縄文人の志葉楽さんのブログ

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◆不思議とは

2019年11月01日 19時22分41秒 | 文化

◆不思議とは
日本の歴史は国学と称するアカデミアの専門家と古義学と称する江戸時代に伊藤仁斎によって唱えられた儒学の一派と神道と神代文字を唱える一派などが覇を競い今では国学が日本の歴史をリードしている。
昔から国学で認めている古事記・日本書紀・万葉集などの古典が総ての歴史を語っているとされている。
オーパーツを以前書いたけれどもこれを踏まえていくと色んな文化が歴史として反映したり衰退したりして忘れ去られているモノも有る。
この辺りに争いのモトがあるようだ。
戦後GHQにより日本解体論で反日思想が蔓延し日教組始め共産党や在日と言われる三国人などに加えてシナの工作員などにより一層の反日が深まり現在に至っているようだ。
最初に神道がありそれにシナ系の思想が加わりマルクス主義や共産系統の思想が大いに影響しているのではないかな。
現代はまだ本当の日本の本領とされる何でも取り入れてしてしまう輪の力が完全に発揮されないようにされているのでは無いかと思える。
カタカムナやホツマなどが古事記・日本書紀・万葉集などの古典の原本だという説も大分押してきているのでは無かろうか。
どちらにしろ日本は縄文が基盤である。
これなくしてはこの国の歴史も文化の発展もとげる事は出来ないと思う。
神話はその中で一つの接着剤の役をしているのではないかな。
この辺りは上手く説明できない。
すごく難しい問題である。
和の精神がどこかへ行っているように思えるから。
見ているとアマでもプロでも譲れないだろうけれども譲り仲良くする事は出来ないのでは無いかな。

一時国内で古墳などの発掘で新発見があるとアタマの硬い学者が認めてくれないから国内で発表せずに今の言葉で言うと外国でリークして国内に入って来るように仕向けていたと聞いた事が有る。
古墳の発掘で以前すごく長いこと話題になったねつ造問題もこの辺りに起因するのではないかな。

韓国辺りのトンでも学説で世界の文明が韓国を発祥としているとか反日の思想の影響で二万年前の遺物が発見されても振り向きもしなかったりしているのも不思議である。
機械での年代測定が間違っているとも言われている。

結局オーパーツではないけれども本当は地球上に存在したけれども侵略や天変地異やその他の原因で継承されずに忘れ去られているのが本当で総てとは言えないかも知れないけど今出てきている学説は認められても認められなくてもほとんどが本物ではないかな。

今は文化が本当に進歩しているのかな。
幾つもの遺跡に残る石組みの精巧さやこれだけ大きな石をどうして運んだのか色々と取りざたされている。
空飛ぶ円盤は昔から有ったとも言われている。
超能力は元々人が持っている能力で大きな石を浮かせて運んだりモアイの様に一人で移動したとも言うトンでも説まで出てくる。

下にいくつかのサイトと解説少し上げておきます。
興味のある方は一読されると良いでしょう。

私はアタマが良くないので楽しめてアタマが痛くならない程度にしています。
専門家では無いからね。
 
・こぎ‐がく【古義学】
江戸時代、伊藤仁斎によって唱えられた儒学の一派。朱子学や陽明学の注釈に飽き足らず、直接「論語」や「孟子」の原典に当たって古義を明らかにし、仁を理想とする実践道義を説いた。仁斎学。堀川学。
 
・オーパーツ(ooparts)
《out of place artifacts(場違いな人工物)からの造語》その時代の文明にそぐわない古代の出土品。当時の技術では製作が不可能と考えられる加工品など。
 
・ジー‐エッチ‐キュー【GHQ】[General Headquarters]
《General Headquarters》総司令部。特に、第二次大戦後、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部。マッカーサーを最高司令官とし、占領政策を日本政府に施行させた。昭和27年(1952)講和条約発効により廃止。連合国軍最高司令官総司令部。
 
・支那【しな】
中国の異称。現在の中国本土をさす。秦(しん)の音に由来するといわれる。従来,日本では中国を唐と称したが,仏典にみえる支那・至那・脂那などがヨーロッパでの呼称シナ,チーナなどに似ているため,新井白石や蘭学者が使用し始めた。なお支那という言葉自体に蔑視の意味はないが,日中戦争などで侮蔑的に使用されたりした経緯から中国人の反発を受け,第2次大戦後はこの使用を避けることが多い。こうしたことから,中国では〈東支那海〉〈南支那海〉などの呼称は使用せず,それぞれ〈東海〉〈南海〉と呼んでいる。
→関連項目震旦|中国
 
・支那(シナ)が差別語ならば、「中華」はどうなる? – アゴラ
http://agora-web.jp/archives/2030881.html
2018/02/03
支那(シナ)は尊称であり、雅語である
支那(シナ)が差別語であるとしばしば、中国側から指摘される。
支那(シナ)という言葉は本来、中国という言葉よりも、時間的にも空間的にも広い意味を含んでいる。
中国という言葉は一般的に「中華人民共和国」の略称で、1949年、毛沢東によって建国され、今日まで続いている現国家を指すものだ。
(元々は孫文の「中華民国」の略称)
一方、支那は各時代の王朝・政権を超えた総称的な意味を持ち、また、各時代の王朝・政権の統治下にあった諸民族をも含む。
一部の論者は支那に、チベット人やウイグル人、モンゴル人は含まれないとしているが、そうではない。
 
・さんごく‐じん【三国人】
〘名〙
① 当事国以外の国籍の人。第三国の人。
② 第二次世界大戦後の米国占領下時代に日本に在留していた、主として朝鮮人と中国人(特に台湾人)をさして用いた語。第三国人。
※菜の花ざかり(1956)〈井上友一郎〉「お前、三国人の手先きになって、もう日本が負ける気になってンのか」
 
・ざい‐にち【在日】
〘名〙
① この世に生きている日。在世の時。
※正法眼蔵(1231‐53)仏道「世尊在日の功徳を信ぜざるなり」
② 外国人が日本に居住または、滞在していること。
  旧植民地出身者である在日朝鮮人をさして使うことが多い。
※新西洋事情(1975)〈深田祐介〉鎮魂「在日する外人たち、ソ連人のみならず、英米等自由諸国の在日外人たちの」
 
・神道   しんとう
惟神道 (かんながらのみち) ともいう。日本固有の民族信仰。特定の神域に神饌を供え,音楽歌舞で神を慰め恵みを請う呪術から出発し,やがて神社を建て,そこに神を祀った。律令体制のもとに神祇官がおかれ,社格の決定,神領,封戸の献進,幣帛 (へいはく) の供進が行われ,宮廷儀式として制度化した。平安時代には仏教と習合して本地垂迹 (すいじゃく) 説が現れた。鎌倉時代には両部,山王一実,伊勢 (度会) 諸神道が興り,室町時代には唯一神道が唱えられた。江戸時代には儒学と結びついた理当心地,垂加,吉川 (きっかわ) の諸神道が盛んとなり,一方本居宣長の復古神道が興った。末期には富士講,黒住教,天理教,金光教など教派神道が生れた。明治維新とともに神仏分離が行われ,新政府は神社を国家の宗祀とし,祭祀を国家中心で行うこととした。第2次世界大戦後,1945年の GHQによる「神道指令」で,神道は国家から切り離されて今日に及んでいる。
 
・カタカムナ | 木の花ファミリーホームページ
https://konohana-family.org/katakamuna/
2019/06/03
カタカムナは、今から約13000年前の上古代の東アジア一帯、特に日本(当時は日本列島がまだ大陸と陸続きだった)で高度に発達したといわれる、言霊を元にした宇宙物理学のことです。
現代の最先端の物理化学とそれを元に発達した現代社会は、今あらゆる方面で行き詰まりを見せています。
それは、私たちが生きているこの三次元物理世界の背後にあって、この世界を生み出す元になっている「潜象界」(多次元世界)があるという発想がないからです。
 
・ホツマツタエ「秀真伝」
http://www.hotsuma.gr.jp/
ホームページをご覧頂き、誠に有り難うございます。
このホームページは、日本翻訳センターが「ホツマツタエ」の現代語訳と英訳、仏訳を紹介するページです。まだまだ項目は少ないですが随時追加していきたいと思っています。
このページに関するご意見・ご感想はこちらへ info2@jtc.co.jp
  ホツマツタエとは...
ホツマツタエは、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩です。
縄文後期中葉から弥生、古墳前期まで約一千年の神々の歴史・文化を今に伝えています。
作者は、前半天の巻・地の巻をクシミカタマ(神武時代の右大臣)が、後半人の巻をオオタタネコ(景行天皇時代)が、編纂、筆録と記されています。
「ホツマツタエ」勉強会
目次
アワのうた
アから始まり、ワで終わるので「アワのうた」といいます。「いろはうた」以前の日本古来の48音で、ホツマ48文字を表わします。天の部1アヤに記されています。
  
フトマニ図
トヨケ神(伊勢外宮祭神)が初めてイサナギとイサナミの両神(フタカミ)に天上モトモトアケ(元元明)のサゴクシロ宮に坐す四十九(ヨソコ)神の座席図を五十一文字で表わし授けた。
2002年12月11日UP
 
・聖徳太子と「和」の精神
https://www.seitoku.jp/gakuen/contents05/main06
 聖徳太子が十七条憲法を制定したのは、当時の政治家や官僚に守るべき心得を示唆するためでした。
 その第一条で「和の精神」こそが智を啓き、道徳心を養う根本であるとしましたが、香順先生はここに教育の普遍的で根源的な姿をみたのです。
 この「和の精神」は、太子が帰依していた仏教と、中国から伝来していた儒教の融合から生まれた思想ですが、もともとは「礼の用は和を貴しと為す」という論語の一節が原点でした。
 その論語の中で孔子は特に「礼」を重視し、上に立つ人間が、下の人間に対して礼をもって接すれば、自ずと下の人間にも礼の大切さが身についていくと説いています。ただ、それだけでは人間関係が円満にならないので、「和」を心がけようとも説いたわけです。「和」とは、なごみであり、親しみであり、穏やかさであり、助け合うことであり、他人を思いやることです。
 
・空飛ぶ円盤 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/空飛ぶ円盤
空飛ぶ円盤(そらとぶえんばん、英: Flying saucer, Flying disc)
一般に未確認飛行物体(UFO)の一種とされ、目撃された形態が円盤型もしくは
皿型のものを指すが、人間の常識から考えて人工的な飛行物体と考えにくい
異常な形態(葉巻型など)のものもこれに含めて用いられることがある。
表面は銀色あるいは金属状であると報告されることが多い。
一般にUFOという言葉が同じ意味で用いられることが極めて多いが、
UFO(未確認飛行物体)とは本来米国空軍、海軍で用いられるまったく異なる概念の用語である。
仮に「空飛ぶ円盤」が「宇宙人の乗り物」であることが確認されたとすれば、定義上、
その「空飛ぶ円盤」は「UFO」すなわち「未確認飛行物体」ではなくなりIFOとなる。
なお、これらとは別に、実存の航空機として円盤型の主翼や円盤型形状の機体は、
XF5Uやアブロカー(英語版)等が存在している。
 
・超能力 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/超能力
超能力(ちょうのうりょく)
通常の人間にはできないことを実現できる特殊な能力のこと。
今日の科学では合理的に説明できない超自然な能力を指すための名称。
古代シッディ、神通力などとも呼ばれた。
 
◆国学 http://note.masm.jp/%B9%F1%B3%D8/
江戸中期に興った、文献学的方法による古事記・日本書紀・万葉集などの古典研究の学問。儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようとしたもの。漢学に対していう。契沖(けいちゆう)を先駆とし、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤(ひらたあつたね)らによって確立。古学。皇学。
 
2 律令制下の地方教育機関。国ごとに設け、郡司の子弟に儒学などを教授した。
 
3 中国の夏・殷(いん)・周の制度で、国都に設けた学校。隋以後は国子監という。
 
1 古事記・万葉集などの日本の古典を研究して、日本固有の思想・精神を究めようとする学問。江戸中期に興り、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)らによって確立、発展した。和学。皇学。古学。
 
2 律令制下、国ごとに置かれた、郡司の子弟のための学校。主に経書を教授した。
 
3 古代中国の国都に置かれた学校。隋以後の国子監に相当する。
 
◆国学
・江戸時代中期になると,民族意識の高揚を背景として古学の実証精神に影響されつつ国文学・国学の研究がさかんとなった。国学は『古事記』『日本書紀』『万葉集』をはじめとする古代日本の思想精神を実証的に研究し,儒教や仏教とは異なった日本独自の精神文化を発掘することをめざした。
契沖(1640年~1701年),荷田春満(1669年~1736年)の国文学研究がその先駆となり,賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤によって確立された。

1.賀茂真淵(1697年~1769年)
・『万葉集』の研究に取り組み,男性的でおおらかな気風を「ますらおぶり」とよび,その素朴で純真な精神を高く評価した。平安時代以降は「からくにぶり」(外来の儒教・仏教精神)や「たおやゆぶり」(『古今集』『新古今集』に見られる女性的やさしさ)が広まり,「ますらおぶり」が失われたとした。
2.本居宣長(1730年~1801年)
・『古事記』の研究を通して,日本文学の本質を対象に接した際に生じる自然的な感情である「もののあはれ」に求めた。外来の儒教・仏教精神に見られる漢心に対して日本固有の大和心を重んじ,惟神の道(日本の古い道)を国学の追求すべき理念とした。
3.平田篤胤(1776年-1843年)
・国学の研究を通して,儒教・仏教の精神を排し天皇への服従こそが日本固有の精神であるという国粋的な復古神道を唱え,幕末・明治維新の思想的原動力となった。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6
◆国学(こくがく)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問で、蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つである。和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。

◆概要
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問である。

国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを否定し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。

江戸時代に形骸化した中世歌学を批判するかたちで現れた。木下勝俊・戸田茂睡らに始まるこうした批判は、下河辺長流・契沖の『万葉集』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷の神官であった荷田春満が神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。

真淵の門人である本居宣長は『古事記』を研究して、古い時代の日本人は神と繋がっていたと主張して「もののあはれ」の文学論を唱える一方で『古事記伝』を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。また、盲目の学者である塙保己一は和学講談所を設立し、国史の講義と史料編纂に従事。「群書類従」は日本の古書を編集・刊行したものである。宣長の古典の考証的研究を継承して、近世考証学派の大家となった伴信友も「比古婆衣」を著した。

その後宣長門人の平田篤胤に至って宣長の持つ「古道論」を新たな神道である「復古神道」に発展させた。彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷思想にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義や皇国史観にも影響を与えた。平田篤胤の弟子である経世家の佐藤信淵の著作『垂統秘録』や『混同秘策』等にはその傾向がよく現れている。

だが、真淵の門人であった村田春海らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期の小中村清矩らの手によって近代以降の国文学の研究や国語学、民俗学の基礎となった。



◆主な国学者
◆国学の四大人(うし)
●荷田春満 - 賀茂真淵 - 本居宣長 - 平田篤胤
●契沖
 ・今井似閑
 ・安藤為章
 ・海北若沖
●本居春庭
●本居大平
●鈴木朖
●権田直助
●敷田年治
●萩原広道
●矢野玄道
●平田鐵胤
●常世長胤
●塙保己一
●富士谷成章
●富士谷御杖
●五十嵐篤好
●拝郷蓮茵
●千家俊信
●谷川士清
●東条義門
●増田宗太郎
●石塚龍麿
 
・日本哲学 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本哲学#近世思想
近世思想
日本の古代・中世思想は仏教と強く結びついていたが、日本の近世思想は主に儒教、宋明理学である。林家の朱子学は江戸幕府の公式の学問に指定された。また、江戸中期以降に国学、蘭学、その他大衆の思想が合理主義的な儒教に刺激されて興ってきた。
 
・古神道と国学
神秘的な古神道と日本固有思想である国学の世界
http://ftc2.tripod.com/
目次
古神道とは何か
国学とは何か
リンク集
FT-Cのページ
感想や意見
 
・伊藤仁斎
江戸中期の儒者。
古義学派の創始者。
京都生。
名は維楨(これえだ)、字は源佐、初号は敬斎。
初め朱子学に心酔したが、
やがて疑義を抱いて孔孟の古義に溯る、いわゆる古義学に到達した。
京都堀川に開いた古義堂は、門弟三千余人を有したといわれる。
著「論語古義」「孟子古義」「童子問」など。古学先生。
宝永2年(1705)歿、79才。
 
・伊藤仁斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E
 
・こぎしんごんしゅう【古義真言宗】
真言宗の一派。覚鑁かくばんが加持身説を説いて根来寺に分立した新義真言宗に対して、従来の教理・本地身説を説くもの。高野山を中心とし、古義八派といわれたが、現在は各派に分裂。古義派。古義。 → 新義真言宗
 
・しんぎ‐しんごんしゅう【新義真言宗】
覚鑁(かくばん)を宗祖とし、大日如来の加持身(かじしん)説法の新義を唱えた真言宗の一派。根来山(ねごろさん)大伝法院を本山としたが、のち、智山(ちざん)・豊山(ぶざん)両派に分かれた。新義派。→古義真言宗
 
・古学(こかく、聖学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%AD%A6
古学
1.江戸時代の学問で儒教の一派。本項にて解説。
 ・特に聖学を指す場合がある。
2.国学の別称。
 
古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の聖学(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の総称。
徂徠の学派を「蘐園(けんえん)学派」と呼び、古文辞学的に研究し、その古典を道徳の観念より制度理論の書=一種の政治学の原典と見るやり方であり、近代的思考に近いものがあるとされる。
この学派は水戸学派や在野の崎門(きもん)派(山崎闇斎の学派)と異なり、『孟子』の放伐論を肯定したところに特徴があるが、これは幕府の正当性のために利用され、近世期の朝廷に政権がないのは、民を安んじたために幕府に委譲せざるを得なかったと解釈された(前述書 p.51)。
これに対し、山県大弐は逆に幕府打倒の正当性に放伐論を利用した。
後世の解釈によらず、『論語』などの経典を直接実証的に研究する。
その実証的な研究態度は国学などに影響を及ぼした。
江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。
他方、寛政異学の禁では「風俗を乱す」という理由で江戸幕府及びこれに倣う諸藩で公式の場での講義を禁止された。
 
 
皆さんこの日本を楽しまないと。
知らないことを知るとは胸が弾むモノ。
彼や彼女を発見するのと同じではないかな。

ありがとう


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