
夏の強烈な日差しにも、ようやく陰りがみえはじめたころ、私の所へ一つの小包が届いた。松崎美奈子からである。彼女は、私のイタリア語の家庭教師をしてくれている音大の4年生で来年の10月からは、ローマのサンタチェチリア音楽院に留学が決まっており、ヨーロッパの生活や習慣に慣れるため、この夏2カ月ほどヨーロッパ各地を旅行している。時おり絵葉書が届いていたが、小包は初めてである。中を開くと手紙に添えて白い石の塊がでてきた。手紙には、ギリシャの印象が簡単に記されていた。なにしろ暑い。頭と足下から猛暑が押し寄せてくる。まるでテンピの中にいるようだ。暑さと排気ガスのせいかオリーブの葉先も縮れ精気を失っている。男達も無表情で、黒い短い影だけを地面に残し寡黙に歩いている。何処も同じ女達だけが快活だ。ギリシャの栄光は過去に潰え、エーゲの碧だけが永遠である。そのエーゲ海クルーズのおり海にもぐって拾いあげたのがこの石だそうだ。私は石の快い冷たさと感触をあじわい誕生祝いにもらったオルゴールの箱にしまいこんだ。その夜私は、こんな夢を見た。白き衣を身にまとった老人が現れ私にこう告げた。私は、ギリシャの 盲目の詩人ホメロスである。これから、その石の由来について全てを語ろう。老人は、壮大な叙事詩を語りはじめた。
始めにミュートス神話があった。このミュートスは、ロゴスとは異なりさまざまに変様を繰返し、このミュートスからは、人間の心、芸術、そして世界がうまれた。まず世界の始めにカオスがあった。カオスはぽっかりと大口をあけ中に生成の力を秘めていた。このカオスから揺るぎない大地、ガイヤ、そして奈落の底 タルタロス、そして愛エロスが生まれた。さてガイヤは甘美なしとねも無しに同じ大きさのウラノス、天空を生みだし自
分の体をすっぽりと覆わせた。ついで、高き山々と荒波打ち騒ぐふもうの海、ポントスとを生みだしたのである。さてガイヤはウラノスと伏床を共にすることにより、チタンの神族と呼ばれる巨人族を生みだした。その末なる最も感知にたけた恐るべきクロヌスが、ウラノスに代わって世界を治めたのである。さてクロヌスは妻レイヤを娶り次々に子供をもうけたが、生まれくる子供を次から次へとその腹へ納めてしまったのである。両親の予言によりレイヤの膝の間に生まれ落ちる子供が王座を奪うだろうという予言があったからである。それを悲しんだレイヤは、ゼウスが生まれるにいたって両親に相談し、クレタ島の洞窟でゼウスを産むとニンフに預け、大きな石を産着に包み、クロヌスに差し出すとクロヌスは怪しむことなくそれを飲み込んだ。ゼウスは、山羊の乳で育てられ泣き声がクロヌスにとどかぬよう、妖精達が鎗で盾を打ち鳴らし、その泣き声を隠した。すばやい速さでゼウスは成長し、まいもどったゼウスは、薬を用いてクロヌスから兄弟達を皆吐き出させたのである。こうしてクロヌスを中心とする古いチタンの神々とゼウスを中心とする新しい神々との間に戦いが始まったのである。戦いは一進一退をきわめたが、祖父母の助けによりゼウスは雷電をハデスは隠れ帽子をポセイドンは三叉の矛を授かり、ようやくのことクロヌス達をタルタロスの底へ追い落とした。今天から金敷を投げ下ろすと九夜九日落ち続け、十日目にやっと地上にたどりつきます。地の表面から同じだけ潜った所に奈落の底、タルタロスがあるのです。
さて、新しき神々は世界を治めるにあたって、クジ引きを行い、ゼウスが天空を海と陸地をポセイドンが冥界をハデスが治めることにした。しかし、オリンポスの山だけは神々の共通のものとし多くの神々が、ここに集い住んだのである。
さて、オリンポスの山に住む神々は、まず、神の中の神、雷電を駆使するゼウス、海と泉の神であり、陸地と地震の神でもあるポセイドン、死者の住む冥界の王、ハデス。ゼウスの姉でもあり、妻でもある黄金の靴をはいた女神の中の女神、ヘラ。穀物と収穫の神、デメテル。狩と出産の女神、アルテミス。いろりと火の神、ヘスティア。英知と戦いの神、アテナ。太陽神でもあり、音楽、医術、そして弓術の神でもある、アポロン。軍神アレス、神々の伝令であり、旅人の守り神でもある、ヘルメス。ヘラの子供であり、火山と鍛冶屋の神である、ヘパイストス。これらが有名なオリンポスの十二神と呼ばれる神々です。そのほかにも、多くの神々が、オリンボスには住いし、昼間は、ゼウスの神殿の大広間に集まり、神の食べ物である、アンブロシア。神の酒である、ネクタルを用いて大宴会を催し、その時、音楽の神、アポロンの奏でる得意の縦琴に和して、文芸の女神、ムーサ達が歌ったり、詩を詠じたりしました。この席で人といわず、神といわず、天と地におこる あらゆる事が話されたのです。
さて、ここで愛と美の女神、アプロディテの誕生について、お話しなければなりません。話を 少し前にもどしましょう。ガイヤとウラノスとの間には、巨大で奇怪な子供達が数多く生まれましたが、ウラノスは、これらの子供達を憎みガイヤの奥深く押し込んでしまったのです。さしも強大なガイヤも、腹の中がいっぱいになり苦しさにたえきれず大きな鎌を造りこれで父に仇を報ずる者はないかと子供達に問かけましたが、一同皆 恐れをなし声もたてません。その中で末なる感知にたけたクロヌスが、名乗りをあげたのです。さてウラノスが、ニクス、夜を伴いやって来て、ガイヤの上に長々と覆いかぶさった時、隠れ場所からクロヌスが左手を伸ばし、鎌を右手に持ってウラノスの陽物をスッポリと刈りとり、肩越しに後に投げますと滴る血を普くガイヤが受け、そこから復讐の女神達、ギタンテスとトリネコの木の精達が生まれたのです。陽物を肩越しに投げる仕種はローマのトレビの泉で願いを適える為にコインを投げる起元となったのです。さて、クロヌスの手を離れた陽物は、波うち騒ぐ不毛の海に落ちましたが、漂ううちに泡が生じ、その泡の中で一人の乙女が育成されました。これこそ、アプロス、泡から生まれたアプロディテ ヴィーナスの誕生です。ヴィーナスの誕生といえば、フィレンツェのウフィッツィ美術館に所蔵されている、ボッティチェリーのヴィーナスの誕生を思い浮かべる人も多いでしょう。泡立つ海の上にホタテ貝の舟が浮き、今、生まれたばかりのヴィーナスが恥らいのポーズをとる。左上部には、ニンフ フローラと抱きあった西風の神ゼヒィロスが頬をいっぱい膨らませ、息を吹きかけヴィーナスを陸地へ運ぼうとしています。陸地では、時のニンフ ホーラが、赤いマントを持って ヴィーナスを包むよう待ちかまえている構図です。さてオリンポスの十二神の仲間入りをしたアプロディテは 軍神、アレスとの間にエロスという子をもうけました。このエロスの弓矢で射ぬかれると神といわず人といわず愛の情念に狂うのです。ある日エロスが、弓矢で遊んでいますと運命の三女神モライが現れ、エロスを驚かしたので、エロスは、こともあろうに母親であるアプロディテに矢を射かけてしまったのです。人に愛をもたらすアプロディテが愛の虜になってしまったのです。相手は、野山を狩して歩く雄鹿のような若者クリュータンスでした。ミケールの森が美しきプラタナスの泉に二人を誘ったのは若葉さやぐ初夏のことでした。狩でひと汗流したクリュータンスが、泉で汗を拭いていると真新しい衣服を手にしたアプロディテが現れ、これに着替えるよう差し出しました。訝しく思ったクリュータンスもアプロディテのあまりの美しさに素直に従いました。神の衣に着替えたクリュータンスはいよいよ輝き、もうアプロディテは嬉しさでいっぱいです。 クリュータンスもアプロディテに愛を感じるようになるのにさほど時間は要しませんでした。森の木々が葉裏をかえすほど二人の愛には烈しいものがありました。しかし、人間界と係わりをもつカイロス、神の時は短くアプロディテはオリンポスに帰らなければなりません。このように短い逢瀬を続けているうちアプロディテの心には、いつまでもずっとクリュータンスと一緒に居続けたいという思いが占領したのです。そこで、アプロディテは、一つの策略を巡らしたのです。クリュータンスを神にしたてれば何時も一緒にいられる。そこで腹臣、ヘルメスに頼み神の食べ物であるアンブロシアと神の酒ネクタルを貯蔵庫から盗みださせクリュータンスに与えますとクリュータンスは、日に日にその輝きを増し、美しさと英知を兼ね備えるようになったのです。 これに目をとめたヘラが、いぶかしがりヘパイストスに命じ、鍛冶屋の技を駆使し目に見えない鋼鉄の網を造らせ貯蔵庫の入り口に仕掛けました。それとは気づかぬヘルメスがやって来てまんまと、この網に捉えられヘラのもとに引き出されたのです。今はこれまでとヘルメスは全てをヘラに告げるとヘラは激怒しゼウスのもとに走りました。日ごろヘラに弱味を握られているゼウスは、しかたなくアプロディテとクリュータンスを引き離しました。クリュータンスと引き離されたアプロディテは、この苦しみが未来永劫に続くのなら死んだほうがましだと思いクリュータンスが神になれないのなら自分が不死なる神を捨て、人間となり、限りある愛に生きようと決心したのです。眠りの精、シュプノスの助けをかり、ヘラと暁の女神、エオスの瞼を重くした。
さて、アプロディテはクリュータンスを誘い船を仕立て夜陰に乗じ、アテナイの港を出奔したのです。行く先はゼウスの生まれたクレタ島です。西風の神、ゼフィロスは頬をいっぱい膨らませ、順風を送ります。航海も半ばに差しかかったころ、暁の女神も、神々と人間達の為に朝の光をもたらす為、栄えある添い寝のふしどから起き上がったのです。時をうつさずヘラも目覚め、この船に目をとめポセイドンに命じ、暴風雨を起こさせ船を海中深く飲み込ませたのです。アテナイから200粁ほど離れた所にミロス島があり、ここにアプロディテはたどりつきましたが、クリュータンスを失っては、もはや生き長らえる術もなく天を仰ぎ大神ゼウスよ、私に死を賜らんことを。しかし、私が、愛と美の女神であった証に私の姿を石像に替え、後の世の人々に 伝えてくださいと懇願した。憐れんだゼウスは、願いをききとどけた。石像になってもアプロディテの高雅さと美しさは朝の光の中で、いよいよ輝くばかりです。これに目を止めたヘラが又横槍を入れました。大神ゼウスよ。あなたの雷電をもってアプロディテの腕を砕いてください。二度と人間の男を抱くことのないように。しかたなくゼウスは、雷電を飛ばしアプロディテの両の腕を砕くとカケラは四方に飛び散り、エーゲの水底ふかく沈んでいったのです。その時ゼウスはヘラに聞こえない声でこう囁きました。あのカケラを全て水底から拾い上げ、あなたの両の腕を再生する者があったら、その時あなたは、又、もとの女神にもどれるでしょうと予言したのである。両の腕を失ったアプロディテがあまりにも哀れだったので、ゼウスはハデスに命じ、大地を割らせその姿を地中深く隠した。
さて、アプロディテが再び、光の世界に戻ってくるのは、1820年のことです。エーゲ海地方を大地震がみまい、その後ミロス島でアプロディテの石像が発見されましたが不思議なことに両の腕のカケラがどこを捜してもみあたりませんでした。
今、アプロディテの像は、パリのルーブル博物館二階の一番奥まった部屋に飾られています。かつて、自分が愛と美の女神であったことのほこりとクリュータンスを愛しきった満足感にひたって、ひそやかに佇んでいるのです。
そこまで、老人は話すと、ふっと姿が消えてしまった。
カーテン越しに夏の強烈な光が、部屋いっぱいに差し込んでいた。
目を覚ませ、もう昼だ!
ギリシャ神話 (アプロディテの腕)[完]
☆デイーノ!!ありがとうございました。・・・ディーノは、今年も真夏の太陽を浴びながらヨーロッパ大道芸をしていると思います。もし、欧州(イタリアあたりが出没地域)へ出掛けて、街中で日本人が「オー・ソレ・ミヨ」を歌っていたら「ディーノ」と声をかけてみてください!!その日の稼ぎによりますが、ピザくらいはご馳走してくれるかもしれません。・・・今秋には、ディーノが主宰している「ヴォーチェ・アプリート」のコンサートも開催されます。ブログでお伝えしますので、是非ディーノに会いにきてください。**また、寄稿はしていただく予定(勝手に思っている)ですので、お楽しみに!!