●大道芸をして金銭を乞うた者。乞胸(ごうむね)となった。
●乞胸 歴史民俗用語辞典
読み方:ゴウムネ(goumune)
近世の乞食の一。
●乞胸(ごうむね)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E8%83%B8
江戸時代に江戸市中などで、万歳や曲芸、踊りなど、さまざまな大道芸をして金銭を乞うた者。
乞食(物貰い)の一種であり、元侍や町人、あるいは身元が不明な者が乞胸となった。
身分的には町人に属したが、穢多頭の弾左衛門の支配下に置かれ、稼業としてはと同等とされた。
乞胸をする場合は、頭から鑑札(許可証)をもらい、老人と障害者以外は一定額の上納金を納めなければならなかった。
同様、編笠をかぶり門付もしていたが、の職域を荒らさないために、のちに乞胸の門付は禁じられ、主に広場や路上で芸を見せた
●芸の種類
『乞胸頭家伝』には、以下の12の芸種が挙げられている。
綾取り - 竹に房をつけ、これを投げて取る芸。
猿若 - 顔を赤く染めて芝居をする芸。一人狂言。
江戸万歳 - 三河万歳の真似をする芸。二人で行なう。
辻放下 - 玉かくし、あるいは手玉を使う芸。
操り - 人形を操って見せる芸。
浄瑠璃 - 義太夫節や豊後節などの節をつけて物語などを語る芸。
説教 - 昔物語に節をつけて語る芸。
物真似 - 歌舞伎の口上や鳥獣の鳴声をまねる芸。
仕形能 - 能の真似をする芸。
物読み - 古戦物語の本などを読む芸。
講釈 - 太平記あるいは古物語を語り、講釈する芸。
辻勧進 - 芸のできない者や子供らが、往来に座って金銭を乞うこと。
・起こり
さまざまな雑芸を演じてわずかな報酬をえて生計をたてる物もらいは、室町時代末期の『三十二番職人歌合』にすでに、編笠をかぶり、手で裸の胸を叩く風情が描かれている。胸叩など、こうした路上芸が乞胸の起源とされる。乞胸の名の由来は「先方の胸中の志を乞う」ところからきたとする語源説もある。芸能に対してある種の羨望と崇敬がありながら、彼らがとされたのは、人の気を引き、金銭を得んがために演じる芸能は賤しいとする考えと、その非生産的な生活態度にあったとされる。
・歴史
江戸幕府ができると、多くの大名家が取り潰され、職を失った大量の浪人が溢れた。長嶋礒右衛門という浪人が食うに困った浪人仲間を集めて寺社の境内や空き地で草芝居や見世物をして生計を立てていたが、頭の車善七から手下の生業が邪魔されると苦情が持ち込まれ、慶安年中(1650年代)、身分を町人に落としたうえ、乞胸稼業においては善七の支配下に入る取り決めがなされた。
善七のもと、磯右衛門が乞胸頭になり、町人、または身元の明らかでない者で乞胸を稼業する者には「鑑札」を渡し、一人につき18文ずつ毎月徴収した。乞胸頭は無許可で大道芸をする者を取り締まり、その世話と管理をし、浅草溜(善七が管理していた医療刑務所のような施設)の火事の際には囚人の警固もした。その後、1843年(天保14年)の天保の改革で、それまで江戸の各所に住んでいた乞胸も、同様、幕府によって一か所に集まって住むように命じられた。
明治4年(1871年)の身分制の解放令で乞胸の名称は廃止された。欧米でのジャポニスムの影響で、乞胸たちの芸も海外で好評を得、開国後の明治から大正にかけて芸人たちの渡航が一時盛んになったものの、国内にあってはハレの場から追放されていき、彼らが育んできた日本の伝統的な大道芸は次第にその姿を消していった。
●◆「東京の被差別の歴史と現状」index
http://blltokyo.net/tkburaku/tkburaku/index.html
弾左衛門と江戸の被差別民衆、今日の東京の
弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆
http://blltokyo.net/tkburaku/history/goumune.html
2-5 乞胸(ごうむね)
浅草頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました(参考『寛政度文政度御尋乞胸身分書』)。
乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が頭車善七の支配を受けるとされたことでした。が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。
●寛政度文政度御尋乞胸身分書
http://blltokyo.net/tkburaku/siryou/goumune.html
江戸の町で大道芸をおこなった近世的な「被差別民」乞胸(ごうむね)に関する基礎的史料、『寛政度文政度御尋乞胸身分書』の原文、およびその現代語訳です。原文は東京都刊行『重宝録』第一に所在しています。この文書に関する解説は、一番下にあります。
【目次】
1.『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』(寛政11〈1799〉年)
2.『文政四年下谷山崎町名主書上』(文政4〈1821〉年)
3.《現代語訳・注釈》『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』
4.《現代語訳・注釈》『文政四年下谷山崎町名主書上』
5.《解説》『寛政度文政度御尋乞胸身分書』
● - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/
()は、主に、
1.日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。
2.江戸時代の身分の呼称である。
いわゆる士農工商に属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。この点、身分制度外に位置付けられ江戸時代から人別帳外で無籍の山窩(サンカ)等とは異なる。ただし、サンカとの違いは流動的なもので、が流浪生活に入ってサンカとなり、逆にサンカが被差別に定住してとなる例がいつの時代にもあった[1]。
さらに多数説によると、は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。
● - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/
(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。
の明確な基点は明らかになっていない。逃亡農民に由来するという推測、皮革加工などに従事する部民という説、中世の元寇に由来するという説、古代の被征服民族とする意見などがあるが、などの被差別民の起源は一様ではなく、雑多な起源をもつ集団であったのかもしれないが、と違って、は、職業に関わりなく親子代々承継されたとされる。1885年、東京人類学会の会員であった箕作源八が「ノ風俗」について各地の報告を求め、各地からの被差別民にかんする伝承や関係文献が集まったが、その多くは、被差別民を日本人とは異なる「人種」として捉え、その起源について論じるものであった。
●サンカ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ
サンカは、日本に過去に存在したとされる放浪民の集団である。本州の山地に住んでいたとされる。サンカの定義については後述のように激しく論争されてきた。サンカという呼称は日本の警察による便宜上のものであり、差別用語としても使われる。
●呼称 https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ#呼称
「サンカ」を漢字で書き記す時には統一的な表記法は無く、当て字により「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」(住む家屋を持たず傘や空を屋根とする屋外に住む存在という意味)などと表記した。
また、地方により「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ(箕直)」、「ミツクリ(箕作)」、「テンバ(転場)」など、呼ばれ方も違う。(それぞれの呼称は、「ホイト(陪堂)」、「カンジン(勧進)」など、特定の職業を指す言葉と併用されることも多い。)
サンカの実態調査を試みた立場による呼び名の違いもある。
●乞胸 【ごうむね】世界大百科事典 第2版の解説.
江戸時代から明治にかけて,都市を中心に活動した雑芸人(ぞうげいにん)で,いわゆる乞食の一種とみなされた人々の呼称。身分制度では町人の扱いを受けたが,万歳(まんざい),大黒舞(だいこくまい),節季候(せきぞろ),厄払,猿若(さるわか),辻放下(つじほうか),説経,講釈など,さまざまな雑芸を演じて門付(かどづけ)してまわり,わずかな報酬をえて生計をたてており,〈物もらい〉とも呼ばれた。その先駆形態は室町末期の《三十二番職人歌合》にすでに描かれ,編笠をかぶり,裸身で,手で胸をたたく風情である。
●ごう‐むね 〔ごふ‐〕 【乞胸】
江戸時代、江戸市中で辻講釈・綾取り・万歳などの雑芸をして金銭を乞うた者。
●ごうむね【乞胸】
近世から明治にかけて,家々の門や寺社の境内・広場などで雑芸を演じて米銭を乞うた雑芸人。乞胸頭に銭を上納して鑑札を受けた。
●ヤクザ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤクザ
組織を形成して暴力を背景に職業的に犯罪活動に従事し、収入を得ているものを言う。この偏倚(へんい)集団を特徴づける要因の一つに集団内部の「親分子分」の結合がある。
「やくざ」研究の古典的名著とされる岩井弘融の『病理集団の構造』の序説で「親分乾分(岩井は故意に、乾としている。読みは「こぶん」で同じ)」の関係は民俗学(柳田國男他)や社会学(川島武宜他)において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。
戦後に来日したニューヨーク・ポストの特派員ダレル・ベリガンは、その著作で有名な『やくざの社会』の中で「日本の家族は与太者の集まりであり、家族の長は与太者の長である」という文から始まる、日本社会の内部構造についての報告をまとめている。また、かつて横浜の塚越一家に所属した右翼活動家の野村秋介は、「やくざ」について説明する際に「やくざとは職業ではなく」、「実業家、ジャーナリスト、政治家にもやくざは存在する」と発言したが(出典:『暴力団新法』)これも個人間の繫がりとして絶対的権威(親分)と追随者(子分)の関係が広く社会で見られる点を示唆するものである。ただし、その上で「やくざ」を特徴づけている別の内部要因として、集団の共通目的、成立の社会的条件、存続のための経済的活動、社会的価値基準から逸脱した副次文化等がある。ジャーナリストの朝倉喬司は明治の自由民権運動と「やくざ」の関連を指摘する一方で現代の制度的空間や価値基準との関連において「暴力団」と呼ばれるとしている(出典:『ヤクザ』)。
●子連れ狼 死に風に向う乳母車
亡八者の首領は女(浜木綿子)で、酉蔵と名乗った。この浜木綿子がいい。
男勝りの キップと度胸、ドスの効いた、しかし唄うような台詞回し。
そして何よりもあの目。一度も 瞬きせず、一刀に挑むような力強いあの目線。
●「子連れ狼(第3シリーズ)」長坂作品エピソード 第3話「来ない明日へ」
http://www.tcp-ip.or.jp/~goshii/t02_data/06_story/1976_01_kozu_M03_story.htm
そんな中、一年前に一刀と出会い、事を構えた木颪の忘八者・酉蔵は近くに一刀がいることを知る。一刀に想いを寄せる酉蔵は、一刀に接触。一刀に酉蔵らと同じ格好をさせ改め番所を突破する。一刀に協力した為に捕らえられた酉蔵は、松崎代官所代官・佐久間軍兵衛から、義父・尾形三郎兵衛の命と忘八者存続を引き替えに一刀を討ち果たすよう脅迫され、やむなく一刀と対決。酉蔵は、すべてを察した一刀によりその命を絶った。産まれてからずっと男として生きてきた酉蔵は、初めて女として死んでいったのだった。
本作のゲストである木颪酉蔵(演:浜木綿子氏)は、第1シリーズ第7話「あんにゃとあねま」にて初登場。本作にて「あんにゃとあねま」のシーンが回想シーンとして流れている。一部の間で「ぶりぶり」が有名になったこの酉蔵だが、若山富三郎氏版の映画「死に風に向かう乳母車」(1972年)でも浜木綿子氏が同役で出演。まさにハマリ役といえる。なお、北大路欣也氏版(2002年~2004年)では池上季実子氏が酉蔵役を演じている。
●『子連れ狼 / あんにゃとあねま』
https://ameblo.jp/kazzp0610/entry-11480781287.html
この作品の見どころは、やくざものの姐御を演じた浜木綿子だろう。純情可憐な少女を演じた竹下景子とは異なり、男勝りの度胸と貫録がありながらも、女性としての色気をぷんぷんさせている女を演じ、美しさもひときわだ。本作で最も目立った役者であった。
浜木綿子との対決
●あんにゃとあねま
https://youtu.be/7vXf5Xrymnc
●時代劇屈指の怪キャラ・・・阿部頼母
https://ja.wikipedia.org/wiki/子連れ狼#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E5.B9.95.E5.BA.9C
阿部頼母(あべ たのも)
代々公儀御口唇役を務める旗本阿部家当主。別名を怪異(かいい)。性格は残虐かつ保身的。物事に熱中すると「毒屋の子」なる独自の歌を口ずさむ癖がある。
母の不義密通によって生まれたため、父の監物から疎まれ、御口唇役の育成の名目の下、日夜その食事に毒を盛られ虐待に近い育て方をされる。そのような中で独自に毒薬の調合法を編み出し、それを使って両親を毒殺、阿部家を相続した。以降、公方の深い信任を得て毒薬の大家となった。
その後、柳生烈堂に代わり拝父子の抹殺を命じられると、烈堂を追い落として幕政の実権を握る好機と考え、阿片漬けにした夜鷹を使うだけでなく、自ら変装して直々に一刀らの毒殺を図るがことごとく失敗。さらに、頼母ら阿部一族の抹殺を狙う烈堂の毒殺にも失敗し、逆に烈堂に弱みを握られる結果となる。そんな中「柳生封廻状」を手に入れ、これを公方に差し出し「柳生に謀反の企てあり」と訴え出る。これにより、烈堂は江戸城で監禁されるが、烈堂は「草」と呼ばれる密偵を招集し、頼母の担当である江戸城内の御膳所を放火。これが失火と断定され、加えて当日は公方が紅葉山東照宮に参詣する重要な日であったため、御膳所の責任者である頼母は責任を追及され切腹を命じられる。頼母はこれを嫌がり抵抗するが、江戸城に潜入していた一刀から諫められると、全てを諦めたかのように一刀の介錯によって死亡した。なお、萬屋版のドラマでは、切腹の場での騒ぎを聞いて訪れた一刀の姿を仰ぎ見ながら、「そなたや烈堂よりも先に死ぬとは」と恨みのような言葉を最後に残し、一刀によって斬り殺される描写に変更されている。
『子連れ狼』の続編漫画『そして - 子連れ狼 刺客の子』では、頼母の子である秋田高星が登場している。
●『椿三十郎 殺陣シーン』黒澤明...監督作品
https://youtu.be/cbENunuojXA
このシーンを観るためだけでも映画館に足を運ぶ価値がある もっとも見逃しそうな位に目にも留まらぬ殺陣だけど
●『Yojimbo 殺陣シーン』三船敏郎と仲代達矢
https://youtu.be/zCjsazHO0c0
https://youtu.be/SfpagB8wWng
●殺陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/殺陣
殺陣(たて)もしくは技斗・擬斗・擬闘(ぎとう)は、演劇・映画・テレビドラマで俳優が格闘シーン時に素手素足もしくは武器を用いた演技。 殺陣(たて)は主に時代劇、技斗(ぎとう)は主に現代劇に用いる。
●生意気/こざかしい/利いた風 の使い分け 利いた風な口をきく
1 いずれも、目下の者に対していう語。
2 「生意気」は、それにふさわしい身分や年齢ではないのに、出すぎた言動をすること。
3 「こざかしい」は、利口ぶって、「利いた風」は、わかっているふりをして、出すぎた言動をすること。「こざかしい」は「小賢しい」とも書く。
4 しゃらくさい 【形】
分(ぶん)不相応な感じがして生意気なこと。やや古めかしい言い方。
「そんなことを言うなんてしゃらくさい」
5 ちょこ才 【名・形動】
小才があって生意気なこと。やや古めかしい言い方。「ちょこ才なやつめ」
6 小生意気 【名・形動】
いかにも生意気なさま。「小生意気な口をきく」
●利いた風(キイタフウ)とは - コトバンク
[名・形動]
1 いかにも物知りぶったなまいきな態度を見せること。また、そのさま。知ったかぶり。「利いた風な口をきくな」
2 気の利いていること。また、そのさま。
「―な名をつけて高慢な顔したと聞いたが」〈黄・造化夢〉
●ルーツでなるほど慣用句辞典
利いた風 きいたふう
https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-07-1-0002.html
よく知ってもいないのに、なんでも知っているという生意気な態度をとるさま。
「きみが解決するって? 事情も分からないくせして利いた風な口を利くな」
〔語源〕もと、気が利いたようすの意。
● 『利いた風(きいたふう)』の意味 - 日本語俗語辞書
http://zokugo-dict.com/07ki/kiitahuu.htm
利いた風
Kîtafû
利いた風とは、よく知らないことを知っているかのように語る口ぶりのこと。
『利いた風』の解説
利いた風とはよく知らないことをいかにも知っているかのように語る口ぶりのことで、そういった口ぶりや態度に対し、否定的・批判的な意を含んで用いる言葉である。目下の人や快く思っていない相手が知った風な口をきいたときなどに言う「利いた風なことを言うな」というセリフで用いることが多い。
「どこかで聞いただけの話しを、よく知っているかのように語るな」という意味から【聞いた風】という表記と間違いやすいが利いた風が正しい。
利いた風は近年、小説やドラマなど特別な場で使われる程度で日常会話ではほとんど使われることがなくなっている。
殺陣(たて)は何度見てもいいね。
三船敏郎と仲代達矢との絡みの殺陣は。
用心棒の最後のシーンで下の動画の中で加山雄三が「お見事」
と言った ことに 「利いた風なことを吐かすな」と叱られる。
今は 三船さんも見ていてあんなふうに演技したんだと苦笑いしているのでは。
加山雄三は今はもう80かな。
見たらなんて思うかな。俺もこんな小僧っ子の様な時も有ったかなと。
今は 説教する側だね。わずか 3分ほどのシーンの中に色んなものが入ってる。
血しぶきは 失敗だけどそのまま封切りしたらしい。
いつかそんな事を言ってる動画を見た人がある。
このシーンは珍しくワンカットで納めたとも 言っていた。
こんな事言うとどうかと言われるかな。今の時代劇ドラマ 良いと思えない。
私だけかな。日本人の仕事は手抜きが多くなっているように思う。
やはり 縄文人のDNAが 薄くなって 優しさが抜けてしまってきているのかな。
午前中の国会中継で トップのリーダーが質問に答えていたが なんか気抜けした。
トップがあれでは 何しても 良心が無いのは今の地球全体になっている。
私だけがそんな事考えていて 最近のジジババは 腑抜けになっているとコメント
されていたけど 間違いないね。
なんか 愚痴ばかりになっている。
ここに来て 消費減税ナンテ話が出てきている。
あれだけの税金使い 今更 それはないと思うのは わたしだけ。
●乞胸 歴史民俗用語辞典
読み方:ゴウムネ(goumune)
近世の乞食の一。
●乞胸(ごうむね)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E8%83%B8
江戸時代に江戸市中などで、万歳や曲芸、踊りなど、さまざまな大道芸をして金銭を乞うた者。
乞食(物貰い)の一種であり、元侍や町人、あるいは身元が不明な者が乞胸となった。
身分的には町人に属したが、穢多頭の弾左衛門の支配下に置かれ、稼業としてはと同等とされた。
乞胸をする場合は、頭から鑑札(許可証)をもらい、老人と障害者以外は一定額の上納金を納めなければならなかった。
同様、編笠をかぶり門付もしていたが、の職域を荒らさないために、のちに乞胸の門付は禁じられ、主に広場や路上で芸を見せた
●芸の種類
『乞胸頭家伝』には、以下の12の芸種が挙げられている。
綾取り - 竹に房をつけ、これを投げて取る芸。
猿若 - 顔を赤く染めて芝居をする芸。一人狂言。
江戸万歳 - 三河万歳の真似をする芸。二人で行なう。
辻放下 - 玉かくし、あるいは手玉を使う芸。
操り - 人形を操って見せる芸。
浄瑠璃 - 義太夫節や豊後節などの節をつけて物語などを語る芸。
説教 - 昔物語に節をつけて語る芸。
物真似 - 歌舞伎の口上や鳥獣の鳴声をまねる芸。
仕形能 - 能の真似をする芸。
物読み - 古戦物語の本などを読む芸。
講釈 - 太平記あるいは古物語を語り、講釈する芸。
辻勧進 - 芸のできない者や子供らが、往来に座って金銭を乞うこと。
・起こり
さまざまな雑芸を演じてわずかな報酬をえて生計をたてる物もらいは、室町時代末期の『三十二番職人歌合』にすでに、編笠をかぶり、手で裸の胸を叩く風情が描かれている。胸叩など、こうした路上芸が乞胸の起源とされる。乞胸の名の由来は「先方の胸中の志を乞う」ところからきたとする語源説もある。芸能に対してある種の羨望と崇敬がありながら、彼らがとされたのは、人の気を引き、金銭を得んがために演じる芸能は賤しいとする考えと、その非生産的な生活態度にあったとされる。
・歴史
江戸幕府ができると、多くの大名家が取り潰され、職を失った大量の浪人が溢れた。長嶋礒右衛門という浪人が食うに困った浪人仲間を集めて寺社の境内や空き地で草芝居や見世物をして生計を立てていたが、頭の車善七から手下の生業が邪魔されると苦情が持ち込まれ、慶安年中(1650年代)、身分を町人に落としたうえ、乞胸稼業においては善七の支配下に入る取り決めがなされた。
善七のもと、磯右衛門が乞胸頭になり、町人、または身元の明らかでない者で乞胸を稼業する者には「鑑札」を渡し、一人につき18文ずつ毎月徴収した。乞胸頭は無許可で大道芸をする者を取り締まり、その世話と管理をし、浅草溜(善七が管理していた医療刑務所のような施設)の火事の際には囚人の警固もした。その後、1843年(天保14年)の天保の改革で、それまで江戸の各所に住んでいた乞胸も、同様、幕府によって一か所に集まって住むように命じられた。
明治4年(1871年)の身分制の解放令で乞胸の名称は廃止された。欧米でのジャポニスムの影響で、乞胸たちの芸も海外で好評を得、開国後の明治から大正にかけて芸人たちの渡航が一時盛んになったものの、国内にあってはハレの場から追放されていき、彼らが育んできた日本の伝統的な大道芸は次第にその姿を消していった。
●◆「東京の被差別の歴史と現状」index
http://blltokyo.net/tkburaku/tkburaku/index.html
弾左衛門と江戸の被差別民衆、今日の東京の
弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆
http://blltokyo.net/tkburaku/history/goumune.html
2-5 乞胸(ごうむね)
浅草頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました(参考『寛政度文政度御尋乞胸身分書』)。
乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が頭車善七の支配を受けるとされたことでした。が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。
●寛政度文政度御尋乞胸身分書
http://blltokyo.net/tkburaku/siryou/goumune.html
江戸の町で大道芸をおこなった近世的な「被差別民」乞胸(ごうむね)に関する基礎的史料、『寛政度文政度御尋乞胸身分書』の原文、およびその現代語訳です。原文は東京都刊行『重宝録』第一に所在しています。この文書に関する解説は、一番下にあります。
【目次】
1.『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』(寛政11〈1799〉年)
2.『文政四年下谷山崎町名主書上』(文政4〈1821〉年)
3.《現代語訳・注釈》『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』
4.《現代語訳・注釈》『文政四年下谷山崎町名主書上』
5.《解説》『寛政度文政度御尋乞胸身分書』
● - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/
()は、主に、
1.日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。
2.江戸時代の身分の呼称である。
いわゆる士農工商に属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。この点、身分制度外に位置付けられ江戸時代から人別帳外で無籍の山窩(サンカ)等とは異なる。ただし、サンカとの違いは流動的なもので、が流浪生活に入ってサンカとなり、逆にサンカが被差別に定住してとなる例がいつの時代にもあった[1]。
さらに多数説によると、は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。
● - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/
(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。
の明確な基点は明らかになっていない。逃亡農民に由来するという推測、皮革加工などに従事する部民という説、中世の元寇に由来するという説、古代の被征服民族とする意見などがあるが、などの被差別民の起源は一様ではなく、雑多な起源をもつ集団であったのかもしれないが、と違って、は、職業に関わりなく親子代々承継されたとされる。1885年、東京人類学会の会員であった箕作源八が「ノ風俗」について各地の報告を求め、各地からの被差別民にかんする伝承や関係文献が集まったが、その多くは、被差別民を日本人とは異なる「人種」として捉え、その起源について論じるものであった。
●サンカ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ
サンカは、日本に過去に存在したとされる放浪民の集団である。本州の山地に住んでいたとされる。サンカの定義については後述のように激しく論争されてきた。サンカという呼称は日本の警察による便宜上のものであり、差別用語としても使われる。
●呼称 https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ#呼称
「サンカ」を漢字で書き記す時には統一的な表記法は無く、当て字により「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」(住む家屋を持たず傘や空を屋根とする屋外に住む存在という意味)などと表記した。
また、地方により「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ(箕直)」、「ミツクリ(箕作)」、「テンバ(転場)」など、呼ばれ方も違う。(それぞれの呼称は、「ホイト(陪堂)」、「カンジン(勧進)」など、特定の職業を指す言葉と併用されることも多い。)
サンカの実態調査を試みた立場による呼び名の違いもある。
●乞胸 【ごうむね】世界大百科事典 第2版の解説.
江戸時代から明治にかけて,都市を中心に活動した雑芸人(ぞうげいにん)で,いわゆる乞食の一種とみなされた人々の呼称。身分制度では町人の扱いを受けたが,万歳(まんざい),大黒舞(だいこくまい),節季候(せきぞろ),厄払,猿若(さるわか),辻放下(つじほうか),説経,講釈など,さまざまな雑芸を演じて門付(かどづけ)してまわり,わずかな報酬をえて生計をたてており,〈物もらい〉とも呼ばれた。その先駆形態は室町末期の《三十二番職人歌合》にすでに描かれ,編笠をかぶり,裸身で,手で胸をたたく風情である。
●ごう‐むね 〔ごふ‐〕 【乞胸】
江戸時代、江戸市中で辻講釈・綾取り・万歳などの雑芸をして金銭を乞うた者。
●ごうむね【乞胸】
近世から明治にかけて,家々の門や寺社の境内・広場などで雑芸を演じて米銭を乞うた雑芸人。乞胸頭に銭を上納して鑑札を受けた。
●ヤクザ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤクザ
組織を形成して暴力を背景に職業的に犯罪活動に従事し、収入を得ているものを言う。この偏倚(へんい)集団を特徴づける要因の一つに集団内部の「親分子分」の結合がある。
「やくざ」研究の古典的名著とされる岩井弘融の『病理集団の構造』の序説で「親分乾分(岩井は故意に、乾としている。読みは「こぶん」で同じ)」の関係は民俗学(柳田國男他)や社会学(川島武宜他)において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。
戦後に来日したニューヨーク・ポストの特派員ダレル・ベリガンは、その著作で有名な『やくざの社会』の中で「日本の家族は与太者の集まりであり、家族の長は与太者の長である」という文から始まる、日本社会の内部構造についての報告をまとめている。また、かつて横浜の塚越一家に所属した右翼活動家の野村秋介は、「やくざ」について説明する際に「やくざとは職業ではなく」、「実業家、ジャーナリスト、政治家にもやくざは存在する」と発言したが(出典:『暴力団新法』)これも個人間の繫がりとして絶対的権威(親分)と追随者(子分)の関係が広く社会で見られる点を示唆するものである。ただし、その上で「やくざ」を特徴づけている別の内部要因として、集団の共通目的、成立の社会的条件、存続のための経済的活動、社会的価値基準から逸脱した副次文化等がある。ジャーナリストの朝倉喬司は明治の自由民権運動と「やくざ」の関連を指摘する一方で現代の制度的空間や価値基準との関連において「暴力団」と呼ばれるとしている(出典:『ヤクザ』)。
●子連れ狼 死に風に向う乳母車
亡八者の首領は女(浜木綿子)で、酉蔵と名乗った。この浜木綿子がいい。
男勝りの キップと度胸、ドスの効いた、しかし唄うような台詞回し。
そして何よりもあの目。一度も 瞬きせず、一刀に挑むような力強いあの目線。
●「子連れ狼(第3シリーズ)」長坂作品エピソード 第3話「来ない明日へ」
http://www.tcp-ip.or.jp/~goshii/t02_data/06_story/1976_01_kozu_M03_story.htm
そんな中、一年前に一刀と出会い、事を構えた木颪の忘八者・酉蔵は近くに一刀がいることを知る。一刀に想いを寄せる酉蔵は、一刀に接触。一刀に酉蔵らと同じ格好をさせ改め番所を突破する。一刀に協力した為に捕らえられた酉蔵は、松崎代官所代官・佐久間軍兵衛から、義父・尾形三郎兵衛の命と忘八者存続を引き替えに一刀を討ち果たすよう脅迫され、やむなく一刀と対決。酉蔵は、すべてを察した一刀によりその命を絶った。産まれてからずっと男として生きてきた酉蔵は、初めて女として死んでいったのだった。
本作のゲストである木颪酉蔵(演:浜木綿子氏)は、第1シリーズ第7話「あんにゃとあねま」にて初登場。本作にて「あんにゃとあねま」のシーンが回想シーンとして流れている。一部の間で「ぶりぶり」が有名になったこの酉蔵だが、若山富三郎氏版の映画「死に風に向かう乳母車」(1972年)でも浜木綿子氏が同役で出演。まさにハマリ役といえる。なお、北大路欣也氏版(2002年~2004年)では池上季実子氏が酉蔵役を演じている。
●『子連れ狼 / あんにゃとあねま』
https://ameblo.jp/kazzp0610/entry-11480781287.html
この作品の見どころは、やくざものの姐御を演じた浜木綿子だろう。純情可憐な少女を演じた竹下景子とは異なり、男勝りの度胸と貫録がありながらも、女性としての色気をぷんぷんさせている女を演じ、美しさもひときわだ。本作で最も目立った役者であった。
浜木綿子との対決
●あんにゃとあねま
https://youtu.be/7vXf5Xrymnc
●時代劇屈指の怪キャラ・・・阿部頼母
https://ja.wikipedia.org/wiki/子連れ狼#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E5.B9.95.E5.BA.9C
阿部頼母(あべ たのも)
代々公儀御口唇役を務める旗本阿部家当主。別名を怪異(かいい)。性格は残虐かつ保身的。物事に熱中すると「毒屋の子」なる独自の歌を口ずさむ癖がある。
母の不義密通によって生まれたため、父の監物から疎まれ、御口唇役の育成の名目の下、日夜その食事に毒を盛られ虐待に近い育て方をされる。そのような中で独自に毒薬の調合法を編み出し、それを使って両親を毒殺、阿部家を相続した。以降、公方の深い信任を得て毒薬の大家となった。
その後、柳生烈堂に代わり拝父子の抹殺を命じられると、烈堂を追い落として幕政の実権を握る好機と考え、阿片漬けにした夜鷹を使うだけでなく、自ら変装して直々に一刀らの毒殺を図るがことごとく失敗。さらに、頼母ら阿部一族の抹殺を狙う烈堂の毒殺にも失敗し、逆に烈堂に弱みを握られる結果となる。そんな中「柳生封廻状」を手に入れ、これを公方に差し出し「柳生に謀反の企てあり」と訴え出る。これにより、烈堂は江戸城で監禁されるが、烈堂は「草」と呼ばれる密偵を招集し、頼母の担当である江戸城内の御膳所を放火。これが失火と断定され、加えて当日は公方が紅葉山東照宮に参詣する重要な日であったため、御膳所の責任者である頼母は責任を追及され切腹を命じられる。頼母はこれを嫌がり抵抗するが、江戸城に潜入していた一刀から諫められると、全てを諦めたかのように一刀の介錯によって死亡した。なお、萬屋版のドラマでは、切腹の場での騒ぎを聞いて訪れた一刀の姿を仰ぎ見ながら、「そなたや烈堂よりも先に死ぬとは」と恨みのような言葉を最後に残し、一刀によって斬り殺される描写に変更されている。
『子連れ狼』の続編漫画『そして - 子連れ狼 刺客の子』では、頼母の子である秋田高星が登場している。
●『椿三十郎 殺陣シーン』黒澤明...監督作品
https://youtu.be/cbENunuojXA
このシーンを観るためだけでも映画館に足を運ぶ価値がある もっとも見逃しそうな位に目にも留まらぬ殺陣だけど
●『Yojimbo 殺陣シーン』三船敏郎と仲代達矢
https://youtu.be/zCjsazHO0c0
https://youtu.be/SfpagB8wWng
●殺陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/殺陣
殺陣(たて)もしくは技斗・擬斗・擬闘(ぎとう)は、演劇・映画・テレビドラマで俳優が格闘シーン時に素手素足もしくは武器を用いた演技。 殺陣(たて)は主に時代劇、技斗(ぎとう)は主に現代劇に用いる。
●生意気/こざかしい/利いた風 の使い分け 利いた風な口をきく
1 いずれも、目下の者に対していう語。
2 「生意気」は、それにふさわしい身分や年齢ではないのに、出すぎた言動をすること。
3 「こざかしい」は、利口ぶって、「利いた風」は、わかっているふりをして、出すぎた言動をすること。「こざかしい」は「小賢しい」とも書く。
4 しゃらくさい 【形】
分(ぶん)不相応な感じがして生意気なこと。やや古めかしい言い方。
「そんなことを言うなんてしゃらくさい」
5 ちょこ才 【名・形動】
小才があって生意気なこと。やや古めかしい言い方。「ちょこ才なやつめ」
6 小生意気 【名・形動】
いかにも生意気なさま。「小生意気な口をきく」
●利いた風(キイタフウ)とは - コトバンク
[名・形動]
1 いかにも物知りぶったなまいきな態度を見せること。また、そのさま。知ったかぶり。「利いた風な口をきくな」
2 気の利いていること。また、そのさま。
「―な名をつけて高慢な顔したと聞いたが」〈黄・造化夢〉
●ルーツでなるほど慣用句辞典
利いた風 きいたふう
https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-07-1-0002.html
よく知ってもいないのに、なんでも知っているという生意気な態度をとるさま。
「きみが解決するって? 事情も分からないくせして利いた風な口を利くな」
〔語源〕もと、気が利いたようすの意。
● 『利いた風(きいたふう)』の意味 - 日本語俗語辞書
http://zokugo-dict.com/07ki/kiitahuu.htm
利いた風
Kîtafû
利いた風とは、よく知らないことを知っているかのように語る口ぶりのこと。
『利いた風』の解説
利いた風とはよく知らないことをいかにも知っているかのように語る口ぶりのことで、そういった口ぶりや態度に対し、否定的・批判的な意を含んで用いる言葉である。目下の人や快く思っていない相手が知った風な口をきいたときなどに言う「利いた風なことを言うな」というセリフで用いることが多い。
「どこかで聞いただけの話しを、よく知っているかのように語るな」という意味から【聞いた風】という表記と間違いやすいが利いた風が正しい。
利いた風は近年、小説やドラマなど特別な場で使われる程度で日常会話ではほとんど使われることがなくなっている。
殺陣(たて)は何度見てもいいね。
三船敏郎と仲代達矢との絡みの殺陣は。
用心棒の最後のシーンで下の動画の中で加山雄三が「お見事」
と言った ことに 「利いた風なことを吐かすな」と叱られる。
今は 三船さんも見ていてあんなふうに演技したんだと苦笑いしているのでは。
加山雄三は今はもう80かな。
見たらなんて思うかな。俺もこんな小僧っ子の様な時も有ったかなと。
今は 説教する側だね。わずか 3分ほどのシーンの中に色んなものが入ってる。
血しぶきは 失敗だけどそのまま封切りしたらしい。
いつかそんな事を言ってる動画を見た人がある。
このシーンは珍しくワンカットで納めたとも 言っていた。
こんな事言うとどうかと言われるかな。今の時代劇ドラマ 良いと思えない。
私だけかな。日本人の仕事は手抜きが多くなっているように思う。
やはり 縄文人のDNAが 薄くなって 優しさが抜けてしまってきているのかな。
午前中の国会中継で トップのリーダーが質問に答えていたが なんか気抜けした。
トップがあれでは 何しても 良心が無いのは今の地球全体になっている。
私だけがそんな事考えていて 最近のジジババは 腑抜けになっているとコメント
されていたけど 間違いないね。
なんか 愚痴ばかりになっている。
ここに来て 消費減税ナンテ話が出てきている。
あれだけの税金使い 今更 それはないと思うのは わたしだけ。
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