縄文人の志葉楽さんのブログ

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●九(きゅう、く、ちゅう、ここの)

2020年07月26日 18時44分49秒 | 文化
●九(きゅう、く、ちゅう、ここの)
◆9 - ウィキペディア    https://ja.wikipedia.org/wiki/9
9(九、きゅう、く、ちゅう、ここの)は、自然数また整数において、8の次で10の前の数である。 桁の底が十であれば10の前である。
桁の底が十であれば10の前であるが、桁の底が十を超える場合には A の前の数である。英語の序数詞では、9th、ninthとなる。ラテン語ではnovem(ノウェム)。紙片や球体などに印字される場合、6 との混同を避けるために「9」のように下線を引いて区別されることがある。
 
◆素因数分解 32
二進法 1001
六進法 13
八進法 11
十二進法 9
十六進法 9
二十進法 9
ローマ数字 IX
漢数字 九
大字 九
 
◆9個1組の概念  https://ja.wikipedia.org/wiki/9#9個1組の概念
・九星:一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫。
・九流:陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家・縦横家・雑家・農家。古代中国で、9分野の哲学者の総称。
・九字:臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。護身術の9文字。
・九色:白・黒・茶・赤・橙・黄・緑・青・紫。これら9種類が基幹色。
・九州:筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩の9国、及びこれらの国が所在する島(広義では長門や周防を含めたり、琉球を含めることがあるが、厳密には除く)。
・九つの世界:北欧神話に登場する世界の総称で9つあり、3つの層に分かれている。
・エジプト九柱:アトゥム・シュー・テフヌト・ゲブ・ヌト・オシリス・イシス・セト・ネフティス。エジプト神話の9人の神々。
 
◆九尾の猫    https://ja.wikipedia.org/wiki/九尾の猫
『九尾の猫』(きゅうびのねこ、Cat of Many Tails )は、1949年に発表されたエラリイ・クイーンの長編推理小説。
 
◆九尾の狐 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/九尾の狐
九尾の狐(きゅうびのきつね)または九尾狐(きゅうびこ)・九尾狐狸(きゅうびこり)は、中国神話の生物。9本の尾をもつキツネの霊獣または妖怪である。複数の尾をもつ狐の総称として尾裂狐(オサキ)とも呼ばれる。
中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。
また一方では、殷の妲己や日本の玉藻前のように美女に化身して人を惑わす悪しき存在としても語られてきた。
 
◆日本  https://ja.wikipedia.org/wiki/九尾の狐#日本
葛飾北斎『三国妖狐伝 第一斑足王ごてんのだん』 玉藻前の前身である天竺の華陽夫人が九尾の狐の正体を現し逃走する図
『延喜式』の治部省式祥瑞条には「九尾狐」の記載があり「神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し」とある。
日本では玉藻前が九尾の狐の妖怪として有名である。平安時代に鳥羽上皇に仕えた玉藻前という美女の正体が「狐」で、退治されたという物語は、14世紀に成立した『神明鏡』にすでに見られる。
 
◆九尾の狐 (きゅうびのきつね)とは【ピクシブ百科事典】
https://dic.pixiv.net/a/九尾の狐
霊獣の一種であると共に、妖怪「妖狐」でもある。
九本の尾を持つ霊獣、妖怪狐である。
中国の古文書、山海経が最も古い出典であるとされ、人を食う怪物と紹介されている。
しかしその後は瑞獣(神聖な獣)として扱われていた、が南北朝時代のころの千字文と言う古文書には妲己が九尾の狐である事が指摘されており、この頃には既に妖怪とされていたようだ。
 これらの説を元にあの有名な神怪小説封神演義が書かれたようである。
 つまり怪物→神獣→妖怪となったというわけである。日本では白面金毛九尾の狐などが有名。妲己、玉藻、華陽夫人として有名なアイツである。
 ちなみに九尾狐はこれ一匹ではなく、「西遊記」には野良の九尾狐が二回登場している。
 
◆近づいてはいけない!九尾の狐伝説が残る栃木・那須の「殺生石」
https://icotto.jp/presses/9958
2017/06/25
聞いたことがある人が多いかもしれない、「九尾の狐」という妖怪。美しい女性に化けて権力者をたぶらかし悪行を重ね、最後には退治された狐なんです。その狐は大きな石となり、その怨念で近づく者を殺し続けました。そんな伝説を残す石が、栃木県に存在します。今もなお、近づくことができない石は「殺生石」と呼ばれ、祀られているんですよ。その怨念の正体とは…。どこにあるのか・・・。具体的に調査してみました。
「殺生石(せっしょうせき)」は、名前を見るだけでも恐ろしい!栃木県那須にある観光スポットです。あの九尾の狐が眠る場所といわれていて、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」と言われています。もしかしたら、眠ったふりをしてまだ生き続けているのかも!?一体、どんなスポットなのか紹介していきます。
 
◆【妖怪大百科】 妖狐 九尾の狐(きゅうびのきつね)
13,319 回視聴 2015/11/21 https://youtu.be/nVJMpmW-1YY
妖怪化物大百科
チャンネル登録者数 955人
九尾の狐(きゅうびのきつね)とは、中国神話の生物。9本の尻尾をもつ妖狐。つまり、狐の妖怪である。九尾の妖狐(ようこ)、九尾狐(きゅうびこ)、単に九尾(きゅうび)、または複数の尾をもつ狐の総称として尾裂狐(オサキ)とも呼ばれる。稲荷神(いなりかみ)との習合があり、それによって同一視も…
 
◆【ゆっくり解説】「九尾の狐」の伝説とは?妲己・玉藻前の神話の真実!
276,034 回視聴 2019/11/23 https://youtu.be/kQ17zRlz_Cs
へんないきものチャンネル
チャンネル登録者数 21.7万人
現代では様々な漫画やゲームなどで登場することもあり「九尾の狐」という存在自体は知っている方は多いと思います。
しかしそのルーツや、そもそも妖怪なのかそれとも神様なのか…どんな存在なのか具体的に知っている方は少ないと思います。
実は日本ではなく中国神話に登場する、中国発祥の「九尾の狐」は紀元前の書物から登場しており、その歴史は2000年以上あると言われています。
もともと怪物として登場している九尾の狐は時代とともに瑞獣、神獣とランクアップしていき、封神演義が登場した14世紀ごろにはフィクションの物語として美女に化けて帝をたぶらかす存在に変移していきました。
中国では「妲己」や「褒ジ」、日本では「玉藻前」として九尾の狐は姿かたちを現代まで言い伝えられています。
今回はそんな一連の歴史・神話について紹介していきます。
P.S.チャンネル登録者数9万人突破記念で作ってみました!いつも視聴やコメントで応援してくれてるみなさんありがとうございます!これからも生き物系の色んな動画をアップしていくので、引き続き10万人登録を一緒に目指してもらえると嬉しいです!
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https://twitter.com/youko_rou
(目次)
1:15 九尾の狐についての概要
2:09 九尾の狐はどんな存在?神様?妖怪?発祥は?
3:27 中国における九尾の狐の歴史・妲己との関係
10:52 日本における九尾の狐の歴史
11:59 妖狐「玉藻前」とはなんなのか?
15:35 九尾の狐の歴史を時系列順に整理
18:53 九尾の狐は良い妖怪?玉藻前の恐るべき側面とは
【・本が出ました・】
タイトル:キモイけど実はイイヤツなんです。
「生き物ってこんなに面白いんだ!」そんな気持ちを持ってもらいたくて本を出しました。
ユニークな生き物が80種ほど詰まった、子供から大人まで楽しめる一冊になってます。
 
◆数字の「9」は縁起の悪い数字なのかそれとも縁起の良い数字なのか
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=58297?site=nli
2018/04/03
-国によっても捉えられ方は異なっている-
保険研究部 常務取締役 研究理事 兼 ヘルスケアリサーチセンター長 中村 亮一
・はじめに
数字の「9」について、皆さんはどんな印象を持っておられるだろうか。人それぞれ感じ方は異なっているものと思われる。
今回は、この数字の「9」の捉えられ方を巡る状況について紹介したい。
・日本における数字の「9」の印象は?
日本において、数字の「9」というと、その発音が「苦(く)」を連想させることから、一般的にはそれほど好まれる数字ではない。
 
◆9の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
JMdictでの「9」の意味

読み方:きゅう、ここの、ここ、この、く
9、玖 とも書く
文法情報 (数詞)
 
◆(2)江戸の時間の数え方
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/iroha/mame-jikan.htm
<ポイント>
日の出と日没の時間を基準に一日を12刻に分けた不定時法である。
日の出から日没を六等分するのが昼の一刻、日没から日の出を六等分するのが夜の一刻。
春・秋分の日はちょうど一刻が2時間となる(表)。これに比べ、夏は昼の一刻が長く、夜の一刻が短い(短夜という)。冬は昼の一刻が短く、夜の一刻が長くなる。
現代時間-江戸時間対照表(春・秋分の日)
午前
0時-夜九ツ(子ノ刻)
1時-九ツ半
午後
12時-昼九ツ(午ノ刻)
13時-九ツ半
参考:『大江戸ものしり図鑑』より作成
 
◆(3)御所九門
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/iroha/mame-kyumon.htm
御所は天皇・宮家・公家の居住地。天皇の居住地である禁裏あるいは内裏(内構六門内-図では紫部分)と宮家・公家の居住地である築地(外構九門内-図では黄色部分)にわかれている。
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/iroha/img-kyumonzu.gif
参考:『七年史』より作成
(単純化しているので縮尺・形など正確ではありません)
 
◆九州 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで[注 1]、その南西部に位置する。
北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである
 
◆歴史書における呼称
https://ja.wikipedia.org/wiki/九州#歴史書における呼称
日本は6,852の島で構成される島国であるが、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び、「八つの島」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )。
その『古事記』での九州の呼称表記は「筑紫島(つくしのしま)」である。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記している。
「九州」の由来
16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物においては、明確に「九州」という名称を見出すことができるが、この名称がいつ生まれたか正確な時代は不明であるが、鎌倉時代後期に作成された吾妻鏡の元暦2年(1185年)2月13日と2月14日の記事では、源範頼が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指す(参考:九州 (中国))が、平安時代後期に朝廷が発した保元新制で使われている「九州」の意味も、こちらである。また新羅の九州の実例もある。
 
◆九州王朝説の根拠となる説明
https://ja.wikipedia.org/wiki/九州王朝説#九州
九州
「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来するといわれるが、「九州」という用語は本来古代では天子(天皇)の直轄統治領域を意味するもので、中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことである(参考:九州 (中国))。また新羅の九州の実例もある。
 
◆九州王朝説
https://ja.wikipedia.org/wiki/九州王朝説
九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。


●九州王朝説批判
序章
川村 明
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm
 本論文は、古田武彦氏によって1970年代に提起された「九州王朝説」の批判である。この説は、提唱者の古田氏が偽書問題で影響力を失った以上、改めて批判する必要があるのかと不審に思う方もおられるかもしれない。しかし、同説は、決して内容的に批判されて葬られたわけではない。『東アジアの古代文化』87号(1996年発行)の井上秀雄氏の論文等を見ればわかるように、同説は専門家の間でも支持者が出てきているのである。そこで私は同説の内容的な批判を行うことは、今日でも十分意義があるのではないかと思い、あえて本論文を書いた次第である。
 内容は、中国史書の「倭」「日本」関係記事や、それに関連する『日本書紀』の記事を徹底的に分析し、九州王朝説の方法論や個々の論拠を逐一批判的に検証することにより、同説を単に否定するだけでなく、関連する文献の史料性格を浮かび上がらせ、日本古代史の謎を少しでも解明しようと試みたものであり、『市民の古代』第18集所収「中国史書の『倭』の徹底解明」を、特に後半部分について大幅に拡充したものである。
 
● ここの‐つ【九つ】 の解説
1 数の名。八の次、十 (とお) の前の自然数。く。きゅう。9個。また、9歳。
2 昔の時刻の呼び名。九つ時。子 (ね) の刻(午前零時)また、午 (うま) の刻(午後零時)のこと。
 
●ここのつ
三省堂 大辞林 第三版の解説
ここのつ [2] 【九つ】
① 九。九個。物の数を数える時に使う。
② 九歳。
③ 昔の時刻の名。今の午前と午後の12時頃。ここのつどき。
「九つ」に似た言葉
ナイン玖
 
●く [1]【九・玖▼】
① 数の名。一〇より一つ少ない数。ここのつ。きゅう。
② 九番目。 〔「玖」は大字として用いる〕
 
●十二時辰 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/十二時辰
十二時辰(じゅうにじしん)とは、近代以前の中国や日本などで用いられた、1日をおよそ2時間ずつの12の時辰(じしん)に分ける時法である。“およそ2時間”とあるのは、後述の通り夜と昼、季節で長さが変動するからである。
十二辰刻(じゅうにしんこく)・十二刻(じゅうにこく)・十二時(じゅうにじ)とも呼ぶ。時辰・辰刻・刻・時は、いずれも本来は単に時間・時刻という意味の言葉だが、十二時辰制のもとでは1日を12に分けたそれぞれのおよそ2時間を意味し、刻・時はまた任意の2時間を表す単位としても使われる(ただし他の長さを表すこともある。刻は1日を48に分けたおよそ30分など、時は1日を24に分けたおよそ1時間も意味する)。
12の時辰を右表に示す。時刻は定時法の場合で、不定時法では季節によりやや変動する。
 
●【古代史探索の旅Ⅱ】第1話 失われた歴史/九州王朝(前編) 大宰府と古代山城
28,289 回視聴 2019/09/08 https://youtu.be/qO6BXpiOOtk
これはどうでしょう
チャンネル登録者数 5420人
最近時、密かに脚光を浴びている「九州王朝説」に興味を持ち、北部九州を旅しました。
第1話では、太宰府周辺の史跡を訪れ、「大和王権の前に九州王朝があった、と言っても不思議ではない」、と思えるようになりました。
なお、地図画像は、OpenStreetMap を利用させてもらいました。
 https://openstreetmap.jp/map#zoom=5&l...
【訂正】16:45で言っている宝満山は宮地岳の間違いでした。訂正してお詫びします。
 
●3.7 倭の五王と九州王朝説 - 邪馬台国の位置と日本国家の起源
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/paper/paper37.html
<倭の五王と九州王朝説>
 このようにして成立した近畿大和朝廷は、
 その後、着々と四方を攻略し(祟神天皇の四道将軍の派遣、
 景行天皇の熊襲征伐、ヤマトタケルの東国平定)、
 370年頃からは百済と同盟して朝鮮半島に進出し、
 応神天皇は380~410年頃に半島の奥深く軍事的に侵攻して、
 新羅および高句麗の好太王と半島の覇権をめぐって死闘を演じました。
 以来、応神天皇は日本国家の守護神の武神として、
 宇佐八幡宮を頂点とする全国四万六百余の八幡神社に祭られてきました。
 以上の大和朝廷による朝鮮半島での軍事作戦の展開は、倭の五王の時代を
 含めて、663年の白村江の戦いまで、300年にも及んだのであります。
 倭の五王とは、413年から502年の約100年間に、
 中国の南朝と通交した倭(日本)の五人の王者のことです。
 この倭王は、讃、珍、済、興、武の五人で、これを「倭の五王」と称しています。
 通説では、
 讃=仁徳天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇と
 されています。
 倭の五王に関して、日本側と中国側の記録の食い違いを理由として
 九州王朝の王者群とする説がありますが、この九州王朝説は誤りです。
 
●九州王朝説 - 説の歴史と問題点 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/wkpja/content/九州王朝説_説の歴史と問題点
(Wikipedia)  (2020/06/27 14:06 UTC 版)
説の歴史と問題点
説の歴史
九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。
 
●九州王朝説『偽書疑惑』の波紋2 | 南船北馬のブログー日本古代史 ...
https://ameblo.jp/hokuba/entry-12243685093.html
2017/02/01
「偽書疑惑」と九州王朝説の反動化
 九州王朝説の提唱から20年たった90年代は、少数とは会員内論客はすでに自立し、古田武彦の業績を認めた上で、その問題点が論議されつつあった。その批判的継承をもって九州王朝説のさらなる進展と打開が模索され始めていた。しかし、古田の会再編はこれに水を差し、異端者を『東日流外三郡誌』での造反者と同じ穴のむじなとし、会から追放をはかった。それは九州王朔説を古田枠に萎縮させる反動化の始まりであった。




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