縄文人の志葉楽さんのブログ

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●風流   ●日本文化の礎

2020年10月10日 09時05分39秒 | 文化
●風流   ●日本文化の礎
ワビ サビに通じて歌舞伎にも通じる。
日本語の良さを感じる。
色んな言葉がある。
どれが先に出来たか後から付いてきたか。
そんな事は判らない。
色んな言葉が日本文化。
日本を縦糸と横糸になり紡ぎ出している。
子孫である我々が其れを一つ一つ解しどのようなに繋ぎ合わされているか。
時には振り回されて繋ぎめが判らなくなったりもする。
日本語とは凄いね。
 
 
★風流 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki風流
風流(ふりゅう)とは、中世以後の日本において高揚した美意識の1つ。
人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し、婆娑羅や数寄とともに侘び・寂びと対峙する存在として認識された。
後にはこうした意匠に沿った芸能や美術・建築などにも用いられた。
なお、室町時代の漢和辞典である『下学集』には「風流の義也。日本の俗、拍子物を呼びて風流と曰ふ」とある。
現代の日本語で日常的に用いられる「風流(ふうりゅう)」の言葉の指す美意識とは若干異なるものである。
『万葉集』においては、「みやび」と和訓が振られ、「好き心」などの意味も有したが、平安時代には歌合などの行事に用いる故事や文芸作品に由来する作り物や衣装などの意味で用いられ、平安末期以後には祭礼の山車や衣装、宴席の州浜台などに施された華美な趣向を指して「風流」と呼ぶようになった。
また、こうした嗜好を好む人を風流者(ふりゅうざ)とも呼んだ。
一方で、永長元年(1096年)には貴族・官人から庶民までが風流な格好を纏って田楽を演じながら行進した永長大田楽や久寿元年(1154年)の今宮社御霊会において傘の上に風流な飾りの花を掲げて唄い囃した「風流のあそび」が行われ(『梁塵秘抄口伝集』巻14)、後世における音曲や歌で囃す「風流」の原型が記録されている。
風流のひとつである田楽の起源について大江匡房の『洛陽田楽記』には、「初め閭理よりして、公卿に及ぶ」(初めは田舎の人々が行い、やがて公家に及んだ)とあるように、風流は平安時代半ばから江戸時代まで続いた庶民による文化運動だった。
風流に属する分野は多岐にわたる。例えば本田安次は『日本の伝統芸』において、風流の全体を以下のように分類している[1]。
・神楽 - 巫女神楽、採物神楽、湯立神楽、獅子神楽
・田楽 - 田遊び、御田植神事など
・風流 - やすらい花、お練り、念仏踊りなど
・語り物・祝福芸 - 三河万歳など
・渡来芸・舞台芸 - 延年、歌舞伎など
現代の日本語で日常的に用いられる「風流(ふうりゅう)」の言葉の指す美意識とは異なる。

★風流踊       https://ja.wikipedia.org/wiki/風流踊
風流踊(ふりゅうおどり)または風流(ふりゅう)とは、中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである。室町時代に流行した。

★ばさら       https://ja.wikipedia.org/wiki/ばさら
日本の中世、南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。
婆娑羅など幾つかの漢字表記があり、梵語(サンスクリット語)で「vajra = 金剛石(ダイヤモンド)」を意味するが意味の転訛は不明であるとされる。
身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。
足利直義主導の下に、室町幕府の基本方針として編まれた『建武式目』では、ばさらを禁止している。
ばさらに対して批判的な古典『太平記』には、足利氏筆頭執事の高師直や、近江国(滋賀県)の守護大名の佐々木道誉(高氏)、美濃国(岐阜県)の守護大名の土岐頼遠などのばさら的な言動・行動が記されている。
これらの大名は「ばさら大名」と呼称されている。

★ ばさら【婆×娑羅】 の解説
[名・形動ナリ]
1 遠慮なく、勝手に振る舞うこと。また、そのさま。
  放逸(ほういつ)。放恣(ほうし)。
「大酒遊宴に長じ、分に過ぎたる―を好み」〈北条九代記・八〉
2 はでに見えを張ること。また、そのさま。
「一族若党共、例の―に風流を尽くして」〈太平記・二一〉
★ ほう‐いつ〔ハウ‐〕【放逸/放×佚】 の解説
[名・形動]
1 勝手気ままに振る舞うこと。生活態度に節度がないこと。また、そのさま。「―な生活をする」
2 手荒く乱暴なこと。また、そのさま。
「さらば―に当たれとて、糾問せられ」〈義経記・六〉
[派生]ほういつさ[名]
★ ほう‐し〔ハウ‐〕【放恣/放肆】 の解説
[名・形動]
気ままでしまりのないこと。勝手でだらしのないこと。また、そのさま。
「―な日々を送る」「生活が―に流れる」

★サンスクリット(梵語から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/サンスクリット
サンスクリット (梵: संस्कृत; saṃskṛta, Sanskrit) は古代インド・アーリア語に属する言語。
インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。
ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあり、大乗仏教でも多くの経典がこの言語で記された。
現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語の1つである。
この附則が制定された時に指定された15言語にサンスクリットはすでに入っており、インドの紙幣にもサンスクリットでの金額記載は含まれている。
サンスクリットは「正しく構成された(言語、雅語)」を意味し、この単語それ自体でこの言語を意味するが、言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる。
ただし、この言語が「サンスクリット」と呼ばれるようになったのが確認できるのは5世紀から6世紀ごろのことである。
漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本など漢字文化圏でのサンスクリットの異称。
日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。
梵語とは、サンスクリットの起源を造物神梵天(ブラフマー)とするインドの伝承を基にした言葉である。

★数寄者(数奇から転送)https://ja.wikipedia.org/wiki/数寄者
 数寄者(すきしゃ、すきもの)は芸道に執心な人物の俗称。
「数奇者」と書く場合もある。
現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に多くの茶道具を所有する人物として用いられる。
「数寄」とは本来「好き」の意味であり、特殊な当て字として流布している。
専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様を、特に「すき」と称しているのであり、現代の俗語としては「あんたもすきね」「ものずき」などに通じる。
古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。
このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。
なお近代になって財界人の間で茶の湯が流行するが、こうした茶人達は多くの名物道具の収集を行っており、その様が桃山時代の数寄者に似るところから「近代数寄者」と呼ばれる。
特に益田孝と原三渓を初めとして、根津嘉一郎 (初代)、小林一三、五島慶太、細川護立らが有名である。

★数寄屋造り   https://ja.wikipedia.org/wiki/数寄屋造り
数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式の一つである。数寄屋(茶室)風を取り入れた住宅の様式とされる。
語源の「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり(数寄者参照)、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。
数奇屋大工(大工を参照)が造る木造軸組工法の家屋。

★茶室(ちゃしつ)   https://ja.wikipedia.org/wiki/茶室
日本式の茶道において、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。
「茶席」「囲い」あるいは「数寄屋」と呼ぶこともある。大別して草庵風のものと書院風のものがあるが、一般的には草庵風のものを指す場合が多い。
独立した建物として造られる場合と、書院などの建物内に造り込まれる場合がある。
いずれの場合も露地と称する庭園を伴うのが一般的であったが、現代ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。
禅宗の「方丈(一丈四方の意)」から出た四畳半を標準として、それより狭いものを小間の茶室、広いものを広間の茶室という。
室町末期から桃山期にかけて発展・完成したが、日本の建築の中でも特殊な位置を占める。
日本庭園の中に造り、露地を設けるのが一般的であったが、近年ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。
また茶道部があるために、キャンパス内の片隅に茶室を構えている大学も多い。
茶道の稽古をしたり、茶を楽しむために炉が切ってある和室(畳のある部屋)も一般に茶室と呼ばれるが、本項では主に四畳半以下の草庵風茶室について述べる。

★露地(ろじ)   https://ja.wikipedia.org/wiki/露地
露地(ろじ)とは茶庭(ちゃてい、ちゃにわ)とも呼ばれる茶室に付随する庭園である。
茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。
(一般的には露地とは屋根などの覆いのない地面のこと。露地栽培、露地いちごなどという。)
本来は路地であるが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいてこの「露地」という名称が登場している。これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。
以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。

★かぶき者 https://ja.wikipedia.org/wiki/かぶき者
 かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。
異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。
茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。

★歌舞伎(かぶき)https://ja.wikipedia.org/wiki/歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能のひとつ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。
歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。
歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。
戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。慶長8年(1603年)京都で始めたと言われる。
その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。
寛永6年(1629年)に女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。

★わび・さび(侘・寂)https://ja.wikipedia.org/wiki/わび・さび
わび・さび(侘《び》・寂《び》)は、日本の美意識の1つ。
貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識。
閑寂ななかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう。
一般的に、陰性、質素で静かなものを基調とする。
本来は侘(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い。
人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている。
侘(わび、侘びとも)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。
転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。
もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。

★美学(美意識から転送))https://ja.wikipedia.org/wiki/美学
美学(びがく、英: aesthetics、またæsthetics、estheticsとも、希: Αισθητική (本文の2. 名称の項、参照)、「感性の学問」)とは美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域である。森鷗外により「審美学」という訳語が与えられたが、現在では美学と呼称される。
19世紀後半のドイツでは、美学から芸術の研究を独立させようと、芸術学(げいじゅつがく、独: Kunstwissenschaft、英: science of art)が提唱された。その後、美学は一般芸術学の主張を取り入れて変化し、今日では美学が哲学的であるのに対して、科学的・実証的な芸術研究を指して、芸術学と呼ぶようになってきている。
人が美しいと感じる心の働き。
美しいと感じる対象は個体差が大きく、時代、地域、社会、集団、環境などによっても大きく異なる。
例えば、整然と並ぶものに美を感じるものもいれば、ランダムに並ぶさまに美を感じるものもいる。
左右対称を美しいと感じるものもいれば非対称に美を見出すものもいる。無調を心地よいと感じるか否かなども美意識に関連している場合がある。
西欧では華美な装飾や対称の美しさを核とした人工の美をその美意識の中心においているが、日本人の美意識はむしろ自然と対立せず、寺社、庭園に見るように、自然に溶け込むこと、朽ちては再生するプロセスそのものへの馴染み、死をも敵対するものとしては捉えず、侘(わび)、寂(さび)に見るように朽ち果てゆくものへの素朴な同調などが基調になっている。
粋は江戸時代後期の文化文政期の町人の間に生まれた美意識である。建築において、コンクリート打ち放しを美しいと感じるか否かなどは、近年問いかけられたテーマである。
世阿弥が「秘すれば花」と表現したが、日本人には全体的調和を重んじ自己主張を抑制し隠蔽することによって却って受け手の想像力を刺激し、日本人特有の奥深い表現を成しえるといった側面があるように、その国特有の文化、生活、歴史観などに大きく左右される部分が多い。
あるいは、住んでいる環境・自然から受ける影響も大きいと考えられる。自然と対峙するか、自然と調和するかによって美意識は大きく異なる。

★風流踊    https://ja.wikipedia.org/wiki/風流踊
 風流踊(ふりゅうおどり)または風流(ふりゅう)
中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである。
室町時代に流行した。

★煎茶美風流お家元と 嘉兵衛本舗 https://00m.in/UhuJU 2016/04/06
お名刺を頂戴するとそこには
「煎茶美風流 四世家元 全国日本煎茶道連盟理事 文人趣味 臥遊 主宰 松知庵 中谷美風」
家元様自ら吉野までお越し下さいました。
川上村の道の駅で購入した嘉兵衛緑茶を大変気に入ってくださったとの事。
嘉兵衛の緑茶は露地栽培で渋みが強く、被覆栽培の旨みや深い緑色といった物ではありませんが、昔ながらの味を大変気に入って頂けたようで、家元とそのご家族で作られた「日本茶アートカフェうつぎ」で是非使いたいと、そして大和茶について、製法について、お茶について、色々お話を聞かせて下さいました。

★風流仏 幸田露伴 青空文庫  http://bit.ly/AxLhyb  小説
目次
・発端 如是我聞
・第一 如是相
・第二 如是体
・第三 如是性
・第四 如是因
・第五 如是作
・第六 如是縁
・第七 如是報
・第八 如是力
・第九 如是果
・第十 如是本末究竟等
・団円 諸法実相
 
発端 如是我聞
上 一向専念の修業幾年
 三尊四天王十二童子十六羅漢さては五百羅漢、までを胸中に蔵めて鉈小刀に彫り浮かべる腕前に、運慶も知らぬ人は讃歎すれども鳥仏師知る身の心耻かしく、其道に志す事深きにつけておのが業の足らざるを恨み、爰日本美術国に生れながら今の世に飛騨の工匠なしと云わせん事残念なり、..

★風流に「桜」をたしなむ猫たちの画像と動画特集 : カラパイア
https://www.pinterest.cl/pin/134193263868007638/
おともだちのみんなは今年の桜を堪能することができたかな?日本人にとって桜は昔から特別な意味を持つもの。桜の花はわずか一瞬に全てを賭けその美を一斉に解き放つ。そして散るべき時がくると潔くその運命に従いヒラヒラと舞い落ちて土に還る。そんな桜に深い意味を感じ

★日本國風流詩吟吟舞会 http://bit.ly/xCn3ZZ
    吟舞 漢詩 邦楽の楽しみ
詩吟とは、漢詩を吟ずることで18世紀初頭から、
受け継がれ日本の伝統芸術として定着しています
詩吟は作者の喜び、悲しみ、感動した心を吟者がとらえ
吟声によって詩の心を表現するのです
詩吟の感じた心をあなた自身の声で表現してみませんか
詩吟の調べは聞く人の心の琴線に触れ感動を呼びます

★日立風流物 [発見!!いばらき]
https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/mingei/17-5/17-5.html
日立風流物は、もとは宮田風流物と呼ばれ、神峰神社の祭礼に宮田村の氏子が奉納公開してきた山車です。山車は五段屋形開閉式で、高さ約15メートル、開いたときの幅約8メートル、重さ5トンもあります。使用する人形は芸題によりその都度作り替えられます。山車の各段には人形使いが乗り、人形を操ります。
   山車(だし)の上で行われる からくり人形芝居
指定年月日 昭和49年12月4日
所在地 日立市宮田町
管理者 日立郷土芸能保存会

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