の高宮八幡宮の宮司ということで、少し引き返してお聞きした。祭神が、天照大神、瓊々杵命、手力男命であった。
「この並び方からすると、天照大神はニギハヤヒでしょうか。」・・・「可能性はありますね。」
青柳宮司の奥方はあっさりと答えられた。
このときに、三柱目の手力男命との関連で終に、天照大神は元々男神であって、天岩屋戸説話で天宇受売命がストリップを行なったという伝承の本意が見えたのである。
男神だからこそ岩屋戸を細めに開けてしまったのであろう。
古事記の「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。
瓊々杵命は天孫降臨の別働隊であって、確かに、竺紫の日向の高千穂の串振岳に天降ったのだろうが、この詔は饒速日命が笠置山に天降ったときのものと考えざるを得ない。
記紀は天孫降臨の主人公の詔を別働隊の弟の瓊々杵命のものに接木したようだ。
この話を元に結んでいくと・・・私たちが住んでいる筑豊平野・飯塚・宮若の地に大きなロマンを感じています。