● 鎮西四国八十八箇所・鎮西村編
大正2年(1913年)に鎮西村・二瀬町・幸袋町・飯塚町(今の飯塚市)の4カ町村の有志が集まって、この町村のお寺やお堂などから霊場88か所を選び、これに四国88か所の寺名をつけて,「鎮西四国88カ所」を作り、鎮西上人の偉大な遺徳をしのび心身の清浄をはかろうと計画した。
このとき本村からも各から1人ずつが開創発起世話人となって相談に加わった。
こうして話がまとまって同年9月開創しはじめて団体参拝をし。
東は鯰田(飯塚市)から西は八木山・南は明星寺から北は庄司(幸袋町)までの広さを2泊3日で一巡した。
後にこの霊場に加えて欲しいという希望がつぎつぎとあったが88カ所を多くすることはできないので,奥の院として霊場に加えた。(わかり次第追加してまいります。)
私の住む村にある霊場・観世音堂「建花寺址」には、いまなお春秋2回善男善女が霊場において御詠歌をあげ,「南無大師遍照金剛」と唱えながら、うららかな田園を通り参拝をしている方がおられます。
また、私の住んでいる処の観世音堂(建花寺址)に隣接するお家では、お接待といってお茶や菓子などを巡拝される方に提供していますが、現在では知る人が少なくなりだんだんすたれている。
● 巡 礼
元来、西国「三十三箇所信仰や、四国八十八箇所信仰は幕末から明治時代になると筑豊にも普及し、大正時代にかけて帆柱四国、中間四国、六ッ岳四国、小竹四国、鎮西四国などと、筑豊の各地域はくまなくそれらの四国に分割編成された。
● 鎮西四国八十八箇所(開創 大正二年九月中旬)
(この内、旧・鎮西村に関するものだけをまとめてみました。・・昔の地域活性化の動きでもあったと思います。)
明星寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
明星寺(3カ所)
十一 薬師如来 阿波国藤井寺 南谷
二十一 虚空蔵菩薩 阿波国大龍寺 明星寺
二十四 虚空蔵菩薩 土佐国東寺 明星寺
● 貴船社・・横谷(拾)
● 龍王祠・・旱魃の際、雨乞いをした。雨乞いの方法には「お籠り」・「雨乞い」・「貰い水」・「神を怒らす」・「千駄焚き」などがある。
● 虚空蔵堂(明星寺址)
明星寺北屋敷にある。明星寺跡、虚空蔵堂は昔は方9問で瓦葺の堂であったという。
今は横4間,縦3問の堂である。田字に虚空蔵田と言って祭田の名が残っている。
地蔵堂は昔は方4間今は方1間半。薬師堂は今は横2問縦3間の堂、また薬師田といって祭田の名が残っている。
本尊は虚空蔵菩薩て祭日は4月13日、7月13日である。
しかし夏はほといなかった。
毎月13日の(農繁期を除く)御日には参拝にくる人たちの湯茶の接待を明星寺のんどお祭りをして婦人会が受け持っている。
土地の人はこの仏をお産の仏としてあがめ、明星ガ池の水を産前にいただくと安産すると語り伝えている。
潤野
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
潤野3カ所
ニ 阿弥陀如来 阿波国極楽寺 国広
十九 地蔵菩薩 阿波国立江寺 大木戸
八十五 観世音菩薩 讃岐国八栗寺 潤野
奥の院
八十五 聖観世音菩薩 讃岐国八栗寺 潤野
八十五 聖観世音菩薩 讃岐国八栗寺 潤野
● 西福寺・・昭和6年真宗木辺派、西福寺説教所建立、昭和四十年三月、真宗南本願寺本山となる。
● 観音堂・・雀堂ともいい、世尊妙意観音を祀る。
(観音堂)
一名雀堂ともいう、潤野上区にあって由緒は明らかでない。本尊は世尊妙意観音(豆観音)という。
本尊の御座裏に次の通り記されている。
修繕代寄進 昭和六年(1931)旧十二月廿九日吉日 児島隆三様方 西本清太、縁日は旧暦7月17日でこの日は合祠前は青年が上区農家よりマサメを一戸3合あて集めてたき参拝人の接待をし、千燈明をともして、相撲会を催した。
高田、二瀬、穂波の近郊からも力士、参拝人が集り非常ににぎやかであった。
今は千燈明は電燈に代わり子供相撲を行なっている。
● 牧神社・・牛馬安全と五穀豊穣を祈る。
● 今宮神社・・児島氏勧請し今宮大明神を祀る。
花瀬
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
花瀬1ヵ所
八十七 聖観世音菩薩 讃岐国長尾寺 久保
奥の院
五十九 薬師如来 伊予国国分寺 花瀬久保
● 観音堂・・境内に「一宇一石塚」がある。これは高木神社跡発掘の際、一石に一字ずつの経文を写した石が出てきたので、この地に埋めこの碑を建てた。
(一宇一石塔)
直径さん~四センチの川原石を集め、その小石に経典を一字ずつ書写する。
例外的には、小石に数字ないし十数字を書いた場合もある。これらの小石をまとめ土中に埋め、地表には塚を築いたり、塔や碑を建てたりする。
この一宇一石塔は埋経の一種で、経典の保存よりも、供養の目的で建てられたものといえる。年代は明らかではないが、鎌倉時代末期から江戸時代のものが多い。
堂宇名 安置地 本尊 備考
観音堂 花瀬シドキ田 観世音菩薩 現存・木造瓦葺・祭事・新8月10日
● 供養堂・・もと大和宅裏にあったと言われる寺の仏像を移したもの。
(供養堂)
大和彦市屋敷内に方1間ぐらいの小宇がある、中央の仏体は面部の外は腐杤がな/はだしく旧体を留めていない。
口碑によれば、この仏像は裏の高地にあった寺の仏といわれる。その跡寺も数度の兵乱に荒れはてて、祭る僧もなく、大和氏の祖先が現位置に安置し供養を続けた。
曾祖父の代、破損がはなはだしいので飯塚宮の下の、竹林仏師に仏体を刻ませ取りかえたところ、毎夜夢をみるので不思議に思って旧仏体とあわせ祭ったら、安らかに眠れるようになったとのことである。
左の像が竹林仏師の刻んだもので右は前記寺院の石燈籠の最上都と思われる。
昔は縁日には子供だちがおおぜい集りお籠りをした。
この子供たぢに大和氏の祖先が赤飯をたいて馳走した。
仏の供養が楽しい、懐しい思い出となったことであろう。
今も年一回の祭事は続けているとのことである。
大日寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
大日寺4カ所
四 大日如来 阿波国大日寺 大日寺
四十四 十一面観世音菩薩 伊予国菅生寺 寺の谷
六十九 聖観世音菩薩 讃岐国観音寺 寺の谷
七十四 薬師如来 讃岐国早山寺 御手洗
● 大日如来堂・・『嘉穂郡誌』には「聖光上人明星寺を再興せし時、此の村より材木を取り、また末寺を建て大日寺と号す。
此れより大日寺村と改めしとぞ。
此巨樟天正年中焼失したが、其の株根より芽を生じ、今四圍許り。側に大日堂あり。
其の像は長ニ尺・大日寺の古仏なりと云う。」とある。
(大日寺如来堂)
大日寺下村にあり本尊・大日如来は高さ3尺5寸、縁日は3月27日と7月27日である。
この像は土地の人に大日寺さまとよばれて親しまれている。
古老たちは口を揃え幼時この堂で楽しく遊んだ思い出を話す。
組中で作った子供たちの境内の遊び道具も懐しい昔の夢を子に孫に再現させているのであろう。
御本尊は郡誌に「……その後聖光上人明星寺を再興せし時此村より材木を取り又末寺を建て大日寺と号す。
それより大日寺村と改めしとぞ、此巨 天正年中焼失せしが其株根より芽を生じ今四囲ばかり・……」とあって本尊はこのくすの木を切って刻んだものといわれている。
夏の縁日には、各家は馳走をつくってお籠りをし子供相撲を楽しむ。
他の地に嫁いだ者もこの日は子供をつれ帰り相撲に加え健やかな成長を祈る。
今もなおこの行事が盛大に行なわれているのは大日さま敬愛のあらわれであろう。
● 観音堂・・菩提寺址で、聖光上人(鎮西上人)得度の地という。
(観世音堂・寺の谷)・・大日寺八幡宮の両方200mぐらいにあり、老木数本、雑草に囲まれた小堂の中に古色蒼然たる小像がある。
境内には露座の小石仏がならび、昼なお暗いさびしいところである。
大日寺のとかよばれる寺名が伝わっているが、これらは同一のものが異なった名称でよばれたものか、異った寺であったものか、はっきりしない。
郡誌には「大日寺址、大日寺村上村寺の谷にあり、福寿山金剛禅寺と云ふ大寺にて寺領もありしと云ふ・…」とあり、この文から解釈すれば同一のもののようでもある。
同書に「菩提寺は大日寺上村の西北一町にあり、観音堂あり聖光上人得度の地と云ふ」と書かれている。
この所は寺の谷の位置にあたる。
口碑によれば寺の谷は墓地で、薬師様は明治のはじめ薬師前という地からうつしたものといわれる。
また大日寺の跡は寺の谷、または大日如来堂の地ともいわれる。
菩提寺の跡は赤間三郎の屋敷付近とだいたい意見が一致している。
この堂は千人詣りの札所で,お祭りは昔はで行なっていたが今は一部の信者でなされているようである。
● 御手水神社・・イザナギノ命を祭る、神功皇后御手水の地という。
蓮台寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
蓮台寺(5カ所)
九 釈迦如来 阿波国法綸寺 瓦林
二十六 薬師如来 土佐国西寺 巡出
二十八 大日如来 土佐国大日寺 坂ノ下
三十一 文殊菩薩 土佐国五台山寺 蓮台寺
三十四 薬師如来 土佐国種間寺 蓮台寺
奥の院
二十四 十一面観世音菩薩 土佐国種間寺 蓮台寺
六十 大日如来 伊予国模峰寺 蓮台寺石坂
六十五 十一面観世音菩薩 伊予国三角寺 蓮台寺坂ノ下
六十六 千手観世音堂 伊予国雲辺寺 蓮台寺池尻
七十 馬頭観世音菩薩 讃岐国本山寺 蓮台寺坂ノ下
● 釈迦堂・・池尻(拾)
● 観音堂・・池尻 此の地もし蓮台寺跡にあらぬか(拾)。境内に元禄元年(一六八八)の庚申塔がある。これは仏教関係の場所にあるものとしては珍しい例である。
堂宇名 安置地 本尊 備考
観音堂 蓮台寺池尻 〃 現存 現存蓮台寺址といわれている。
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を三年十八回続けた記念に建立されることが多い。
塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。
庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。
● 地蔵堂・・歯の痛む時、柳の枝で年齢の数だけ箸を作り、此れを供えて祈願すればすぐ治るといわれている。
(地蔵堂)
蓮台寺字中津谷、光妙寺納骨堂上の四本檜の下に木造瓦ぶき、方1間、高さ、1間ぐらいの堂がある。
中に高さ6寸ぐらいの古びた小さな仏像が祭ってある。
口碑によれば歯痛みの仏で歯の痛むときは柳の枝で年令の数だけ箸を作り、これを仏前に供えて治ゆを祈ればすぐなおるといわれ,昔は近隣からの詣でる者が多かった。
縁日には区民が千燈明をともし祭事を行なっている。
医術の幼稚で普及しない時代には、病気は人力のほかで病いに関係のある神仏が方々に祭られている。
● 弁天石造・・八木山との境にある。
● 光妙寺・・蓮台寺字本村にあって天照山という。本尊阿弥陀如来,本堂横4間,入4間,昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。
当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。
時に慶安2年(1649)7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一字を
建立したということである。
たまたま昭和37年、境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、300年前の面影をしのび恭しく納骨堂め階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
11世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。
堂宇名 安置地 本尊 備考
大師堂 蓮台寺川原林 弘法大師 現存・祭日・旧7月20日・相撲を催す
建花寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
建花寺(5カ所)
六 薬師如来 阿波国安楽寺 安養寺(本村)
十 千手観世音菩薩 阿波国切幡寺 小切畑(古野)
四十二 大日如来 伊予国仏木寺 建花寺
四十三 千手観世音菩薩 伊予国明石寺 堂園(古野)
四十六 薬師如来 伊予国浄瑠璃寺 建花寺
奥の院
四十六 薬師如来 伊予国浄瑠璃寺 建花寺堂園
五十六 地蔵菩薩 伊予国泰山寺 建花寺内浦
● 桂木神・・舞山という処にあり、桂木大樹有囲一丈五尺許、是を桂木神という、別に社なし此の木を神躰として祭る(拾)
● 観音堂・・堂園にあり、観音の立像四尺六寸五分・脇侍・四天王像長弐尺五寸あり、これこの建((マ)華(マ))寺の本尊也という。
(観世音堂・建花寺址)
建花寺堂園にある。郡誌によれば「建花寺堂園にあり、明星寺の末院なりと云う観音堂あり,本尊観世音菩薩立像高さ4尺6寸5分、行基の作と云う。
脇侍、四天王像長さ2尺5寸あり、古の本尊なり。
毎年6月17日村民等万燈を照して供養す。」とある。
この仏は,安産の守り神として信仰があつく,今もなお地区の婦人は毎月輸番で座を定めお供えをして安産を祈っている。
昔は縁日には・にわか、浪曲、桂木座、ノゾキなどの演芸や興業が催され遠近より多数お参りして非常ににぎわっていた。
新暦4月17日、8月17日の2回お籠りをし、8月9日は御通夜の習わしがあったが、これらの行事は時代の推移とともに衰え古老たちを歎かせている。
● 大日堂・・明星寺の末寺であったが本寺と同じに廃され現在鎮西四国四十二番霊場になっている。
(大日如来堂)
建花寺山神にあって、このところを蓮上寺という。
福岡県地理全誌に、「禅定寺址。建花寺村の西北五町にあり、明星寺末にして本寺と同時に廃すと云大日堂あり。」と書かれている。
地名蓮上寺とあるのは、後世禅定寺が蓮上寺とよばれて残ったものであろう。
本尊は大日如来で鎮西札所42番である。
二月最初の丑日の縁日にはアオキの小さなオーコ(にない棒)を作り、牛馬をつれて参りこれを仏前に供えて息災を祈った。
また家々では一升ますから盛りでる大餅を供えて馳走をし、五穀豊穣を祈願した。
4月には人間、牛馬ともに無事田植えが終るようにと、各戸から切り銭を集めてお籠りをしている。
● 五穀神・・四月十五日神主が田土及び御幣を神前に供え五穀豊穣を祈る。
この田土と御幣を区長宅に保管の後に各戸に分ける。八月七日早朝各戸は御幣を田に立て、土を入れて成長する稲をほめ豊穣を祈る。是を「田ほめ」という。
● 安養院(建花寺)
建花寺字荒巻にあり、報土山と号した。
本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。
この寺はむかし。
現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつた ころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(七七一)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久三年(一一九二)浄土宗第二相・鎮西国師、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。
後天正九年(一五八一)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ,焼失する。
● 六地蔵・・宮田に越す峠に山賊が出るので、黒田藩(福岡藩)の武士に頼んで首をはねてもらった。しかし、山賊どもの往生が悪く幽霊となって出るので、地蔵菩薩を六体刻んで供養した。子供の病気、特に百日咳に効き目があるとされている。
(六地蔵)
今からおよそ200年前建花寺より吉川(宮田町)に越す峠に山賊がでて旅人をなやました。
このことを建花寺民が黒田藩に届けでたので、早速武術達者な武士を差し向け捕えて首をはねた。
ところがこの山賊どもの往生が悪く幽霊となり迷いでるので地蔵菩薩を6件刻んで供養したといわれる。
これがどうまちがえられたか子供の病気、特に百日陵の地藏として効果があると伝えられ、全決祈願あため詣でる人が多くなった。
祈願成就の暁には「はったい粉」や「よだれかけ」を供えている。
● 石仏・・古野公民館の榎の下にあり、大友宗麟との戦いで死んだ笠置城の落人を祭ったとされている。
(石仏・いしぼとけ)
建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。
青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。
古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。
8月16日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。
八木山
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
八木山(6カ所)
八 千手観世音菩薩 阿波国熊谷寺 久保尾
十四 弥勒菩薩 阿波国常楽寺 茶屋
三十五 薬師如来 土佐国清滝寺 本村
六十二 十一面観世音菩薩 伊予国一ノ宮 中村
六十四 阿弥陀如来 伊予国神前時 重ヶ原
六十五 十一面観世音菩薩 伊予国三角寺 鴻の巣
● 如水大明神・・慶長六年如水公石坂の道を開き給いし時、久しくとう村に逗留し給う、折りしも村民孫左エ門という者を隣ませられ、力役貢税を免じ給う、其の後かの農夫公の恩恵を感じ神に崇めて如水大明神と称し奉りて神祠を建てたりしが後頽廃せし故、今は老松宮の相殿に合せ祀れり、其子孫今に此の村にありて、彼夫役免除の尊翰を家に蔵む、文字朽損して定かならずとも茲に出しぬ。(以下略)
佛菩薩が仮に人身などの姿を現じて衆生を済度することを権現といい、此の権現は神号となるとともに明神という神号と並立した。明神は延喜式にある名神の社格から起こった名称であろう。
中世後期より神道が仏教より優位になって大明神号を権現号より上位とした。
秀吉は豊国大明神とされたが家康は僧天海を尊信したということで東照大権現という。
八木山
堂宇名 安置地 本尊 備考
地藏堂 八木山女郎原 地藏尊 現存・石祠
観世音堂 八木山字中村 観世音菩薩 現存・方1.5問・藁葺・木造仏体の背に土午元臓 十五年の字がある。立中寺址
薬師堂 八木山鳥ケ坂 薬師如来
観世音堂 八木山久保尾 観世音菩薩 現存
旧・鎮西村には多くのお寺があったことが、上記の資料でよくわかると思う。
さらに、昔の人々は信仰が厚く、心の拠り所として崇拝していたことが良くわかるし、このようなことで村の団結が強くなって行ったのではと推測できる。
また、鎮西上人の残した足跡が今も村人には伝わり伝承されている事を強く感じている次第です。
大正2年(1913年)に鎮西村・二瀬町・幸袋町・飯塚町(今の飯塚市)の4カ町村の有志が集まって、この町村のお寺やお堂などから霊場88か所を選び、これに四国88か所の寺名をつけて,「鎮西四国88カ所」を作り、鎮西上人の偉大な遺徳をしのび心身の清浄をはかろうと計画した。
このとき本村からも各から1人ずつが開創発起世話人となって相談に加わった。
こうして話がまとまって同年9月開創しはじめて団体参拝をし。
東は鯰田(飯塚市)から西は八木山・南は明星寺から北は庄司(幸袋町)までの広さを2泊3日で一巡した。
後にこの霊場に加えて欲しいという希望がつぎつぎとあったが88カ所を多くすることはできないので,奥の院として霊場に加えた。(わかり次第追加してまいります。)
私の住む村にある霊場・観世音堂「建花寺址」には、いまなお春秋2回善男善女が霊場において御詠歌をあげ,「南無大師遍照金剛」と唱えながら、うららかな田園を通り参拝をしている方がおられます。
また、私の住んでいる処の観世音堂(建花寺址)に隣接するお家では、お接待といってお茶や菓子などを巡拝される方に提供していますが、現在では知る人が少なくなりだんだんすたれている。
● 巡 礼
元来、西国「三十三箇所信仰や、四国八十八箇所信仰は幕末から明治時代になると筑豊にも普及し、大正時代にかけて帆柱四国、中間四国、六ッ岳四国、小竹四国、鎮西四国などと、筑豊の各地域はくまなくそれらの四国に分割編成された。
● 鎮西四国八十八箇所(開創 大正二年九月中旬)
(この内、旧・鎮西村に関するものだけをまとめてみました。・・昔の地域活性化の動きでもあったと思います。)
明星寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
明星寺(3カ所)
十一 薬師如来 阿波国藤井寺 南谷
二十一 虚空蔵菩薩 阿波国大龍寺 明星寺
二十四 虚空蔵菩薩 土佐国東寺 明星寺
● 貴船社・・横谷(拾)
● 龍王祠・・旱魃の際、雨乞いをした。雨乞いの方法には「お籠り」・「雨乞い」・「貰い水」・「神を怒らす」・「千駄焚き」などがある。
● 虚空蔵堂(明星寺址)
明星寺北屋敷にある。明星寺跡、虚空蔵堂は昔は方9問で瓦葺の堂であったという。
今は横4間,縦3問の堂である。田字に虚空蔵田と言って祭田の名が残っている。
地蔵堂は昔は方4間今は方1間半。薬師堂は今は横2問縦3間の堂、また薬師田といって祭田の名が残っている。
本尊は虚空蔵菩薩て祭日は4月13日、7月13日である。
しかし夏はほといなかった。
毎月13日の(農繁期を除く)御日には参拝にくる人たちの湯茶の接待を明星寺のんどお祭りをして婦人会が受け持っている。
土地の人はこの仏をお産の仏としてあがめ、明星ガ池の水を産前にいただくと安産すると語り伝えている。
潤野
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
潤野3カ所
ニ 阿弥陀如来 阿波国極楽寺 国広
十九 地蔵菩薩 阿波国立江寺 大木戸
八十五 観世音菩薩 讃岐国八栗寺 潤野
奥の院
八十五 聖観世音菩薩 讃岐国八栗寺 潤野
八十五 聖観世音菩薩 讃岐国八栗寺 潤野
● 西福寺・・昭和6年真宗木辺派、西福寺説教所建立、昭和四十年三月、真宗南本願寺本山となる。
● 観音堂・・雀堂ともいい、世尊妙意観音を祀る。
(観音堂)
一名雀堂ともいう、潤野上区にあって由緒は明らかでない。本尊は世尊妙意観音(豆観音)という。
本尊の御座裏に次の通り記されている。
修繕代寄進 昭和六年(1931)旧十二月廿九日吉日 児島隆三様方 西本清太、縁日は旧暦7月17日でこの日は合祠前は青年が上区農家よりマサメを一戸3合あて集めてたき参拝人の接待をし、千燈明をともして、相撲会を催した。
高田、二瀬、穂波の近郊からも力士、参拝人が集り非常ににぎやかであった。
今は千燈明は電燈に代わり子供相撲を行なっている。
川崎屯氏、川崎茂文氏談
● 牧神社・・牛馬安全と五穀豊穣を祈る。
● 今宮神社・・児島氏勧請し今宮大明神を祀る。
花瀬
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
花瀬1ヵ所
八十七 聖観世音菩薩 讃岐国長尾寺 久保
奥の院
五十九 薬師如来 伊予国国分寺 花瀬久保
● 観音堂・・境内に「一宇一石塚」がある。これは高木神社跡発掘の際、一石に一字ずつの経文を写した石が出てきたので、この地に埋めこの碑を建てた。
(一宇一石塔)
直径さん~四センチの川原石を集め、その小石に経典を一字ずつ書写する。
例外的には、小石に数字ないし十数字を書いた場合もある。これらの小石をまとめ土中に埋め、地表には塚を築いたり、塔や碑を建てたりする。
この一宇一石塔は埋経の一種で、経典の保存よりも、供養の目的で建てられたものといえる。年代は明らかではないが、鎌倉時代末期から江戸時代のものが多い。
堂宇名 安置地 本尊 備考
観音堂 花瀬シドキ田 観世音菩薩 現存・木造瓦葺・祭事・新8月10日
● 供養堂・・もと大和宅裏にあったと言われる寺の仏像を移したもの。
(供養堂)
大和彦市屋敷内に方1間ぐらいの小宇がある、中央の仏体は面部の外は腐杤がな/はだしく旧体を留めていない。
口碑によれば、この仏像は裏の高地にあった寺の仏といわれる。その跡寺も数度の兵乱に荒れはてて、祭る僧もなく、大和氏の祖先が現位置に安置し供養を続けた。
曾祖父の代、破損がはなはだしいので飯塚宮の下の、竹林仏師に仏体を刻ませ取りかえたところ、毎夜夢をみるので不思議に思って旧仏体とあわせ祭ったら、安らかに眠れるようになったとのことである。
左の像が竹林仏師の刻んだもので右は前記寺院の石燈籠の最上都と思われる。
昔は縁日には子供だちがおおぜい集りお籠りをした。
この子供たぢに大和氏の祖先が赤飯をたいて馳走した。
仏の供養が楽しい、懐しい思い出となったことであろう。
今も年一回の祭事は続けているとのことである。
大和彦市氏,林光寅市氏談
大日寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
大日寺4カ所
四 大日如来 阿波国大日寺 大日寺
四十四 十一面観世音菩薩 伊予国菅生寺 寺の谷
六十九 聖観世音菩薩 讃岐国観音寺 寺の谷
七十四 薬師如来 讃岐国早山寺 御手洗
● 大日如来堂・・『嘉穂郡誌』には「聖光上人明星寺を再興せし時、此の村より材木を取り、また末寺を建て大日寺と号す。
此れより大日寺村と改めしとぞ。
此巨樟天正年中焼失したが、其の株根より芽を生じ、今四圍許り。側に大日堂あり。
其の像は長ニ尺・大日寺の古仏なりと云う。」とある。
(大日寺如来堂)
大日寺下村にあり本尊・大日如来は高さ3尺5寸、縁日は3月27日と7月27日である。
この像は土地の人に大日寺さまとよばれて親しまれている。
古老たちは口を揃え幼時この堂で楽しく遊んだ思い出を話す。
組中で作った子供たちの境内の遊び道具も懐しい昔の夢を子に孫に再現させているのであろう。
御本尊は郡誌に「……その後聖光上人明星寺を再興せし時此村より材木を取り又末寺を建て大日寺と号す。
それより大日寺村と改めしとぞ、此巨 天正年中焼失せしが其株根より芽を生じ今四囲ばかり・……」とあって本尊はこのくすの木を切って刻んだものといわれている。
夏の縁日には、各家は馳走をつくってお籠りをし子供相撲を楽しむ。
他の地に嫁いだ者もこの日は子供をつれ帰り相撲に加え健やかな成長を祈る。
今もなおこの行事が盛大に行なわれているのは大日さま敬愛のあらわれであろう。
● 観音堂・・菩提寺址で、聖光上人(鎮西上人)得度の地という。
(観世音堂・寺の谷)・・大日寺八幡宮の両方200mぐらいにあり、老木数本、雑草に囲まれた小堂の中に古色蒼然たる小像がある。
境内には露座の小石仏がならび、昼なお暗いさびしいところである。
大日寺のとかよばれる寺名が伝わっているが、これらは同一のものが異なった名称でよばれたものか、異った寺であったものか、はっきりしない。
郡誌には「大日寺址、大日寺村上村寺の谷にあり、福寿山金剛禅寺と云ふ大寺にて寺領もありしと云ふ・…」とあり、この文から解釈すれば同一のもののようでもある。
同書に「菩提寺は大日寺上村の西北一町にあり、観音堂あり聖光上人得度の地と云ふ」と書かれている。
この所は寺の谷の位置にあたる。
口碑によれば寺の谷は墓地で、薬師様は明治のはじめ薬師前という地からうつしたものといわれる。
また大日寺の跡は寺の谷、または大日如来堂の地ともいわれる。
菩提寺の跡は赤間三郎の屋敷付近とだいたい意見が一致している。
この堂は千人詣りの札所で,お祭りは昔はで行なっていたが今は一部の信者でなされているようである。
梶原実五郎氏・梶原玄信氏
● 御手水神社・・イザナギノ命を祭る、神功皇后御手水の地という。
蓮台寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
蓮台寺(5カ所)
九 釈迦如来 阿波国法綸寺 瓦林
二十六 薬師如来 土佐国西寺 巡出
二十八 大日如来 土佐国大日寺 坂ノ下
三十一 文殊菩薩 土佐国五台山寺 蓮台寺
三十四 薬師如来 土佐国種間寺 蓮台寺
奥の院
二十四 十一面観世音菩薩 土佐国種間寺 蓮台寺
六十 大日如来 伊予国模峰寺 蓮台寺石坂
六十五 十一面観世音菩薩 伊予国三角寺 蓮台寺坂ノ下
六十六 千手観世音堂 伊予国雲辺寺 蓮台寺池尻
七十 馬頭観世音菩薩 讃岐国本山寺 蓮台寺坂ノ下
● 釈迦堂・・池尻(拾)
● 観音堂・・池尻 此の地もし蓮台寺跡にあらぬか(拾)。境内に元禄元年(一六八八)の庚申塔がある。これは仏教関係の場所にあるものとしては珍しい例である。
堂宇名 安置地 本尊 備考
観音堂 蓮台寺池尻 〃 現存 現存蓮台寺址といわれている。
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を三年十八回続けた記念に建立されることが多い。
塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。
庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。
● 地蔵堂・・歯の痛む時、柳の枝で年齢の数だけ箸を作り、此れを供えて祈願すればすぐ治るといわれている。
(地蔵堂)
蓮台寺字中津谷、光妙寺納骨堂上の四本檜の下に木造瓦ぶき、方1間、高さ、1間ぐらいの堂がある。
中に高さ6寸ぐらいの古びた小さな仏像が祭ってある。
口碑によれば歯痛みの仏で歯の痛むときは柳の枝で年令の数だけ箸を作り、これを仏前に供えて治ゆを祈ればすぐなおるといわれ,昔は近隣からの詣でる者が多かった。
縁日には区民が千燈明をともし祭事を行なっている。
医術の幼稚で普及しない時代には、病気は人力のほかで病いに関係のある神仏が方々に祭られている。
● 弁天石造・・八木山との境にある。
● 光妙寺・・蓮台寺字本村にあって天照山という。本尊阿弥陀如来,本堂横4間,入4間,昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。
当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。
時に慶安2年(1649)7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一字を
建立したということである。
たまたま昭和37年、境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、300年前の面影をしのび恭しく納骨堂め階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
11世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。
堂宇名 安置地 本尊 備考
大師堂 蓮台寺川原林 弘法大師 現存・祭日・旧7月20日・相撲を催す
建花寺
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
建花寺(5カ所)
六 薬師如来 阿波国安楽寺 安養寺(本村)
十 千手観世音菩薩 阿波国切幡寺 小切畑(古野)
四十二 大日如来 伊予国仏木寺 建花寺
四十三 千手観世音菩薩 伊予国明石寺 堂園(古野)
四十六 薬師如来 伊予国浄瑠璃寺 建花寺
奥の院
四十六 薬師如来 伊予国浄瑠璃寺 建花寺堂園
五十六 地蔵菩薩 伊予国泰山寺 建花寺内浦
● 桂木神・・舞山という処にあり、桂木大樹有囲一丈五尺許、是を桂木神という、別に社なし此の木を神躰として祭る(拾)
● 観音堂・・堂園にあり、観音の立像四尺六寸五分・脇侍・四天王像長弐尺五寸あり、これこの建((マ)華(マ))寺の本尊也という。
(観世音堂・建花寺址)
建花寺堂園にある。郡誌によれば「建花寺堂園にあり、明星寺の末院なりと云う観音堂あり,本尊観世音菩薩立像高さ4尺6寸5分、行基の作と云う。
脇侍、四天王像長さ2尺5寸あり、古の本尊なり。
毎年6月17日村民等万燈を照して供養す。」とある。
この仏は,安産の守り神として信仰があつく,今もなお地区の婦人は毎月輸番で座を定めお供えをして安産を祈っている。
昔は縁日には・にわか、浪曲、桂木座、ノゾキなどの演芸や興業が催され遠近より多数お参りして非常ににぎわっていた。
新暦4月17日、8月17日の2回お籠りをし、8月9日は御通夜の習わしがあったが、これらの行事は時代の推移とともに衰え古老たちを歎かせている。
西国33カ所札所(観世音)
鎮西四国札所(弘法大師)
鎮西四国札所(弘法大師)
● 大日堂・・明星寺の末寺であったが本寺と同じに廃され現在鎮西四国四十二番霊場になっている。
(大日如来堂)
建花寺山神にあって、このところを蓮上寺という。
福岡県地理全誌に、「禅定寺址。建花寺村の西北五町にあり、明星寺末にして本寺と同時に廃すと云大日堂あり。」と書かれている。
地名蓮上寺とあるのは、後世禅定寺が蓮上寺とよばれて残ったものであろう。
本尊は大日如来で鎮西札所42番である。
二月最初の丑日の縁日にはアオキの小さなオーコ(にない棒)を作り、牛馬をつれて参りこれを仏前に供えて息災を祈った。
また家々では一升ますから盛りでる大餅を供えて馳走をし、五穀豊穣を祈願した。
4月には人間、牛馬ともに無事田植えが終るようにと、各戸から切り銭を集めてお籠りをしている。
関幾次郎氏談
● 五穀神・・四月十五日神主が田土及び御幣を神前に供え五穀豊穣を祈る。
この田土と御幣を区長宅に保管の後に各戸に分ける。八月七日早朝各戸は御幣を田に立て、土を入れて成長する稲をほめ豊穣を祈る。是を「田ほめ」という。
● 安養院(建花寺)
建花寺字荒巻にあり、報土山と号した。
本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。
この寺はむかし。
現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつた ころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(七七一)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久三年(一一九二)浄土宗第二相・鎮西国師、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。
後天正九年(一五八一)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ,焼失する。
● 六地蔵・・宮田に越す峠に山賊が出るので、黒田藩(福岡藩)の武士に頼んで首をはねてもらった。しかし、山賊どもの往生が悪く幽霊となって出るので、地蔵菩薩を六体刻んで供養した。子供の病気、特に百日咳に効き目があるとされている。
(六地蔵)
今からおよそ200年前建花寺より吉川(宮田町)に越す峠に山賊がでて旅人をなやました。
このことを建花寺民が黒田藩に届けでたので、早速武術達者な武士を差し向け捕えて首をはねた。
ところがこの山賊どもの往生が悪く幽霊となり迷いでるので地蔵菩薩を6件刻んで供養したといわれる。
これがどうまちがえられたか子供の病気、特に百日陵の地藏として効果があると伝えられ、全決祈願あため詣でる人が多くなった。
祈願成就の暁には「はったい粉」や「よだれかけ」を供えている。
村瀬幾雄氏談
● 石仏・・古野公民館の榎の下にあり、大友宗麟との戦いで死んだ笠置城の落人を祭ったとされている。
(石仏・いしぼとけ)
建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。
青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。
古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。
8月16日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。
小畑国勝氏談
八木山
地区名 札所 本尊 寺号 所在地
八木山(6カ所)
八 千手観世音菩薩 阿波国熊谷寺 久保尾
十四 弥勒菩薩 阿波国常楽寺 茶屋
三十五 薬師如来 土佐国清滝寺 本村
六十二 十一面観世音菩薩 伊予国一ノ宮 中村
六十四 阿弥陀如来 伊予国神前時 重ヶ原
六十五 十一面観世音菩薩 伊予国三角寺 鴻の巣
● 如水大明神・・慶長六年如水公石坂の道を開き給いし時、久しくとう村に逗留し給う、折りしも村民孫左エ門という者を隣ませられ、力役貢税を免じ給う、其の後かの農夫公の恩恵を感じ神に崇めて如水大明神と称し奉りて神祠を建てたりしが後頽廃せし故、今は老松宮の相殿に合せ祀れり、其子孫今に此の村にありて、彼夫役免除の尊翰を家に蔵む、文字朽損して定かならずとも茲に出しぬ。(以下略)
佛菩薩が仮に人身などの姿を現じて衆生を済度することを権現といい、此の権現は神号となるとともに明神という神号と並立した。明神は延喜式にある名神の社格から起こった名称であろう。
中世後期より神道が仏教より優位になって大明神号を権現号より上位とした。
秀吉は豊国大明神とされたが家康は僧天海を尊信したということで東照大権現という。
八木山
堂宇名 安置地 本尊 備考
地藏堂 八木山女郎原 地藏尊 現存・石祠
観世音堂 八木山字中村 観世音菩薩 現存・方1.5問・藁葺・木造仏体の背に土午元臓 十五年の字がある。立中寺址
薬師堂 八木山鳥ケ坂 薬師如来
観世音堂 八木山久保尾 観世音菩薩 現存
旧・鎮西村には多くのお寺があったことが、上記の資料でよくわかると思う。
さらに、昔の人々は信仰が厚く、心の拠り所として崇拝していたことが良くわかるし、このようなことで村の団結が強くなって行ったのではと推測できる。
また、鎮西上人の残した足跡が今も村人には伝わり伝承されている事を強く感じている次第です。