●縄文時代●弥生時代
縄文時代と弥生時代,どちらが幸せ?
縄文時代 弥生時代
31歳 ←→ 40歳くらい
狩りや漁 ←→ 稲 作
食料不足 ←→ おいしいお米
さまよう暮らし ←→ 定 住
平 等 ←→ 貧富の差
みな同じ ←→ 負ければ奴隷のような暮らし
闘 争 ←→ 平 和
上のものが子供たちが得ている知識のようです。
小学校で偏りマルクス主義や共産主義を 案に含めているようなものだと警告する人もいるようです。
論文を取り上げるマスメディアも。
芯に正しいものならばいくら教えても良いけれど。
後は自分の目で確かめて下さい。
◆弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか〜【CGS 日本の歴史 1-10】
649,476 回視聴 2015/08/21 https://youtu.be/QwgK9s42Oxk
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第1章最後の回は、前回の「稲作が縄文時代から始まった」という事に続き、弥生人は渡来人という定説のウソを暴きます。
よく言われるのが横長の顔の骨格が縄文人、縦長・平たいのが弥生人、のように骨格に差があるとされてきましたが、実は骨格の差はなかった様です。そしてそこには「捏造の歴史」がありました。
いわゆる自虐的な歴史観はこの時代からもう存在していたのでしょうか。
◆縄文人と弥生人についてNHKの嘘 : あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま
https://yosaku60.exblog.jp/28107994/
2020/05/24
我々は、縄文人はへらぺったい顔、
弥生人は長い顔と習って来ました。
こんな風に....左;縄文、右;弥生です。
https://pds.exblog.jp/pds/1/202005/24/68/d0083068_16182090.jpg
何故、縄文時代と弥生時代に分かれているのでしょうか。
我々は、縄文=狩猟、弥生=稲作と習ってきました。
稲作が朝鮮半島から入ってきたことにするためです。
これが嘘だったこと最近の稲のDNA研究から解りました。
それと、
縄文人と弥生人の顔の違いを分けたことも嘘と解りました。
嘘をついたのは、NHK報道です。
これを見て下さい。
報道された左が縄文人、右が弥生人です。
確かに、縄文人はへらぺったく、弥生人は長い顔です。
でも、左の顔は写真の偽造だったのです。
https://pds.exblog.jp/pds/1/202005/24/68/d0083068_16290578.jpg
そうなんです。
弥生人の顔を加工して縄文人に仕立てたのです。
何故にこういう写真を捏造したのでしょうね。
多分、適当な写真がなかったから捏造したのでしょう。
これが嘘だったこと最近の稲のDNA研究から解りました。
それと、. 縄文人 ... 多分、適当な写真がなかったから捏造したのでしょう。
次の写真を見て下さい。
これは二つとも古い縄文人のものです。
随分面長ですよね。
こういう写真を載せると何かがまずいので使わなかったのです。
https://pds.exblog.jp/pds/1/202005/24/68/d0083068_17082232.jpg
こういう事実をつきつけられても、
縄文時代に稲作があったことを認めたくないのです。
文科省として「半島渡来説」を変えたくないのです。
ですから「縄文時代」そのものを教えなくしました。
「ゆとり教育」にかこつけての削除にしたようです。
そして一旦消した小学校の教科書からの「縄文時代」ですが、
10年後の2008年から復活させたそうですが....
ほんの短い記述にとどめているようなのです。
これらのことから、どうしても思ってしまうのです。
NHKにしても文科省にしても、
戦後GHQから強要された「日本自虐」が沁み込んでいるのでしょうね~。
◆縄文人も弥生人も同じ日本人だった | 嘉子の不動産ブログ ...
http://www.zennichi.net/b/grantop/?id=100386&act_lst=detail&page=1
2015/11/16
縄文人も弥生人も同じ日本人だった
昔、私が書いたブログに事実誤認がありましたので訂正いたします。
先日、NHKのクローズアップ現代のやらせ問題がニュースになっていましたね。やらせは公共放送として許しがたいものです。これに対し、BPOは政治介入云々とかと述べ、マスコミ各社はここぞとばかりに論点をすり替えています。こんなメディアの対応に呆れている今日この頃です。自民党の谷垣氏が反論をしていましたが、谷垣氏の指摘に共感しています。
さて、肝心の訂正する内容についてです。縄文人と弥生人の顔の形についてのものです。どちらも同じ日本人だ、とわかりました。だから「私はたぶん縄文人」、と昔は語ったことがありましたが、それは間違いでした。縄文人でも弥生人でもなくて単なる日本人だ。と改めます。
◆縄文時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代
日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。
始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。
◆弥生時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代
日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
◆弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/03/26/9051760
2019/03/26
そしてそこには「捏造の歴史」がありました。 ... 唐から逃避してきたのが弥生人であり、唐の属国からの自立が大化の改新だったのです。 ... ⑳弥生時代に渡来人が稲作を日本人に伝授したなど真っ赤なウソだったんだな。
◆二つの「捏造」事件
http://jidoubunka.com/janome/jyanome7.htm
1
「捏造」事件というのは、どういう中身にしろなぜかいつも気になってきた。
昨年(2000年)にも大きな「捏造」事件があった。あの「旧石器発掘捏造事件」である。ここ近年「日本人」論が盛んになり、現代の「日本人」が「弥生人」の血を引く人々と、「縄文人」の血を引く人々の混合だというような論法で、話が盛り上がっていた中で、「弥生」や「縄文」などが足下にも及ばないほどの、旧石器時代から「原日本人」がここに住んでいたということが、発掘の結果わかったというのだから、多くの「日本人研究家」たちは歓喜したはずである。「やっぱり、日本人はすごい人種だったんだ」と。「日本人は、やっぱりずーと昔から、日本人としてここに住んでいたんだ」と。教科書でもいち早くそういう「事実」を紹介し、これから子どもたちはそれを学んで大きくなるところだった。
ところが、その証拠となる「旧石器発掘」がじつは「捏造」だったというのだから、関係者が一同ぶったまげることになったのは、当然であろう。この事件のその後の後遺症が、どれほど大きかったものかは、その後の報道でもよく知られているところである。
ところで今回、私が気になってきたのは、そういう歴史や発掘の見直しのことではなくて、一番最初にこの「旧石器発掘捏造」を「事件」として報道した、その一番最初の記事についてである。多くの人はもうすっかりお忘れになっていると思うのだが、実はこの「捏造発覚」の「事件」は、発表のされ方からしてとっても特異な経過をたどっていたのである。
◆弥生時代の始まり、稲作文化は制圧ではなく融和によって広がった
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」③ 関 裕二 2017.03.11
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/4883/
稲作を選択したのは縄文人?
弥生時代の到来と共に、稲作民が大挙して日本列島に押し寄せてきたと、長い間考えられてきた。北部九州に上陸した彼らは、あっという間に東に移動し、稲作は広まり、また、天皇家の祖は、朝鮮半島からの征服者と、漠然と誰もが信じていたのだ。
しかし、東洋史学者の江上波夫の唱えた騎馬民族日本征服説は、考古学的にはやばやと否定され、纒向遺跡に九州の痕跡がほとんどみつからなかったことから、「朝鮮半島→北部九州→ヤマト」と、征服者が移動してきた可能性も、低くなった。
残された問題は、稲作文化を携えて海を渡ってきた人たちが、日本人の祖先なのか、ということだ。
まず、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが、数世紀早まり、紀元前十世紀ごろだったことが分かってきて、これが大きな意味を持っていた。
これまで九州から東に、稲作民が先住の縄文人を蹴散らし制圧していったというイメージがあったが、実際には、ゆっくりとしたペースで、伝播していったことになるからだ。
北部九州の発掘が進展して、稲作伝播後の周辺の変化と動きも見えてきた。渡来人たちは、まずコロニーを形成し、稲作をはじめ、少しずつ周囲の人々も、稲作を受け入れ、融合していった様子がみてとれる。渡来人が周囲を圧倒したわけではなかったのだ。
◆縄文時代よりも古代~近世の方が飢えの圧力は大きかったのではないか.
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/02/449.html
2008/02/14 ↓ おもしろいデータを見つけました。↓
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1231S.jpg
図は倭人の形成の日本人の時代変化からお借りしました。
このデータからわかることは、弥生時代に渡来した人々は、縄文人より高身長で全く異質であったことです。また、縄文人が現代人よりもちっちゃかったことがわかります。
それよりも 驚きなのは、江戸時代や明治時代の人々は縄文人よりもずっとちっちゃかったということです。男子で約155cm、女子で約145cmしかない。いまの小6から中1ぐらいの身長です。
なんでだろう?
◆インターネット博物館・倭人の形成トップページ
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/WAJIN/wajin.html
◆【あなたはどっち?】縄文人と弥生人の顔と性格の違いまとめ
https://rekijin.com/?p=13837
2016/06/11
大陸と陸続きだった頃に日本列島に渡った人達が縄文文化を育み、後にやってきた渡来人によって本州では弥生文化が花開く。・・・というのが筆者が学校で習った先史時代ですが、今はどんなふうに教えられているのでしょうか。
最新の研究によると、縄文人は現在で言うバイカル湖、弥生人は長江を起源とする人種なのだとか。
地域が違えば風土が違う。風土が違えば生活が違う。生活の違いは人の姿を変えます。縄文人と弥生人は、対照的な姿をしていたようです。
現在の日本人は75%が縄文人と弥生人の混血と言われていますが、パーツごとにどちらかの特徴が色濃く出ることもあるのだとか。そこで今回は、縄文人と弥生人の特徴をまとめてみました。
目次
1.縄文人の顔の特徴は?
2.弥生人の顔の特徴は?
3.縄文系と弥生系の違いは性格にも表れる?
■日本人の時代変化■
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/WAJIN/m2.html
◆図録 人口の超長期推移(縄文時代から2100年まで)
http://honkawa2.sakura.ne.jp/1150.html
これまでの長期人口推移については、歴史人口学の鬼頭宏(2007)が整理した日本の人口の超長期推移をグラフにした(改訂前は鬼頭宏(2000)を使用)。これを見ると日本の人口は、大きく見て、増加と停滞の時期を何度か繰り返してきた。また、これに最近の将来人口推計をつなげてみると近代の人口爆発は21世紀に入り一転して急激な減少へ向かうことが明らかである。
縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。
◆裏辺研究所 http://www.uraken.net/
第1回 日本のあけぼの
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp01.html
第2回 豊かな縄文時代
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp02.html
第3回 弥生時代の幕開け
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp03.html
第4回 クニの興亡と邪馬台国連合
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp04.html
◆縄文時代と弥生時代 | OKWave
https://okwave.jp/qa/q6764996.html
これは面白い 考えさせられる回答です
◆66小学校・中学校社会科における縄文時代の研究
中嶋 俊平
1.論文の構成
序章 問題の所在と研究の目的
第1節 問題の所在
第2節 研究の目的と方法
第3節 論文の概要
第1章 縄文時代の考察
第1節 縄文時代の定義
第2節 学習指導要領での記述の変遷
第3節 教科書での扱い
第4節 学習指導要領・教科書の問題点に対してのアプローチ
第2章 北海道・北東北の縄文遺跡群の考察
第1節 北海道・北東北の縄文遺跡群の特徴
第2節 北海道・北東北の縄文遺跡群の教育的意義
第3章 北海道・北東北の縄文遺跡群を活用した社会科授業の提起
第1節 縄文遺跡を活用した授業実践の分析
第2節 授業の提起終章 研究のまとめと今後の課題
第1節 研究のまとめ
第2節 今後の課題
参考文献・論文・URL
2.問題の所在と研究の目的
(1)問題の所在
本研究を行うにあたっての問題の所在を三点述べる。
第一の問題点は、まだ縄文時代そのものが全て明らかになっていないため指導者や教科書によって学ぶ内容が異なることが挙げられる。
遺跡や採掘物の研究は進んでいるが、縄文時代での農耕の有無・何年から何年が縄文時代なのかが明らかになっておらず、また採掘物のない地域ではその地域がどうなっていたかは他の発掘された地域から類推することしかできない。
第二の問題点として述べるのは、縄文時代は「人物学習」が、日本では縄文時代の特定の歴史上の人物が存在していないがために行うことができず、また中学校での授業においても、資料として物的資料しか存在せず児童生徒に伝えられる情報が限られ、物的資料となる土器なども貴重なため結果として授業の方法が限られたものになってしまう点である。
第三の問題点として、現行の学習指導要領の指導計画の作成と取り扱いから身近な遺跡を用いた授業が望まれることが分かるが日本の縄文文化の中でも地方によって違いがあるため教科書の縄文文化と自分の地域の縄文文化に違いが生じる恐れがあることである。
以上の問題を踏まえた上で、私が提起したいのは北海道・北東北の縄文遺跡群を授業で活用することである。
◆古代日本の食文化~縄文・弥生時代の主食と副食~ - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=290819
2014/06/01
日本は、「米が主食」といわれます。確かに日本の食卓は主食である「ごはん」に副食として魚や野菜をそえることが定番となっています。
しかし、世界の食文化を見渡すと、この様に「主食」と「副食」の線引きが鮮明な民族というのは、意外と少ないようです。
たとえば日本の飲食店では、「定食」という、主食(ごはん)は固定で副食のみ可変するという食文化がありますが、中華でも、仏料理でも伊料理でも、そんな発想はありません。
なににでもあう、安定した「主食」と、季節や地方によって変幻自在な多彩な「副食」というこの組み合わせの源はどこから来るのでしょうか。
◆縄文時代、社長も上司もいないのに組織が成立していたってホント? 考古学者と組織の起源をさかのぼってみた
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001302.html
根岸達朗 2017年7月 5日
突然ですが、縄文時代に“上司”っていたと思いますか?
「働き方改革」が叫ばれる昨今。固定デスクの廃止やリモートワークの推奨などが進み、「会社が社員を管理する」ようなシステムが変化し始めています。
しかしそもそも、会社が存在しなかった時代って、みんなどう協業していたのでしょうか? 例えば縄文時代に上司や社長はいたの?
考古学者の岡村道雄氏に、縄文人がどう暮らし、どう働いていたのか聞いてみました。
◆弥生時代の開始年代について
http://www2.plala.or.jp/kwsakura215aoto/3kodaishi/yayoinewkaishinendai.htm
九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期(年表参照)にかけての土器(夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器)に付着していた炭化物などの年代を、AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ、紀元前約900~800年ごろに集中する年代となった。
考古学的に、同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭2点の年代もほぼ同じ年代を示した。
◆旧石器時代・縄文時代・弥生時代
711 回視聴 2019/10/06 https://youtu.be/8n2xZ-dlZXs
HaruYouの中学受験講座
社会・歴史単元の「旧石器時代・縄文時代・弥生時代」について解説します。
音声はさとうささら(水瀬いのりさん)です。
教科書精読と合わせて聞き流すだけでも効果がありますが、作者ブログの解説や演習プリント、
●もう60年以上前のこと自分の頃の事を覚えていない こんな感じだったかな
◆歯の豆辞典 -歯科人類学のススメ-
http://ymd20hiro4.sakura.ne.jp/
歯からみた人類の進化過程を、解説しています。
日常見慣れている小さな歯でも我々が考える以上に大きな働きをしています。
詳しいことは各項目を見てください。
◆3.縄文人と弥生人
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/WAJIN/m3.html
縄文人と弥生人のちがいは,前のコーナーで見ただけにとどまりません.
とても小さい歯だった縄文人.
とても大きな歯だった弥生人.
筋骨隆々だった縄文人.それにくらべて,少しきゃしゃだった弥生人.
けがや病気も,縄文人と弥生人とはちがっていたようです.
これは,縄文時代の狩猟採集にもとづく生活から弥生時代のコメづくりに
もとづく生活への社会・文化の変化とともに,朝鮮半島南部からやってきた
人々と,北部九州地方在来の人々との混血によってもたらされた変化だと
考えられています.
◆地震考古学 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/地震考古学
地震考古学(じしんこうこがく)とは、地震学と考古学をあわせ持つ学問であり、遺跡にある地震跡の調査と、歴史資料の地震に関する記述との照らし合わせによって、発生年代の推定や将来の地震の予測を行う、新しい学問分野である。
◆遺跡が語る巨大地震の過去と未来 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/synth/2/2/2_2_91/_pdf
− 境界領域「地震考古学」の開拓 − 寒川 旭
考古学の遺跡発掘調査で地震の痕跡が見つかることが多いが、従来は調査の対象とされずに見逃されていた。
筆者は、1988年に「地震考古学」を提唱し、遺跡の地震痕跡を用いた研究方法を広く普及させた。
これによって、考古学と地震関連分野との境界領域が開拓されて様々な成果が得られた。
南海トラフで発生する巨大地震について過去2千年間の発生年代がわかり、次の発生を考える基礎資料となった。
内陸の活断層による地震痕跡も数多く見出されており、京阪神・淡路地域では1596年慶長伏見地震での地盤災害が詳しくわかった。液状化現象についても、遺跡での観察結果から新しい知見が得られた。
また、地震痕跡は一般市民にも理解しやすいことと、マスメディアにも取り上げられる機会も多いことなどにより、地震災害軽減のための活動へ大きく寄与している。
◆縄文時代・弥生時代/深谷市ホームページ
http://www.city.fukaya.saitama.jp/rekishi_bunkazai/shinorekishi/1391995194611.html
2014/04/17
~台地での進展~
縄文時代になると、市内各地で人々が暮らしていた遺跡が280ヶ所見つかっています。竪穴住居を作り、定住を始めた時代で、縄文土器や各種石器に代表されます。
縄文時代草創期(約12,000年前)の遺跡として、西谷・水久保遺跡(針ヶ谷)、宮林遺跡(永田)など、早期(約8,000年前)の遺跡は、北坂遺跡(本郷)、四反歩遺跡(本田)など、前期(約6,000年前)の遺跡は、台耕地遺跡(黒田)、東光寺裏遺跡(後榛沢)などがあります。
中期(約5,000年前)になると、高台の水を利用しやすい土地を選んで、台地上に集落を営み始めます。台耕地遺跡(黒田)では環状集落が見つかり、他に小台遺跡(上野台)、上本田遺跡(本田)などが地域ごとの中心集落として出現します。
縄文時代後期(約4,000年前)になると、集落の分布が北部の妻沼低地へと移っていったことがうかがわれます。宮ヶ谷戸遺跡、上敷免遺跡などが挙げられます。
縄文時代晩期(約3,000年前)の遺跡は、土偶や耳飾りなどの祭祀遺物が出土し、原ヶ谷戸遺跡(岡)、上敷免遺跡、橋屋遺跡(小前田)などがあります。
◆上毛風土記 上毛の歴史 - FC2
http://nordeq.web.fc2.com/rekishi/rekishi.html
上毛の歴史
群馬の歴史をかいつまんで紹介します。
まずは、年表をご覧ください。
・先史時代・縄文時代・弥生時代
~豊かな自然と豊富な産物に支えられ~
・古墳時代
・飛鳥・奈良時代
・平安時代
・鎌倉時代
・南北朝時代
・室町時代
・戦国時代
・織豊時代
・江戸時代
・近現代
◆『27時間テレビ』で大反響 「縄文顔 vs 弥生顔」アナタはどっち?
https://sirabee.com/2017/09/10/20161284804/
『FNS27時間テレビ』で放送された「日本人ルーツ顔探し」が話題に。日本人は縄文顔・弥生顔が入り交ざっているという…。
エンタメ
2017/09/10 05:00 らむたそ
濃い顔・薄い顔と分かれる日本人の顔だが、そのルーツは縄文人と弥生人にあるといわれている。
9日放送の『FNS27時間テレビ』(フジテレビ系)の内容が今、話題になっている。
■「縄文顔 vs 弥生顔」それぞれの特徴は…
番組では「日本人ルーツ顔探しの旅」との企画を放送した。日本人の顔は、縄文顔は立体的で目鼻立ちがはっきりしている「縄文顔」と、平坦でのっぺりした「弥生顔」が入り混じっているようだ。
それぞれの顔の特徴をまとめると…
【縄文顔】
・濃くて立体的な顔
・太く直線的な眉
・鼻根がしっかりしている鼻
・分厚い唇
・小さい歯
【弥生顔】
・平面的でさっぱりした顔
・細く半円を描いている眉
・鼻根が低い鼻
・薄い唇
・大きい歯
これら5つのパーツで決められるとのことだ。
◆縄文人のくらし - 玉川学園
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/jomon/
縄文時代(じょうもんじだい)は今から約1万2千年前から2500年前まで,約1万年間も続いた長い時代です.ですから初めのころと終わりではずいぶん様子がちがいます.また,海の近くにくらしていた人々と,山に住んでいる人々の生活もずいぶんことなります.このホームページでは春夏秋冬の季節のなかで,「縄文時代」の人々がどのようなくらしをしていたかを勉強します.
◆与助尾根集落論―もう一つの「不都合な真実」 佐々木藤雄
http://www.komakino.jp/sasaki-yosukeone/sasaki-yosokeone.html
「茅野市にある国の特別史跡尖石遺跡は、縄文集落研究の発祥の地として、日本考古学史の上に永遠に記念されるべき重要な遺跡である。ここでは昭和5年(1930)から同18年まで、地域研究者として育った宮坂英弌が、教職のかたわら、自らの財産をなげうって、営々と独力で発掘を続け、53ヶ所の炉址、33ケ所の住居址を発見し、縄文時代のムラのほぼ全容を、全国ではじめて明らかにするという偉大な業績を残した。太平洋戦争後も宮坂は縄文集落の研究に精魂をうちこみ、尖石遺跡に隣接する茅野市与助尾根遺跡で、総計28ケ所の住居址を発掘し、ついに一単位の縄文集落の全掘に成功したのである。」
◆縄文時代の集落 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsahj/10/0/10_94/_pdf/-char/ja
学界展望
本号の学界展望では、縄文時代の集落、発掘遺構による住肘史、城郭をとりあげた。
昭和三十年代の後半から彪大な数の遺跡が発見された。
本展望ではそれを一望のもとに納めると同時に、新たな研究動向が示される。
城郭は古くからの研究テーマだが、研究の精度が上がるとともに安土城の復原など新たな問題が起きてきた。
そのための基礎作業の重要性が明らかにされている。
◆三内丸山遺跡について
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/
特別史跡三内丸山(さんないまるやま)遺跡は日本最大級の縄文集落跡です。
発掘調査によって当時の自然環境や生活、村の様子などの解明が進められています。
遺跡は通年で公開され、自由に見学することができます。
三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、
長期間にわたって定住生活が営まれていました。
平成4年からの発掘調査で、
竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、
大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、
集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
また、
膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、
木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、
他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が
明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。
◆こまきのいせきものがたり 2012/1/25 http://www.komakino.jp/
水野集落論と弥生時代集落論(下)
http://www.komakino.jp/totteoki/sasaki-mizunoshurakuron/sasaki-mizunoshurakuron.htm
今回紹介する佐々木藤雄さんの論文は、1996年3月に「異貌」第15号(共同体研究会)に掲載されたもので、まさに「力作」です。既に3年半の時間を経過していますが、当時既に下記のようなするどい「警告」を発していることに驚かされます。
「全国各地で巨大遺跡・遺構”の新発見が相次ぐ今日、縄文時代集落論は、少なくとも第三者の眼には、かつてない高揚と自己変革の波の中にあるかのようにみえる。
しかし、戦後半世紀にわたって営々と積み重ねられてきた集落研究のこれまでの成果をほとんど顧みることもなく、しかも、検出された膨大な遺構群の時空的な分布や内容に対する十分な検討もなされないまま、二〇m、五〇〇人、一五〇〇年、神官層、縄文都市、縄文文明といったS・Fもどきの野放図な言葉となし崩し的な結論の一人歩きを許容しているたとえば三内丸山遺跡をめぐる“議論”の現状は、率直にいってきわめて無責任であり、そこには地に足の付いた、縄文時代集落論の将来の方向を真摯にみすえた新しい問題提起や提言の類はまったくといってよいほど認められない。
むしろ、そこから垣間みえてくるのは歴史科学としての考古学の集団自殺であり、マスメディアと一体となって垂れ流される恣意的かつ一方的な情報の数々は、この時代を中心とする研究者の主体性と創造性、何よりもその実践的立場に改めて鋭い問いを投げかけている。」
★「62分の1」の遺跡 尖石遺跡 - 茅野市ホームページ
https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/1753.html
2018/12/03
・特別史跡の指定基準
特別史跡とは、「史跡のうち、学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」(『特別史跡名称天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準』)とされています。現在のところ、全国で62件が指定を受けていますが、そのひとつが尖石遺跡(指定名称は「尖石石器時代遺跡」)です。
・史跡及び特別史跡の合計1795件(名勝、天然記念物に重複指定されているものを含む)のうち、特別史跡は62件ですから、大変に厳選されていることがわかります。そのなかには、「五稜郭跡」(北海道函館市)、「姫路城跡」(兵庫県姫路市)、「慈照寺(銀閣寺)庭園」(京都府京都市)、「鹿苑寺(金閣寺)庭園」(京都府京都市)、「厳島」(広島県廿日市市)、「高松塚古墳」(奈良県明日香村)などが含まれており、教科書でもおなじみのものがほとんどです。あらためて、「わが国文化の象徴たるもの」という位置を与えられていることがわかります。
・縄文時代の特別史跡は四つ
縄文時代の特別史跡は、この「尖石石器時代遺跡」のほかに、「三内丸山遺跡」(青森県青森市)、「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)、「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)の三つがあり、縄文時代の特別史跡は全部で四つということになります。
「尖石石器時代遺跡」はどんな遺跡なのか?
尖石遺跡は、昭和17年(1942年)に史跡に指定され、その十年後の昭和27年(1952年)に特別史跡に指定されました。
縄文時代と弥生時代,どちらが幸せ?
縄文時代 弥生時代
31歳 ←→ 40歳くらい
狩りや漁 ←→ 稲 作
食料不足 ←→ おいしいお米
さまよう暮らし ←→ 定 住
平 等 ←→ 貧富の差
みな同じ ←→ 負ければ奴隷のような暮らし
闘 争 ←→ 平 和
上のものが子供たちが得ている知識のようです。
小学校で偏りマルクス主義や共産主義を 案に含めているようなものだと警告する人もいるようです。
論文を取り上げるマスメディアも。
芯に正しいものならばいくら教えても良いけれど。
後は自分の目で確かめて下さい。
◆弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか〜【CGS 日本の歴史 1-10】
649,476 回視聴 2015/08/21 https://youtu.be/QwgK9s42Oxk
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チャンネル登録者数 21.1万人
第1章最後の回は、前回の「稲作が縄文時代から始まった」という事に続き、弥生人は渡来人という定説のウソを暴きます。
よく言われるのが横長の顔の骨格が縄文人、縦長・平たいのが弥生人、のように骨格に差があるとされてきましたが、実は骨格の差はなかった様です。そしてそこには「捏造の歴史」がありました。
いわゆる自虐的な歴史観はこの時代からもう存在していたのでしょうか。
◆縄文人と弥生人についてNHKの嘘 : あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま
https://yosaku60.exblog.jp/28107994/
2020/05/24
我々は、縄文人はへらぺったい顔、
弥生人は長い顔と習って来ました。
こんな風に....左;縄文、右;弥生です。
https://pds.exblog.jp/pds/1/202005/24/68/d0083068_16182090.jpg
何故、縄文時代と弥生時代に分かれているのでしょうか。
我々は、縄文=狩猟、弥生=稲作と習ってきました。
稲作が朝鮮半島から入ってきたことにするためです。
これが嘘だったこと最近の稲のDNA研究から解りました。
それと、
縄文人と弥生人の顔の違いを分けたことも嘘と解りました。
嘘をついたのは、NHK報道です。
これを見て下さい。
報道された左が縄文人、右が弥生人です。
確かに、縄文人はへらぺったく、弥生人は長い顔です。
でも、左の顔は写真の偽造だったのです。
https://pds.exblog.jp/pds/1/202005/24/68/d0083068_16290578.jpg
そうなんです。
弥生人の顔を加工して縄文人に仕立てたのです。
何故にこういう写真を捏造したのでしょうね。
多分、適当な写真がなかったから捏造したのでしょう。
これが嘘だったこと最近の稲のDNA研究から解りました。
それと、. 縄文人 ... 多分、適当な写真がなかったから捏造したのでしょう。
次の写真を見て下さい。
これは二つとも古い縄文人のものです。
随分面長ですよね。
こういう写真を載せると何かがまずいので使わなかったのです。
https://pds.exblog.jp/pds/1/202005/24/68/d0083068_17082232.jpg
こういう事実をつきつけられても、
縄文時代に稲作があったことを認めたくないのです。
文科省として「半島渡来説」を変えたくないのです。
ですから「縄文時代」そのものを教えなくしました。
「ゆとり教育」にかこつけての削除にしたようです。
そして一旦消した小学校の教科書からの「縄文時代」ですが、
10年後の2008年から復活させたそうですが....
ほんの短い記述にとどめているようなのです。
これらのことから、どうしても思ってしまうのです。
NHKにしても文科省にしても、
戦後GHQから強要された「日本自虐」が沁み込んでいるのでしょうね~。
◆縄文人も弥生人も同じ日本人だった | 嘉子の不動産ブログ ...
http://www.zennichi.net/b/grantop/?id=100386&act_lst=detail&page=1
2015/11/16
縄文人も弥生人も同じ日本人だった
昔、私が書いたブログに事実誤認がありましたので訂正いたします。
先日、NHKのクローズアップ現代のやらせ問題がニュースになっていましたね。やらせは公共放送として許しがたいものです。これに対し、BPOは政治介入云々とかと述べ、マスコミ各社はここぞとばかりに論点をすり替えています。こんなメディアの対応に呆れている今日この頃です。自民党の谷垣氏が反論をしていましたが、谷垣氏の指摘に共感しています。
さて、肝心の訂正する内容についてです。縄文人と弥生人の顔の形についてのものです。どちらも同じ日本人だ、とわかりました。だから「私はたぶん縄文人」、と昔は語ったことがありましたが、それは間違いでした。縄文人でも弥生人でもなくて単なる日本人だ。と改めます。
◆縄文時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代
日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。
始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。
◆弥生時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代
日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
◆弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/03/26/9051760
2019/03/26
そしてそこには「捏造の歴史」がありました。 ... 唐から逃避してきたのが弥生人であり、唐の属国からの自立が大化の改新だったのです。 ... ⑳弥生時代に渡来人が稲作を日本人に伝授したなど真っ赤なウソだったんだな。
◆二つの「捏造」事件
http://jidoubunka.com/janome/jyanome7.htm
1
「捏造」事件というのは、どういう中身にしろなぜかいつも気になってきた。
昨年(2000年)にも大きな「捏造」事件があった。あの「旧石器発掘捏造事件」である。ここ近年「日本人」論が盛んになり、現代の「日本人」が「弥生人」の血を引く人々と、「縄文人」の血を引く人々の混合だというような論法で、話が盛り上がっていた中で、「弥生」や「縄文」などが足下にも及ばないほどの、旧石器時代から「原日本人」がここに住んでいたということが、発掘の結果わかったというのだから、多くの「日本人研究家」たちは歓喜したはずである。「やっぱり、日本人はすごい人種だったんだ」と。「日本人は、やっぱりずーと昔から、日本人としてここに住んでいたんだ」と。教科書でもいち早くそういう「事実」を紹介し、これから子どもたちはそれを学んで大きくなるところだった。
ところが、その証拠となる「旧石器発掘」がじつは「捏造」だったというのだから、関係者が一同ぶったまげることになったのは、当然であろう。この事件のその後の後遺症が、どれほど大きかったものかは、その後の報道でもよく知られているところである。
ところで今回、私が気になってきたのは、そういう歴史や発掘の見直しのことではなくて、一番最初にこの「旧石器発掘捏造」を「事件」として報道した、その一番最初の記事についてである。多くの人はもうすっかりお忘れになっていると思うのだが、実はこの「捏造発覚」の「事件」は、発表のされ方からしてとっても特異な経過をたどっていたのである。
◆弥生時代の始まり、稲作文化は制圧ではなく融和によって広がった
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」③ 関 裕二 2017.03.11
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/4883/
稲作を選択したのは縄文人?
弥生時代の到来と共に、稲作民が大挙して日本列島に押し寄せてきたと、長い間考えられてきた。北部九州に上陸した彼らは、あっという間に東に移動し、稲作は広まり、また、天皇家の祖は、朝鮮半島からの征服者と、漠然と誰もが信じていたのだ。
しかし、東洋史学者の江上波夫の唱えた騎馬民族日本征服説は、考古学的にはやばやと否定され、纒向遺跡に九州の痕跡がほとんどみつからなかったことから、「朝鮮半島→北部九州→ヤマト」と、征服者が移動してきた可能性も、低くなった。
残された問題は、稲作文化を携えて海を渡ってきた人たちが、日本人の祖先なのか、ということだ。
まず、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが、数世紀早まり、紀元前十世紀ごろだったことが分かってきて、これが大きな意味を持っていた。
これまで九州から東に、稲作民が先住の縄文人を蹴散らし制圧していったというイメージがあったが、実際には、ゆっくりとしたペースで、伝播していったことになるからだ。
北部九州の発掘が進展して、稲作伝播後の周辺の変化と動きも見えてきた。渡来人たちは、まずコロニーを形成し、稲作をはじめ、少しずつ周囲の人々も、稲作を受け入れ、融合していった様子がみてとれる。渡来人が周囲を圧倒したわけではなかったのだ。
◆縄文時代よりも古代~近世の方が飢えの圧力は大きかったのではないか.
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/02/449.html
2008/02/14 ↓ おもしろいデータを見つけました。↓
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1231S.jpg
図は倭人の形成の日本人の時代変化からお借りしました。
このデータからわかることは、弥生時代に渡来した人々は、縄文人より高身長で全く異質であったことです。また、縄文人が現代人よりもちっちゃかったことがわかります。
それよりも 驚きなのは、江戸時代や明治時代の人々は縄文人よりもずっとちっちゃかったということです。男子で約155cm、女子で約145cmしかない。いまの小6から中1ぐらいの身長です。
なんでだろう?
◆インターネット博物館・倭人の形成トップページ
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/WAJIN/wajin.html
◆【あなたはどっち?】縄文人と弥生人の顔と性格の違いまとめ
https://rekijin.com/?p=13837
2016/06/11
大陸と陸続きだった頃に日本列島に渡った人達が縄文文化を育み、後にやってきた渡来人によって本州では弥生文化が花開く。・・・というのが筆者が学校で習った先史時代ですが、今はどんなふうに教えられているのでしょうか。
最新の研究によると、縄文人は現在で言うバイカル湖、弥生人は長江を起源とする人種なのだとか。
地域が違えば風土が違う。風土が違えば生活が違う。生活の違いは人の姿を変えます。縄文人と弥生人は、対照的な姿をしていたようです。
現在の日本人は75%が縄文人と弥生人の混血と言われていますが、パーツごとにどちらかの特徴が色濃く出ることもあるのだとか。そこで今回は、縄文人と弥生人の特徴をまとめてみました。
目次
1.縄文人の顔の特徴は?
2.弥生人の顔の特徴は?
3.縄文系と弥生系の違いは性格にも表れる?
■日本人の時代変化■
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/WAJIN/m2.html
◆図録 人口の超長期推移(縄文時代から2100年まで)
http://honkawa2.sakura.ne.jp/1150.html
これまでの長期人口推移については、歴史人口学の鬼頭宏(2007)が整理した日本の人口の超長期推移をグラフにした(改訂前は鬼頭宏(2000)を使用)。これを見ると日本の人口は、大きく見て、増加と停滞の時期を何度か繰り返してきた。また、これに最近の将来人口推計をつなげてみると近代の人口爆発は21世紀に入り一転して急激な減少へ向かうことが明らかである。
縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。
◆裏辺研究所 http://www.uraken.net/
第1回 日本のあけぼの
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp01.html
第2回 豊かな縄文時代
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp02.html
第3回 弥生時代の幕開け
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp03.html
第4回 クニの興亡と邪馬台国連合
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp04.html
◆縄文時代と弥生時代 | OKWave
https://okwave.jp/qa/q6764996.html
これは面白い 考えさせられる回答です
◆66小学校・中学校社会科における縄文時代の研究
中嶋 俊平
1.論文の構成
序章 問題の所在と研究の目的
第1節 問題の所在
第2節 研究の目的と方法
第3節 論文の概要
第1章 縄文時代の考察
第1節 縄文時代の定義
第2節 学習指導要領での記述の変遷
第3節 教科書での扱い
第4節 学習指導要領・教科書の問題点に対してのアプローチ
第2章 北海道・北東北の縄文遺跡群の考察
第1節 北海道・北東北の縄文遺跡群の特徴
第2節 北海道・北東北の縄文遺跡群の教育的意義
第3章 北海道・北東北の縄文遺跡群を活用した社会科授業の提起
第1節 縄文遺跡を活用した授業実践の分析
第2節 授業の提起終章 研究のまとめと今後の課題
第1節 研究のまとめ
第2節 今後の課題
参考文献・論文・URL
2.問題の所在と研究の目的
(1)問題の所在
本研究を行うにあたっての問題の所在を三点述べる。
第一の問題点は、まだ縄文時代そのものが全て明らかになっていないため指導者や教科書によって学ぶ内容が異なることが挙げられる。
遺跡や採掘物の研究は進んでいるが、縄文時代での農耕の有無・何年から何年が縄文時代なのかが明らかになっておらず、また採掘物のない地域ではその地域がどうなっていたかは他の発掘された地域から類推することしかできない。
第二の問題点として述べるのは、縄文時代は「人物学習」が、日本では縄文時代の特定の歴史上の人物が存在していないがために行うことができず、また中学校での授業においても、資料として物的資料しか存在せず児童生徒に伝えられる情報が限られ、物的資料となる土器なども貴重なため結果として授業の方法が限られたものになってしまう点である。
第三の問題点として、現行の学習指導要領の指導計画の作成と取り扱いから身近な遺跡を用いた授業が望まれることが分かるが日本の縄文文化の中でも地方によって違いがあるため教科書の縄文文化と自分の地域の縄文文化に違いが生じる恐れがあることである。
以上の問題を踏まえた上で、私が提起したいのは北海道・北東北の縄文遺跡群を授業で活用することである。
◆古代日本の食文化~縄文・弥生時代の主食と副食~ - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=290819
2014/06/01
日本は、「米が主食」といわれます。確かに日本の食卓は主食である「ごはん」に副食として魚や野菜をそえることが定番となっています。
しかし、世界の食文化を見渡すと、この様に「主食」と「副食」の線引きが鮮明な民族というのは、意外と少ないようです。
たとえば日本の飲食店では、「定食」という、主食(ごはん)は固定で副食のみ可変するという食文化がありますが、中華でも、仏料理でも伊料理でも、そんな発想はありません。
なににでもあう、安定した「主食」と、季節や地方によって変幻自在な多彩な「副食」というこの組み合わせの源はどこから来るのでしょうか。
◆縄文時代、社長も上司もいないのに組織が成立していたってホント? 考古学者と組織の起源をさかのぼってみた
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001302.html
根岸達朗 2017年7月 5日
突然ですが、縄文時代に“上司”っていたと思いますか?
「働き方改革」が叫ばれる昨今。固定デスクの廃止やリモートワークの推奨などが進み、「会社が社員を管理する」ようなシステムが変化し始めています。
しかしそもそも、会社が存在しなかった時代って、みんなどう協業していたのでしょうか? 例えば縄文時代に上司や社長はいたの?
考古学者の岡村道雄氏に、縄文人がどう暮らし、どう働いていたのか聞いてみました。
◆弥生時代の開始年代について
http://www2.plala.or.jp/kwsakura215aoto/3kodaishi/yayoinewkaishinendai.htm
九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期(年表参照)にかけての土器(夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器)に付着していた炭化物などの年代を、AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ、紀元前約900~800年ごろに集中する年代となった。
考古学的に、同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭2点の年代もほぼ同じ年代を示した。
◆旧石器時代・縄文時代・弥生時代
711 回視聴 2019/10/06 https://youtu.be/8n2xZ-dlZXs
HaruYouの中学受験講座
社会・歴史単元の「旧石器時代・縄文時代・弥生時代」について解説します。
音声はさとうささら(水瀬いのりさん)です。
教科書精読と合わせて聞き流すだけでも効果がありますが、作者ブログの解説や演習プリント、
●もう60年以上前のこと自分の頃の事を覚えていない こんな感じだったかな
◆歯の豆辞典 -歯科人類学のススメ-
http://ymd20hiro4.sakura.ne.jp/
歯からみた人類の進化過程を、解説しています。
日常見慣れている小さな歯でも我々が考える以上に大きな働きをしています。
詳しいことは各項目を見てください。
◆3.縄文人と弥生人
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/special_exhibitions/WAJIN/m3.html
縄文人と弥生人のちがいは,前のコーナーで見ただけにとどまりません.
とても小さい歯だった縄文人.
とても大きな歯だった弥生人.
筋骨隆々だった縄文人.それにくらべて,少しきゃしゃだった弥生人.
けがや病気も,縄文人と弥生人とはちがっていたようです.
これは,縄文時代の狩猟採集にもとづく生活から弥生時代のコメづくりに
もとづく生活への社会・文化の変化とともに,朝鮮半島南部からやってきた
人々と,北部九州地方在来の人々との混血によってもたらされた変化だと
考えられています.
◆地震考古学 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/地震考古学
地震考古学(じしんこうこがく)とは、地震学と考古学をあわせ持つ学問であり、遺跡にある地震跡の調査と、歴史資料の地震に関する記述との照らし合わせによって、発生年代の推定や将来の地震の予測を行う、新しい学問分野である。
◆遺跡が語る巨大地震の過去と未来 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/synth/2/2/2_2_91/_pdf
− 境界領域「地震考古学」の開拓 − 寒川 旭
考古学の遺跡発掘調査で地震の痕跡が見つかることが多いが、従来は調査の対象とされずに見逃されていた。
筆者は、1988年に「地震考古学」を提唱し、遺跡の地震痕跡を用いた研究方法を広く普及させた。
これによって、考古学と地震関連分野との境界領域が開拓されて様々な成果が得られた。
南海トラフで発生する巨大地震について過去2千年間の発生年代がわかり、次の発生を考える基礎資料となった。
内陸の活断層による地震痕跡も数多く見出されており、京阪神・淡路地域では1596年慶長伏見地震での地盤災害が詳しくわかった。液状化現象についても、遺跡での観察結果から新しい知見が得られた。
また、地震痕跡は一般市民にも理解しやすいことと、マスメディアにも取り上げられる機会も多いことなどにより、地震災害軽減のための活動へ大きく寄与している。
◆縄文時代・弥生時代/深谷市ホームページ
http://www.city.fukaya.saitama.jp/rekishi_bunkazai/shinorekishi/1391995194611.html
2014/04/17
~台地での進展~
縄文時代になると、市内各地で人々が暮らしていた遺跡が280ヶ所見つかっています。竪穴住居を作り、定住を始めた時代で、縄文土器や各種石器に代表されます。
縄文時代草創期(約12,000年前)の遺跡として、西谷・水久保遺跡(針ヶ谷)、宮林遺跡(永田)など、早期(約8,000年前)の遺跡は、北坂遺跡(本郷)、四反歩遺跡(本田)など、前期(約6,000年前)の遺跡は、台耕地遺跡(黒田)、東光寺裏遺跡(後榛沢)などがあります。
中期(約5,000年前)になると、高台の水を利用しやすい土地を選んで、台地上に集落を営み始めます。台耕地遺跡(黒田)では環状集落が見つかり、他に小台遺跡(上野台)、上本田遺跡(本田)などが地域ごとの中心集落として出現します。
縄文時代後期(約4,000年前)になると、集落の分布が北部の妻沼低地へと移っていったことがうかがわれます。宮ヶ谷戸遺跡、上敷免遺跡などが挙げられます。
縄文時代晩期(約3,000年前)の遺跡は、土偶や耳飾りなどの祭祀遺物が出土し、原ヶ谷戸遺跡(岡)、上敷免遺跡、橋屋遺跡(小前田)などがあります。
◆上毛風土記 上毛の歴史 - FC2
http://nordeq.web.fc2.com/rekishi/rekishi.html
上毛の歴史
群馬の歴史をかいつまんで紹介します。
まずは、年表をご覧ください。
・先史時代・縄文時代・弥生時代
~豊かな自然と豊富な産物に支えられ~
・古墳時代
・飛鳥・奈良時代
・平安時代
・鎌倉時代
・南北朝時代
・室町時代
・戦国時代
・織豊時代
・江戸時代
・近現代
◆『27時間テレビ』で大反響 「縄文顔 vs 弥生顔」アナタはどっち?
https://sirabee.com/2017/09/10/20161284804/
『FNS27時間テレビ』で放送された「日本人ルーツ顔探し」が話題に。日本人は縄文顔・弥生顔が入り交ざっているという…。
エンタメ
2017/09/10 05:00 らむたそ
濃い顔・薄い顔と分かれる日本人の顔だが、そのルーツは縄文人と弥生人にあるといわれている。
9日放送の『FNS27時間テレビ』(フジテレビ系)の内容が今、話題になっている。
■「縄文顔 vs 弥生顔」それぞれの特徴は…
番組では「日本人ルーツ顔探しの旅」との企画を放送した。日本人の顔は、縄文顔は立体的で目鼻立ちがはっきりしている「縄文顔」と、平坦でのっぺりした「弥生顔」が入り混じっているようだ。
それぞれの顔の特徴をまとめると…
【縄文顔】
・濃くて立体的な顔
・太く直線的な眉
・鼻根がしっかりしている鼻
・分厚い唇
・小さい歯
【弥生顔】
・平面的でさっぱりした顔
・細く半円を描いている眉
・鼻根が低い鼻
・薄い唇
・大きい歯
これら5つのパーツで決められるとのことだ。
◆縄文人のくらし - 玉川学園
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/jomon/
縄文時代(じょうもんじだい)は今から約1万2千年前から2500年前まで,約1万年間も続いた長い時代です.ですから初めのころと終わりではずいぶん様子がちがいます.また,海の近くにくらしていた人々と,山に住んでいる人々の生活もずいぶんことなります.このホームページでは春夏秋冬の季節のなかで,「縄文時代」の人々がどのようなくらしをしていたかを勉強します.
◆与助尾根集落論―もう一つの「不都合な真実」 佐々木藤雄
http://www.komakino.jp/sasaki-yosukeone/sasaki-yosokeone.html
「茅野市にある国の特別史跡尖石遺跡は、縄文集落研究の発祥の地として、日本考古学史の上に永遠に記念されるべき重要な遺跡である。ここでは昭和5年(1930)から同18年まで、地域研究者として育った宮坂英弌が、教職のかたわら、自らの財産をなげうって、営々と独力で発掘を続け、53ヶ所の炉址、33ケ所の住居址を発見し、縄文時代のムラのほぼ全容を、全国ではじめて明らかにするという偉大な業績を残した。太平洋戦争後も宮坂は縄文集落の研究に精魂をうちこみ、尖石遺跡に隣接する茅野市与助尾根遺跡で、総計28ケ所の住居址を発掘し、ついに一単位の縄文集落の全掘に成功したのである。」
◆縄文時代の集落 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsahj/10/0/10_94/_pdf/-char/ja
学界展望
本号の学界展望では、縄文時代の集落、発掘遺構による住肘史、城郭をとりあげた。
昭和三十年代の後半から彪大な数の遺跡が発見された。
本展望ではそれを一望のもとに納めると同時に、新たな研究動向が示される。
城郭は古くからの研究テーマだが、研究の精度が上がるとともに安土城の復原など新たな問題が起きてきた。
そのための基礎作業の重要性が明らかにされている。
◆三内丸山遺跡について
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/
特別史跡三内丸山(さんないまるやま)遺跡は日本最大級の縄文集落跡です。
発掘調査によって当時の自然環境や生活、村の様子などの解明が進められています。
遺跡は通年で公開され、自由に見学することができます。
三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、
長期間にわたって定住生活が営まれていました。
平成4年からの発掘調査で、
竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、
大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、
集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
また、
膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、
木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、
他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が
明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。
◆こまきのいせきものがたり 2012/1/25 http://www.komakino.jp/
水野集落論と弥生時代集落論(下)
http://www.komakino.jp/totteoki/sasaki-mizunoshurakuron/sasaki-mizunoshurakuron.htm
今回紹介する佐々木藤雄さんの論文は、1996年3月に「異貌」第15号(共同体研究会)に掲載されたもので、まさに「力作」です。既に3年半の時間を経過していますが、当時既に下記のようなするどい「警告」を発していることに驚かされます。
「全国各地で巨大遺跡・遺構”の新発見が相次ぐ今日、縄文時代集落論は、少なくとも第三者の眼には、かつてない高揚と自己変革の波の中にあるかのようにみえる。
しかし、戦後半世紀にわたって営々と積み重ねられてきた集落研究のこれまでの成果をほとんど顧みることもなく、しかも、検出された膨大な遺構群の時空的な分布や内容に対する十分な検討もなされないまま、二〇m、五〇〇人、一五〇〇年、神官層、縄文都市、縄文文明といったS・Fもどきの野放図な言葉となし崩し的な結論の一人歩きを許容しているたとえば三内丸山遺跡をめぐる“議論”の現状は、率直にいってきわめて無責任であり、そこには地に足の付いた、縄文時代集落論の将来の方向を真摯にみすえた新しい問題提起や提言の類はまったくといってよいほど認められない。
むしろ、そこから垣間みえてくるのは歴史科学としての考古学の集団自殺であり、マスメディアと一体となって垂れ流される恣意的かつ一方的な情報の数々は、この時代を中心とする研究者の主体性と創造性、何よりもその実践的立場に改めて鋭い問いを投げかけている。」
★「62分の1」の遺跡 尖石遺跡 - 茅野市ホームページ
https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/1753.html
2018/12/03
・特別史跡の指定基準
特別史跡とは、「史跡のうち、学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」(『特別史跡名称天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準』)とされています。現在のところ、全国で62件が指定を受けていますが、そのひとつが尖石遺跡(指定名称は「尖石石器時代遺跡」)です。
・史跡及び特別史跡の合計1795件(名勝、天然記念物に重複指定されているものを含む)のうち、特別史跡は62件ですから、大変に厳選されていることがわかります。そのなかには、「五稜郭跡」(北海道函館市)、「姫路城跡」(兵庫県姫路市)、「慈照寺(銀閣寺)庭園」(京都府京都市)、「鹿苑寺(金閣寺)庭園」(京都府京都市)、「厳島」(広島県廿日市市)、「高松塚古墳」(奈良県明日香村)などが含まれており、教科書でもおなじみのものがほとんどです。あらためて、「わが国文化の象徴たるもの」という位置を与えられていることがわかります。
・縄文時代の特別史跡は四つ
縄文時代の特別史跡は、この「尖石石器時代遺跡」のほかに、「三内丸山遺跡」(青森県青森市)、「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)、「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)の三つがあり、縄文時代の特別史跡は全部で四つということになります。
「尖石石器時代遺跡」はどんな遺跡なのか?
尖石遺跡は、昭和17年(1942年)に史跡に指定され、その十年後の昭和27年(1952年)に特別史跡に指定されました。
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