●菅原道真(すがわらのみちざね)●怨霊(おんりょう)●御霊(ごりょう)神社●和霊(われい)神社
1.菅原道真(845―903) https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
小倉百人一首では菅家。 本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。
2.天満宮(菅原道真を祀る神社)https://ja.wikipedia.org/wiki/天満宮
菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る神社。
天満宮は「天神」(てんじん)、「天神さま」「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については、天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がなく、全国各地に在りその発祥は不明である。
3.飛梅伝説 https://ja.wikipedia.org/wiki/飛梅#飛梅伝説
平安時代の貴族・菅原道真は、平安京朝廷内での藤原時平との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなった延喜元年(901年)、屋敷内の庭木のうち、日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ。その時、梅の木に語りかけるように詠んだのが、次の歌である。
東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな
───初出。寛弘2- 3年(1005- 1006年)頃に編纂された『拾遺和歌集』巻第十六 雑春。
東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
───「春なわすれそ」の形の初出と見らる。治承4年(1180年)頃の編纂と考えられる『宝物集』巻第二。
現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。
4.大岡信(おおおかまこと)https://ja.wikipedia.org/wiki/大岡信
大岡 信(おおおか まこと、1931年2月16日 - 2017年4月5日)は、日本の詩人、評論家。東京芸術大学名誉教授。日本ペンクラブ元会長。一ツ橋綜合財団理事。
『紀貫之』で読売文学賞、『詩人・菅原道真(すがわらのみちざね)』(1989。芸術選奨文部大臣賞)など。1979年(昭和54)1月より『朝日新聞』に「日本詩歌の常識」づくりを意図してコラム「折々のうた」を連載、好評を得る。
5.寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/寛平御遺誡
寛平9年7月3日(897年8月4日)に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置。
寛平9 (897) 年,宇多天皇が幼い醍醐天皇に位を譲る際に与えた教訓。1巻。漢文体。『誡訓』『御誡』などとも称された。天皇としてのふるまい,動作,学問,任官叙位,朝廷の儀式,慣習や臣下の良否などについて注意しなければならない事柄を記す。摂政,関白をはじめ,貴族にとっても貴重な教養書であった。今日,完全な形で伝わらないが,古書には多く引用されており,尊重された様子がわかる。『群書類従』所収。
6.太宰府(市)(だざいふ) https://ja.wikipedia.org/wiki/太宰府
903年(延喜3)に大宰権帥(ごんのそち)としてこの地に没した菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る太宰府天満宮をはじめ、特別史跡である大宰府(都府楼(とふろう))政庁跡、水城(みずき)跡 ...
7.綾南(りょうなん) https://ja.wikipedia.org/wiki/滝宮天満宮
滝宮天満宮は国司であった菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)り、雨乞(あまご)い祈願にちなむ滝宮の念仏踊(国の重要無形民俗文化財)がある。旧綾南町の人口は1万9121(2005年国勢調査)。 ...
8.字(あざな) http://p.tl/49Xt
男子が元服してつける名。
初めは一字で、菅原道真(すがわらのみちざね)の菅三、三善清行(みよしきよゆき)の三耀、氷宿禰継麻呂(ひのすくねつぐまろ)の宿栄などのように、姓氏や姓(かばね)を配したが、江戸時代になると、新井白石(名は君美(きんみ))の在中、貝原益軒(名は篤信)の子誠のように変わっていった。このほか、人々が呼び習わしている別名や通称も字ということがあるがこれは本来あだ名(渾名、綽名)であって、字とは別物である。
9.日本神話
日本で伝えられた神話の総称。古事記・日本書紀の神々についての記載を中心とし、古語拾遺の中の氏族伝承、風土記にある各地の伝承などを含む。天地の成り立ちから、神々の出現、神々の行為とその結果、国土の生成、物事のいわれなどを主な内容とする。
10.滝宮天満宮
△香川県綾歌郡綾川町▽にある神社。祭神は菅原道真。五穀豊穣と雨乞いを祈願する神事「滝宮念仏踊り」は国の無形民俗文化財に指定。 ..
11.綾子舞(あやこまい) https://ja.wikipedia.org/wiki/綾子舞
新潟県柏崎市女谷に伝わる民俗芸能である。
越後国守護上杉房能の自刃後(1507年)、当地へ逃れて来た妻の綾子によって踊りが伝えられたという伝承があり、500年の歴史を持つとも言われる。中世の風流踊や初期の歌舞伎の様相を伝えていると考えられており、芸能史的にも価値が高い。 1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。
綾子舞は女谷の黒姫神社の祭礼に際して演じられる。(以前は9月15日の敬老の日に演じられていたが、現在は9月の第2日曜日)
女性による踊り、男性による囃子舞、狂言の三種からなる。
12.宇多天皇 https://ja.wikipedia.org/wiki/宇多天皇
学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用し、親政を行った。権門勢家の活動を抑制し、律令(りつりょう)の原則に立ち返った政策路線を採用、後世、寛平(かんぴょう)の治と称された。
13.詠草(えいそう)
詠んだ歌や俳諧を紙に書いたもの。詠進をするときなどの公式の竪(たて)詠草と、添削を請うときなどの折り詠草とがある。添削を請う場合などに用いる。
また、個人の歌の集成を『長秋詠藻』(藤原俊成(しゅんぜい))などと自称し、『菅家詠草』(菅原道真(すがわらのみちざね))などと後世通称した。 ...
14.英雄伝説
智勇(ちゆう)、力量、才幹(さいかん)などが常人よりも卓越する人物を英雄とよぶが、これに関する言い伝えや伝説を英雄伝説という。
中古・中世では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、菅原道真(すがわらのみちざね)、平将門(まさかど)、藤原秀郷(ひでさと) ... 日本では菅原道真、曽我兄弟、平将門などと御霊(ごりょう)信仰の結び付き ...
15.荏柄天神縁起(えがらてんじんえんぎ) h
絵巻。3巻。『北野天神縁起』と同じ内容を扱ったものであるが、もと鎌倉の荏柄天神社に伝わっていたのでこの名でよばれる。上・中2巻は菅原道真(すがわらのみちざね)の一代記ならびに死後の事跡、下巻は北野天満宮の建立ならびに霊験譚(れいげんたん)を描いている。絵は描写の形式化した鎌倉末期の典型画風を示すが、濃厚な彩色が特徴的。奥書に「于時宝暦元応屠維之年……」とあり、1319年(元応1)の制作と考えられる。東京・前田育徳会蔵。
16.荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)
神奈川県鎌倉市二階堂に鎮座。祭神は菅原道真(すがわらのみちざね)。1104年(長治1)8月の創立と伝えられる。
源頼朝(よりとも)が鎌倉・大蔵の地に幕府を開いたとき、当社が鬼門の方位にあたるため、その守護神として尊崇し、社殿を造立した。以来、武家の信仰厚く、のち豊臣(とよとみ)秀吉は徳川家康に命じて社殿の修造を行った。明治の神仏分離令により別当が去ると一時荒廃したが、1873年(明治6)村社に列した。日本三天神の一社とされ、太宰府(だざいふ)天満宮、北野天満宮とともに学問の神として崇(あが)められている。社宝には、木造菅公坐像(ざぞう)1体、同立像1体、菅公画像、縁起、古文書などがある。
17.老松(おいまつ)
能の曲およびそれの影響を受けた三味線音楽の曲の名。いずれも祝儀曲。
(1) 能 世阿弥作。脇能物。梅津某 (ワキ) が太宰府安楽寺に参詣し,老翁 (前ジテ) から老松と飛梅のいわれを聞き,のち,夜ふけになって老松の精 (後ジテ) と梅の精 (後ヅレ) が現れて舞を舞う。
(2) 常磐津節 延享4 (1747) 年1世常磐津文字太夫,佐々木市蔵作曲。詞章は (1) から抄作。常磐津節創流の記念曲。同流最古の曲。
(3) 富本節 寛延1 (1748) 年1世富本豊前掾作曲。歌詞は (2) のまま。常磐津節から富本節が分派独立した際に新しく節づけしたもの。
(4) 清元節 本名題『栄能春延寿 (さかえのはるのぶることぶき) 』。 (3) をそのまま受継いで清元風に改作し,改題したもの。
(5) 長唄 文政3 (1820) 年4世杵屋六三郎作曲。お座敷長唄の最初の作品。 (1) からヒントを得てはいるが,歌詞借用は部分的で,郭 (くるわ) 情緒も含み,歌詞全体に一貫した意味はない。神舞の合方,松風の合方があって三味線も活躍する音楽本位の曲。
(6) 一中節 安政2 (55) 年亀丈作詞,菅野序国,菅野序藤作曲。詞章は (1) とほとんど同じ。
18.大阪(府) - 社会・文化
藤井寺市の道明寺は、菅原道真(すがわらのみちざね)の祖先土師(はじ)氏の氏寺で、尼僧のつくる「道明寺糒(ほしい)」の名産がある。また隣接する道明寺天満宮は菅公の命日(3月25日)
・菜種御供大祭(3月25日)
大宰府への左遷の詔を受けた菅原道真が道明寺に立ち寄った際に、辺り一面は菜の花が咲いていたとされる。道真の大宰府下向後に覚寿尼公が毎日陰膳を据えていた飯を粉にして梅の実の形にした黄色の団子をこしらえたところ、病気平癒の効があるとして、参拝者がこぞって団子を求めたことに由来している[8]。現在では河内に春を告げる神事として、菜の花が供えられ稚児行列が行われる。また、梅の形をした菜の花色の団子が参拝者に授与される[8]。
19.大阪天満宮 https://osakatemmangu.or.jp/
大阪市北区天神橋に鎮座。
菅原道真(すがわらのみちざね)を主神に祀(まつ)る。
20.日本三大怨霊(おんりょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三大怨霊
日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の三人を指す呼称である。
日本三大怨霊とは一般に菅原道真・平将門・崇徳院を指す言葉である。
山田雄司は、菅原道真・平将門・崇徳院が三大怨霊とみなされるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている。
★
★和霊(われい)神社【宇和島市観光協会】
https://www.uwajima.org/spot/index3.html
★
★御霊神社 (鎌倉市) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/御霊神社_(鎌倉市)
★
★御霊信仰(ごりょうしんこう) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/御霊信仰
人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。
★ 祟り神 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/祟り神
祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。
★
★菅原道真が「怨霊神」から「天神様」になった由来
https://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12556824508.html
2019/12/13
天神様・菅原道真は。
実は、平将門・崇徳院と並んで。
「日本三大怨霊」の一人とされていますおばけ メラメラ
今日の記事は、一昨日と昨日の続きで。
道真がなぜ大怨霊となり、どのように「祟り」、そして怨霊神からなぜ天神様になったのか?
ということなのですが。
よろしければ、一昨日と昨日の記事もどうぞ。
牛 菅原道真が日本三大怨霊の一人になった理由
https://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12555674381.html
牛 大怨霊・菅原道真が本当に「祟った」こと..
https://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12555674381.html
★
★怨霊(おんりょう) https://ja.wikipedia.org/wiki/怨霊
その人の霊魂は行き所を失い、空中をさまよっていると考えた。これらの霊が浮遊霊である。平安時代の書物にさかんに現れる物の怪(もののけ)、中世の怨霊や御霊、近世の無縁仏や幽霊などは、いずれもこうした浮遊霊の一種とみることができる。
自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。
悪霊に分類される。
★
★悪霊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/悪霊
悪霊(あくりょう、あくれい)とは神話、宗教や小説における超自然的な悪しき霊。キリスト教や仏教など宗教ごとに意味は異なるほか地域ごとにも意味は異なる。たたりをする死霊を指す宗教もある。悪霊は、祟りや呪いによってわざわい(病気、不運など)の原因となると考えられているものである。
英語の「evil spirit」、ドイツ語の「böser Geist, Böse Geister」など、あるいは悪魔、(善神に対立する)悪神などにあたる概念が「悪霊」と翻訳される。
★
★日本一を誇る三づくめ「和霊神社」【宇和島市観光協会】
https://www.uwajima.org/special/vol1/index_photo6.html
◆和霊神社の歴史 - 宇和島市観光物産協会
https://www.uwajima.org/special/vol1/
vol.1 四国屈指の荘厳な大社 和霊神社の歴史
第1幕(江戸時代):山家清兵衛公頼(やんべせえべえきんより)宇和島へ
時は元和元年(1615)、宇和島藩祖伊達秀宗が、宇和郡十万石に封じられ、宇和島に入った。その時、秀宗の父伊達政宗が、家臣の中でも力量手腕の優れた「山家清兵衛公頼」を総奉行として藩政を委託した。
公頼は藩の財政の立て直しに力を発揮し、宇和島藩は少しずつ豊かになっていくかのように思えた。
山家清兵衛邸宅跡
(丸之内和霊神社)
第2幕(江戸時代):大阪城石垣工事
しかし、元和5年(1619)、幕府より大阪城石垣工事の命が下った。工事費用は、課役と言って宇和島藩で全て負担することになる。ようやく、藩の財政が落ち着きかけた時であり、この出費は頭の痛いものだった。このことがきっかけで、大阪城修復を命じられた、桜田玄藩と山家清兵衛の各々のやり方が対立し、その結果、後に、宇和島伊達騒動と呼ばれる事件が起こるのであった。
丸之内和霊神社裏にある、4男美濃が投げ込まれたといわれる井戸。↑↓
第3幕(江戸時代):6月30日
元和6年(1620)、6月30日の夜、その事件は起きた。清兵衛を日頃から良く思っていない武士たちにより、まさしく今、暗殺が決行されようとしていた。これからの出来事を予感させるような蒸し暑い嵐の夜だった。
清兵衛は、日夜、このような事態が起きることを予想しており、この日も用心し、親子3人蚊帳の中で枕を並べて寝ていた。そこに踏み込んで来た暗殺者たち。清兵衛は我が子をかばうため反撃するが、暗殺者たちは、蚊帳の四隅を切り落とし、まるで、網にかけた獲物のごとく蚊帳の中でもがき苦しむ清兵衛を刺し殺したのであった。その時清兵衛、42歳の若さであった。
また、一緒に居た、次男、三男も惨殺された。奥女中と別室に寝ていた四男の美濃は、一説によると、難を逃れさせるために、隣の家に投げ込んだが、後難の火の粉が降り注ぐのを恐れた隣人が投げ返し、その時に井戸に落ちて命を落としたという説もある。しかし、この時には、後室・奥方・幼子は先に家から逃げており、この嵐の夜には難を逃れた。この嵐の夜には・・・。
山家清兵衛と3人の子供が眠る「和霊廟」
第4幕(江戸時代):初盆
清兵衛の命により、桧皮(ひのきばた)に逃れていた奥方らの耳に、この出来事がすぐさま入ってきた。悲しむ間もなく、後室、奥方、幼子は、仙台に逃れるため、とりあえず乳母の在所蕨生村(現在の松野町蕨生)に身を隠した。
時は経ち、同年7月13日、亡き主人と3人の子供の初盆を迎えた。奥方は、悩んだ末、参る人もないだろうと主人や3人の子供たちを哀れに思い、幼子を乳母に預け、後室とともに宇和島の正眼院金剛山の西の谷(現在の和霊廟)に参った。
清兵衛の墓は、うら盆ということもあり、生前、公を慕っていた百姓町民により、香が耐えなかった。奥方らは、その光景を見て涙しているところへ、幼子が追手によって殺害されたとの知らせが届いた。二人は悲しみにふける間もなく、すぐさま仙台へ旅立った。.....
1.菅原道真(845―903) https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
小倉百人一首では菅家。 本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。
2.天満宮(菅原道真を祀る神社)https://ja.wikipedia.org/wiki/天満宮
菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る神社。
天満宮は「天神」(てんじん)、「天神さま」「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については、天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がなく、全国各地に在りその発祥は不明である。
3.飛梅伝説 https://ja.wikipedia.org/wiki/飛梅#飛梅伝説
平安時代の貴族・菅原道真は、平安京朝廷内での藤原時平との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなった延喜元年(901年)、屋敷内の庭木のうち、日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ。その時、梅の木に語りかけるように詠んだのが、次の歌である。
東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな
───初出。寛弘2- 3年(1005- 1006年)頃に編纂された『拾遺和歌集』巻第十六 雑春。
東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
───「春なわすれそ」の形の初出と見らる。治承4年(1180年)頃の編纂と考えられる『宝物集』巻第二。
現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。
4.大岡信(おおおかまこと)https://ja.wikipedia.org/wiki/大岡信
大岡 信(おおおか まこと、1931年2月16日 - 2017年4月5日)は、日本の詩人、評論家。東京芸術大学名誉教授。日本ペンクラブ元会長。一ツ橋綜合財団理事。
『紀貫之』で読売文学賞、『詩人・菅原道真(すがわらのみちざね)』(1989。芸術選奨文部大臣賞)など。1979年(昭和54)1月より『朝日新聞』に「日本詩歌の常識」づくりを意図してコラム「折々のうた」を連載、好評を得る。
5.寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/寛平御遺誡
寛平9年7月3日(897年8月4日)に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置。
寛平9 (897) 年,宇多天皇が幼い醍醐天皇に位を譲る際に与えた教訓。1巻。漢文体。『誡訓』『御誡』などとも称された。天皇としてのふるまい,動作,学問,任官叙位,朝廷の儀式,慣習や臣下の良否などについて注意しなければならない事柄を記す。摂政,関白をはじめ,貴族にとっても貴重な教養書であった。今日,完全な形で伝わらないが,古書には多く引用されており,尊重された様子がわかる。『群書類従』所収。
6.太宰府(市)(だざいふ) https://ja.wikipedia.org/wiki/太宰府
903年(延喜3)に大宰権帥(ごんのそち)としてこの地に没した菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る太宰府天満宮をはじめ、特別史跡である大宰府(都府楼(とふろう))政庁跡、水城(みずき)跡 ...
7.綾南(りょうなん) https://ja.wikipedia.org/wiki/滝宮天満宮
滝宮天満宮は国司であった菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)り、雨乞(あまご)い祈願にちなむ滝宮の念仏踊(国の重要無形民俗文化財)がある。旧綾南町の人口は1万9121(2005年国勢調査)。 ...
8.字(あざな) http://p.tl/49Xt
男子が元服してつける名。
初めは一字で、菅原道真(すがわらのみちざね)の菅三、三善清行(みよしきよゆき)の三耀、氷宿禰継麻呂(ひのすくねつぐまろ)の宿栄などのように、姓氏や姓(かばね)を配したが、江戸時代になると、新井白石(名は君美(きんみ))の在中、貝原益軒(名は篤信)の子誠のように変わっていった。このほか、人々が呼び習わしている別名や通称も字ということがあるがこれは本来あだ名(渾名、綽名)であって、字とは別物である。
9.日本神話
日本で伝えられた神話の総称。古事記・日本書紀の神々についての記載を中心とし、古語拾遺の中の氏族伝承、風土記にある各地の伝承などを含む。天地の成り立ちから、神々の出現、神々の行為とその結果、国土の生成、物事のいわれなどを主な内容とする。
10.滝宮天満宮
△香川県綾歌郡綾川町▽にある神社。祭神は菅原道真。五穀豊穣と雨乞いを祈願する神事「滝宮念仏踊り」は国の無形民俗文化財に指定。 ..
11.綾子舞(あやこまい) https://ja.wikipedia.org/wiki/綾子舞
新潟県柏崎市女谷に伝わる民俗芸能である。
越後国守護上杉房能の自刃後(1507年)、当地へ逃れて来た妻の綾子によって踊りが伝えられたという伝承があり、500年の歴史を持つとも言われる。中世の風流踊や初期の歌舞伎の様相を伝えていると考えられており、芸能史的にも価値が高い。 1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。
綾子舞は女谷の黒姫神社の祭礼に際して演じられる。(以前は9月15日の敬老の日に演じられていたが、現在は9月の第2日曜日)
女性による踊り、男性による囃子舞、狂言の三種からなる。
12.宇多天皇 https://ja.wikipedia.org/wiki/宇多天皇
学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用し、親政を行った。権門勢家の活動を抑制し、律令(りつりょう)の原則に立ち返った政策路線を採用、後世、寛平(かんぴょう)の治と称された。
13.詠草(えいそう)
詠んだ歌や俳諧を紙に書いたもの。詠進をするときなどの公式の竪(たて)詠草と、添削を請うときなどの折り詠草とがある。添削を請う場合などに用いる。
また、個人の歌の集成を『長秋詠藻』(藤原俊成(しゅんぜい))などと自称し、『菅家詠草』(菅原道真(すがわらのみちざね))などと後世通称した。 ...
14.英雄伝説
智勇(ちゆう)、力量、才幹(さいかん)などが常人よりも卓越する人物を英雄とよぶが、これに関する言い伝えや伝説を英雄伝説という。
中古・中世では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、菅原道真(すがわらのみちざね)、平将門(まさかど)、藤原秀郷(ひでさと) ... 日本では菅原道真、曽我兄弟、平将門などと御霊(ごりょう)信仰の結び付き ...
15.荏柄天神縁起(えがらてんじんえんぎ) h
絵巻。3巻。『北野天神縁起』と同じ内容を扱ったものであるが、もと鎌倉の荏柄天神社に伝わっていたのでこの名でよばれる。上・中2巻は菅原道真(すがわらのみちざね)の一代記ならびに死後の事跡、下巻は北野天満宮の建立ならびに霊験譚(れいげんたん)を描いている。絵は描写の形式化した鎌倉末期の典型画風を示すが、濃厚な彩色が特徴的。奥書に「于時宝暦元応屠維之年……」とあり、1319年(元応1)の制作と考えられる。東京・前田育徳会蔵。
16.荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)
神奈川県鎌倉市二階堂に鎮座。祭神は菅原道真(すがわらのみちざね)。1104年(長治1)8月の創立と伝えられる。
源頼朝(よりとも)が鎌倉・大蔵の地に幕府を開いたとき、当社が鬼門の方位にあたるため、その守護神として尊崇し、社殿を造立した。以来、武家の信仰厚く、のち豊臣(とよとみ)秀吉は徳川家康に命じて社殿の修造を行った。明治の神仏分離令により別当が去ると一時荒廃したが、1873年(明治6)村社に列した。日本三天神の一社とされ、太宰府(だざいふ)天満宮、北野天満宮とともに学問の神として崇(あが)められている。社宝には、木造菅公坐像(ざぞう)1体、同立像1体、菅公画像、縁起、古文書などがある。
17.老松(おいまつ)
能の曲およびそれの影響を受けた三味線音楽の曲の名。いずれも祝儀曲。
(1) 能 世阿弥作。脇能物。梅津某 (ワキ) が太宰府安楽寺に参詣し,老翁 (前ジテ) から老松と飛梅のいわれを聞き,のち,夜ふけになって老松の精 (後ジテ) と梅の精 (後ヅレ) が現れて舞を舞う。
(2) 常磐津節 延享4 (1747) 年1世常磐津文字太夫,佐々木市蔵作曲。詞章は (1) から抄作。常磐津節創流の記念曲。同流最古の曲。
(3) 富本節 寛延1 (1748) 年1世富本豊前掾作曲。歌詞は (2) のまま。常磐津節から富本節が分派独立した際に新しく節づけしたもの。
(4) 清元節 本名題『栄能春延寿 (さかえのはるのぶることぶき) 』。 (3) をそのまま受継いで清元風に改作し,改題したもの。
(5) 長唄 文政3 (1820) 年4世杵屋六三郎作曲。お座敷長唄の最初の作品。 (1) からヒントを得てはいるが,歌詞借用は部分的で,郭 (くるわ) 情緒も含み,歌詞全体に一貫した意味はない。神舞の合方,松風の合方があって三味線も活躍する音楽本位の曲。
(6) 一中節 安政2 (55) 年亀丈作詞,菅野序国,菅野序藤作曲。詞章は (1) とほとんど同じ。
18.大阪(府) - 社会・文化
藤井寺市の道明寺は、菅原道真(すがわらのみちざね)の祖先土師(はじ)氏の氏寺で、尼僧のつくる「道明寺糒(ほしい)」の名産がある。また隣接する道明寺天満宮は菅公の命日(3月25日)
・菜種御供大祭(3月25日)
大宰府への左遷の詔を受けた菅原道真が道明寺に立ち寄った際に、辺り一面は菜の花が咲いていたとされる。道真の大宰府下向後に覚寿尼公が毎日陰膳を据えていた飯を粉にして梅の実の形にした黄色の団子をこしらえたところ、病気平癒の効があるとして、参拝者がこぞって団子を求めたことに由来している[8]。現在では河内に春を告げる神事として、菜の花が供えられ稚児行列が行われる。また、梅の形をした菜の花色の団子が参拝者に授与される[8]。
19.大阪天満宮 https://osakatemmangu.or.jp/
大阪市北区天神橋に鎮座。
菅原道真(すがわらのみちざね)を主神に祀(まつ)る。
20.日本三大怨霊(おんりょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三大怨霊
日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の三人を指す呼称である。
日本三大怨霊とは一般に菅原道真・平将門・崇徳院を指す言葉である。
山田雄司は、菅原道真・平将門・崇徳院が三大怨霊とみなされるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている。
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★和霊(われい)神社【宇和島市観光協会】
https://www.uwajima.org/spot/index3.html
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★御霊神社 (鎌倉市) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/御霊神社_(鎌倉市)
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★御霊信仰(ごりょうしんこう) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/御霊信仰
人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。
★ 祟り神 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/祟り神
祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。
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★菅原道真が「怨霊神」から「天神様」になった由来
https://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12556824508.html
2019/12/13
天神様・菅原道真は。
実は、平将門・崇徳院と並んで。
「日本三大怨霊」の一人とされていますおばけ メラメラ
今日の記事は、一昨日と昨日の続きで。
道真がなぜ大怨霊となり、どのように「祟り」、そして怨霊神からなぜ天神様になったのか?
ということなのですが。
よろしければ、一昨日と昨日の記事もどうぞ。
牛 菅原道真が日本三大怨霊の一人になった理由
https://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12555674381.html
牛 大怨霊・菅原道真が本当に「祟った」こと..
https://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12555674381.html
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★怨霊(おんりょう) https://ja.wikipedia.org/wiki/怨霊
その人の霊魂は行き所を失い、空中をさまよっていると考えた。これらの霊が浮遊霊である。平安時代の書物にさかんに現れる物の怪(もののけ)、中世の怨霊や御霊、近世の無縁仏や幽霊などは、いずれもこうした浮遊霊の一種とみることができる。
自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。
悪霊に分類される。
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★悪霊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/悪霊
悪霊(あくりょう、あくれい)とは神話、宗教や小説における超自然的な悪しき霊。キリスト教や仏教など宗教ごとに意味は異なるほか地域ごとにも意味は異なる。たたりをする死霊を指す宗教もある。悪霊は、祟りや呪いによってわざわい(病気、不運など)の原因となると考えられているものである。
英語の「evil spirit」、ドイツ語の「böser Geist, Böse Geister」など、あるいは悪魔、(善神に対立する)悪神などにあたる概念が「悪霊」と翻訳される。
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★日本一を誇る三づくめ「和霊神社」【宇和島市観光協会】
https://www.uwajima.org/special/vol1/index_photo6.html
◆和霊神社の歴史 - 宇和島市観光物産協会
https://www.uwajima.org/special/vol1/
vol.1 四国屈指の荘厳な大社 和霊神社の歴史
第1幕(江戸時代):山家清兵衛公頼(やんべせえべえきんより)宇和島へ
時は元和元年(1615)、宇和島藩祖伊達秀宗が、宇和郡十万石に封じられ、宇和島に入った。その時、秀宗の父伊達政宗が、家臣の中でも力量手腕の優れた「山家清兵衛公頼」を総奉行として藩政を委託した。
公頼は藩の財政の立て直しに力を発揮し、宇和島藩は少しずつ豊かになっていくかのように思えた。
山家清兵衛邸宅跡
(丸之内和霊神社)
第2幕(江戸時代):大阪城石垣工事
しかし、元和5年(1619)、幕府より大阪城石垣工事の命が下った。工事費用は、課役と言って宇和島藩で全て負担することになる。ようやく、藩の財政が落ち着きかけた時であり、この出費は頭の痛いものだった。このことがきっかけで、大阪城修復を命じられた、桜田玄藩と山家清兵衛の各々のやり方が対立し、その結果、後に、宇和島伊達騒動と呼ばれる事件が起こるのであった。
丸之内和霊神社裏にある、4男美濃が投げ込まれたといわれる井戸。↑↓
第3幕(江戸時代):6月30日
元和6年(1620)、6月30日の夜、その事件は起きた。清兵衛を日頃から良く思っていない武士たちにより、まさしく今、暗殺が決行されようとしていた。これからの出来事を予感させるような蒸し暑い嵐の夜だった。
清兵衛は、日夜、このような事態が起きることを予想しており、この日も用心し、親子3人蚊帳の中で枕を並べて寝ていた。そこに踏み込んで来た暗殺者たち。清兵衛は我が子をかばうため反撃するが、暗殺者たちは、蚊帳の四隅を切り落とし、まるで、網にかけた獲物のごとく蚊帳の中でもがき苦しむ清兵衛を刺し殺したのであった。その時清兵衛、42歳の若さであった。
また、一緒に居た、次男、三男も惨殺された。奥女中と別室に寝ていた四男の美濃は、一説によると、難を逃れさせるために、隣の家に投げ込んだが、後難の火の粉が降り注ぐのを恐れた隣人が投げ返し、その時に井戸に落ちて命を落としたという説もある。しかし、この時には、後室・奥方・幼子は先に家から逃げており、この嵐の夜には難を逃れた。この嵐の夜には・・・。
山家清兵衛と3人の子供が眠る「和霊廟」
第4幕(江戸時代):初盆
清兵衛の命により、桧皮(ひのきばた)に逃れていた奥方らの耳に、この出来事がすぐさま入ってきた。悲しむ間もなく、後室、奥方、幼子は、仙台に逃れるため、とりあえず乳母の在所蕨生村(現在の松野町蕨生)に身を隠した。
時は経ち、同年7月13日、亡き主人と3人の子供の初盆を迎えた。奥方は、悩んだ末、参る人もないだろうと主人や3人の子供たちを哀れに思い、幼子を乳母に預け、後室とともに宇和島の正眼院金剛山の西の谷(現在の和霊廟)に参った。
清兵衛の墓は、うら盆ということもあり、生前、公を慕っていた百姓町民により、香が耐えなかった。奥方らは、その光景を見て涙しているところへ、幼子が追手によって殺害されたとの知らせが届いた。二人は悲しみにふける間もなく、すぐさま仙台へ旅立った。.....
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