縄文人の志葉楽さんのブログ

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★『●大和万歳●三河万歳●尾張万歳●加賀萬歳●伊予万歳●圓生 掛取万歳●』

2020年09月06日 10時18分05秒 | 文化
★『●大和万歳●三河万歳●尾張万歳●加賀萬歳●伊予万歳●圓生 掛取万歳●』
伊勢桑名(いせくわな)蓮華寺(れんげじ)の無住国師
★廃絶した万歳 大和万歳の特徴
http://sutemaru-manzai.com/manzai/yamato/
百人一首で有名な、藤原定家の日記「明月記」には、
「千秋万歳参内す」と書かれております。
藤原定家は、12世紀から13世紀にかけての人物です。
また、元明天皇(第43代天皇・女帝・707~715年)の前で萬歳楽を舞ったという記述もありますので、野大坪萬歳の継体天皇より、200年程後になります。
以前は奈良県田原本近在の村に伝承されており、NHKによって収録されてたそうですが、このNHKの資料については今後調査したいと思います。大和万歳の本場は、大和の小泉村(現・奈良県郡山郡小泉町)、窪田村(現・奈良県生駒郡安堵村窪田)、箸尾村(現・同北葛城郡広陵町)、百済(同)の一帯と言われています。
ここは京の御所をスポンサーに持ち、京・大阪をマーケットにしていたので、田園育ちの大坪万歳とは別の見識を持っていたようです。

★大和万歳資料 - 奈良県
http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main10203.html
2017/09/15
奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」は、「出会う」「楽しむ」「深める」「活かす」の視点で奈良県の歴史文化資源をご紹介する歴史満喫サイトです。このページは大和万歳資料について紹介しています。

★館長ノートvol.14 初代大和のこと
投稿日 : 2009年11月4日 最終更新日時 : 2015年9月25日 カテゴリー : 館長ノート
https://yamato-museum.com/note/post_3/
 日本海軍で、大和と言う名前は、ご存じのように2代目です。では初代はどんな軍艦だったかというと、鉄骨木皮という、極めて珍しい構造の国産艦で、なかなかスマートな機帆船、つまり、基本的には帆船ですが、時々使うために蒸気エンジンも積んでいる、いわば昔のハイブリッド艦なのです。
 初代大和は、明治16年度計画,の巡洋艦で,小野浜造船所で建造されました。明治16年に起工されたのですが、途中小野浜造船所のオーナーであったキルビーが、経営不振から拳銃自殺するなどのトラブルがあり、竣工は19年となっています。巡洋艦に類別されて、日清戦争、日露戦争に参加後は特務艦(測量艦)として活躍しました。初代艦長が東郷平八郎であったことも注目されます。昭和10年に特務艦籍から除籍されて司法省に移管されて、浦賀港に繋留して少年刑務所(漁労実習船だったかと記憶します)として使われていました。

★大和万歳(読み)やまとまんざい
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡地方の広瀬、窪田(くぼた)、箸尾(はしお)、小林などの村落を故地とした千秋万歳(せんずまんざい)。
京阪地方を回勤圏(檀那(だんな)場)とし、広瀬はとくに宮中への参仕を許されていて、大正中ごろまで行われていた。
由緒をもちながらも来歴は不詳で、現在は絶えたままである。
太夫(たゆう)は扇、才蔵は鼓を持つが、服装はともに侍烏帽子(えぼし)、素襖(すおう)。
大正の宮中参仕の記録では烏帽子、浄衣、浅葱(あさぎ)の指貫(さしぬき)、木靴である。このときは2組4人で、御所の庭で「柱立(はしらだて)」「田植舞」「えびす舞」などを二組の者が相舞(あいまい)の形で演じている。
「田植舞」「えびす舞」は中世の囃子舞(はやしまい)の流れと思われるが、「柱立」は幕末に記された禁中千秋万歳の「言立(ことだつ)」であり、「南蛮胡椒舞(なんばんこしょうまい)」は同じく「京の町」と同類である。
ほかに「十二月舞」「手ぶり踊」などの演目があった。[西角井正大]

★世界大百科事典内の大和万歳の言及
【万歳】より
万歳の宮中への参入は大正時代中ごろまであったといい、民間では第2次世界大戦ころまでは盛んであったが、戦後はしだいに衰微し、現在は全国をめぐり歩く万歳の姿はほとんど見かけなくなった。
民俗芸能として地域に残るのは〈尾張万歳〉〈越前万歳〉〈伊予万歳〉などで、〈三河万歳〉〈秋田万歳〉〈加賀万歳〉〈会津万歳〉〈豊後万歳〉は衰微し、〈大和万歳〉〈仙台万歳〉〈津島万歳〉〈伊六万歳〉、沖縄の〈京太郎(ちよんだらあ)〉は廃絶した(京太郎の芸系をひく民俗芸能は現存する)。
万歳は一般には太夫と才蔵の2人が一組になり、太夫が扇をかざし、いろいろとめでたい寿詞(ほぎごと)を言い立て、才蔵が小鼓を打ち囃して合の手を入れる掛合いで進行する。

★秋田(横手)万歳秋田万歳の特徴


小沢昭一のCDに収録されているものを聴くと、たしかに2人とも別々の詞章を言っていて、あるタイミングでピタリと同じ言葉を言っている。このパターンは他に唯一、大和万歳に見られる。

★三曲万歳
http://www.sk.aitai.ne.jp/~bigbear/mikawamanzai/sankyoku/sankyoku.html
三 曲 万 歳.
鼓・胡弓・三味線による賑やかな万歳で、別名「トマ万歳」
とも申しております。尾張万歳の流れを汲むもので、芸題も
のを演じます。代表的な演目には「梅川忠兵衛」「忠臣蔵三
段目」「白木屋お駒」(写真・上)「矢口の渡し」等があり
ます。歌舞伎調のものです。 

★三曲萬歳(三重)
4,033 回視聴 2015/07/21 https://youtu.be/3lLoxjLSS3w
一銭大学
チャンネル登録者数 616人

★万歳(読み)まんざい
デジタル大辞泉の解説
[名](スル)《古くは「ばんぜい」。「ばんざい」は近代以降の読み方》
1 祝いや喜びの気持ちを込めてを唱えること。多く、威勢よく両手を上げる動作を伴う。また、その動作のこともいう。「万歳を三唱する」「万歳の姿勢」
2 めでたいこと。うれしいこと。「これが成功すれば万歳だ」
3 《1の動作から》
㋐降参すること。お手上げ。「もう食べられない。万歳するよ」
㋑野球で、野手がフライを捕球しようとして両手を上げながら、打球に頭上を抜かれること。→ばんぜい(万歳)
[感]めでたいときやうれしいときに、その気持ちを込めて発する語。「万歳、合格だ」
1 長い年月。万年。「千秋万歳」
2 いつまでも生きること。また、永く栄えること。
「君天下を保たせ給はん事、―是より始まる可し」〈太平記・二八〉
3 めでたいこと、寿命などを祝福して唱える語。ばんざい。
「―の喜びをぞ唱へける」〈曽我・五〉
1 万年。よろずよ。また、長寿や末長い繁栄を祝う言葉。ばんぜい。ばんざい。
2 新年に家々を訪れて祝言を述べ、舞を演じる門付け芸人。また、その芸能。烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)または素襖(すおう)姿で扇を持った太夫(たゆう)と、大黒頭巾(だいこくずきん)にたっつけ姿で鼓を持った才蔵の二人一組が普通。千秋万歳(せんずまんざい)に始まる。のち、こっけいな掛け合いをする寄席の芸にもなった。太夫の出身地により三河万歳・尾張万歳・秋田万歳などがある。今日の漫才のもと。《季 新年》「山里は―おそし梅の花/芭蕉」

★漫才の歴史:祝う芸からのはじまり|大衆芸能編・寄席|文化 ...
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/manzai/index1.html
万歳は新年にめでたい言葉を歌唱して、家の繁栄と長寿を祈る芸能である「千秋万歳(せんずまんざい)」を略した呼び方だといわれています。祝福芸の万歳は日本各地に広まり、それぞれの地域に根づいて地方色を出しながら継承されまし ...

★『福井県史』通史編3 近世一
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-04-01-07.htm
第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      越前万歳―伝承から歴史へ
 近世以降の各地の万歳は、一部のみ残された京都と大和万歳は中世からの伝統を受け継ぐものであったが、尾張万歳を除くほとんどのものは三河万歳の系譜を引くものである。そのなかで越前万歳のみが系譜不明である。笠嶋怜史は古い万歳系の「家建て」を含む各地の詞章(越前では「舞込お家万歳」)の詳細な比較を通して、越前万歳は後に三河の影響を受けるものの、大和や尾張等の影響を受けて、近世以前にすでに存在していた、と結論付けている。
 『今立郡誌』に載せられた「由緒書」には次のような伝説がある。

★正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし~ 一休禅師 ~
https://minamimido.jp/正月は冥土の旅の一里塚-めでたくもあり-めでたく/
この言葉は一休禅師が正月に頭蓋骨を持ち街中を歩いた逸話にある。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから家族や友人と祝った。
しかし一休禅師は、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無常をあえて正月に説いたのである。

★ばんざい【万歳】三省堂 大辞林 歴史民俗用語 Weblio辞書
〔「ばん」は漢音、「さい」は呉音〕

( 名 ) スル
① 「ばんざい」を唱えること。また、唱えたくなるほどめでたいこと、嬉しいこと。 「 -を三唱する」 「この案が通れば-なのだが」
② 〔両手を上げる形から〕 打開の方法がないこと。困って、なるがままにまかせること。降参。お手上げ。 「もう-するしかない」
③ 〔上げた両手が「ばんざい」の形になることから〕 野球で、野手がフライをとろうとして目測を誤り、頭の上を越されること。
④ 「ばんぜい(万歳)」に同じ。

( 感 )
めでたい時や嬉しい時、長久を祈る時などに唱える語。多く、両手を頭上に高く振り上げる動作を伴う。 「 -、出来たぞ」
[句項目] 万歳の後
・ばん ぜい 【万歳】
〔漢音〕
① 万年。長い年月。まんざい。 「天子宝算千秋-/平家 灌頂」
② いつまでも生きること、栄えること。めでたいこと。 「勝ちどきを作りて-の喜びをぞ唱へける/曽我 5」
③ 貴人の死。
④ 長寿・長久を願って、また、祝福していう語。感動詞的にも用いる。 「中納言再拝し-を称し/三代実録 元慶六」 → ばんざい
[句項目] 万歳の後
・まん ざい【万歳】
〔呉音〕
① 非常に長い年月。万年。また、いつまでも生きたり、栄えたりするよう祝う語。ばんぜい。ばんざい。 「とくわかに御-と君も栄えまします/浄瑠璃・千本桜」
② 新年に家々を回り祝言を述べ、舞を見せる門付(かどづけ)芸能。風折り烏帽子(えぼし)に大紋の直垂(ひたたれ)姿の太夫(たゆう)が、大黒頭巾にたっつけ袴の才蔵の鼓に合わせて演ずる。江戸時代に千秋(せんず)万歳より興り、三河万歳・大和万歳・尾張万歳・秋田万歳などがある。 [季] 新年。 《 -や左右にひらいて松の蔭 /去来 》

★千秋万歳 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/千秋万歳
千秋万歳(せんずまんざい)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の民俗芸能、大道芸、門付芸の一種であり、およびそれを行う者である。「せんじゅまんざい」「せんしゅうまんざい」とも読み、千寿万歳(せんずまんざい)とも表記する。
行う芸能者を千秋万歳法師(せんずまんざいほうし)とも呼ぶ。新春の季語・1月の季語である。
もともとは「せんしゅうばんぜい」と読み、「千年万年」つまり「永遠」を意味し、転じて長寿を祝う語であった。これを語源とした予祝芸能となったものについて、本項で詳述する。

★千寿万歳
https://lapis.nichibun.ac.jp/gyouji/honkoku/gyouji_2.html
データ番号 053_2
作者名 江馬務(えまつとむ)
解説
あら玉の年たちかへりて、大空も大地も長閑にあけゆくあした、門松注連縄にも春のただよへるさへあるに、折りしりがほに千寿万歳の鼓のねのおとづるるこそ心にくけれ。抑千寿萬歳は単に万歳ともいひ、いにしへ正月十四日宮中に行はれし男踏歌よりいでて、鎌倉時代(かまくらじだい)には伊勢桑名(いせくわな)蓮華寺(れんげじ)の無住国師(むじゅうこくし)に自宗弘布に利用せられ、いつしか同寺領ありし大和(やまと)三河(みかわ)に広まりぬ。是れ大和万歳三河万歳の起原とす。徳川の世(とくがわのよ)、大和万歳は京都に上り、三河万歳は江戸(えど)に下りて、才蔵を雇ひ市井をめぐりしが、星移りて今の京都は概ね三河万歳の流れなり。太夫は引立烏帽子に橘の文様ある素袍よしあるさまに着、黒骨の扇に鼓を持ち、才蔵は装束こそ太夫に似つれ、冠物は品かはれる大黒頭巾に米鉢を入るる大袋を肩にせるは、あまりに興さむるわざなれ。とうとうたらりとうとうたらり徳若に御万歳と、御代とお家の繁昌を幾千代かけて祈るこそ、いづれにもましてめでたけれ。

★おらんだ万歳(読み)おらんだまんざい
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
長崎市の秋祭「おくんち」に演じられる芸能の一つ。文化・文政(1804~30)のころ、古くからある二上りの地歌三絃(さんげん)曲『万歳』の合奏用に、大坂の市浦検校(いちうらけんぎょう)がオランダ渡りのオルゴールにヒントを得て作調した、変則的調弦の箏曲(そうきょく)『阿蘭陀(オランダ)万歳』が原曲である。下って1933年(昭和8)に町田佳聲(かしょう)がこれを改補し、2世花柳寿輔(はなやぎじゅすけ)の花柳舞踊研究会で和洋合奏曲として振り付け、上演された。さらに翌34年の長崎市主催の国際産業観光博覧会の際に、花柳寿太郎の補作で芸妓(げいぎ)たちが踊って、長崎くんちの名物の一つとなった。シルクハットにオランダ服、手に唐扇子の者と、鼓を持ったピエロが明清楽(みんしんがく)で踊る。[西角井正大]

★漫才(まんざい)の意味・語源・由来を解説
【意味】漫才とは、二人の滑稽な掛け合いで笑わせる寄席演芸。テレビなどでも演じられる。三人組の場合は、トリオ漫才とも呼ばれる。
【漫才の語源・由来】
本来は、「万歳」で、「万年」や「いつまでも栄えるように祝う」ことを意味した。
中世以降、新年に宮中や寺社などで祝い言を述べ、舞を舞う「千秋万歳(せんずまんざい)」が、漫才の原型となる。
近世に、「太夫(たゆう)」と「才蔵(さいぞう)」が二人一組で家々を回り、祝い言を述べ滑稽な踊りや掛け合いをする形になった。
この形の万歳には、「三河万歳」「大和万歳」「尾張万歳」「秋田万歳」などがある。
漫才は万歳が発展したもので、1930年代中頃より「漫才」の表記となった。
大阪では昭和8年正月から「万才」に替え、東京でも昭和9年4月から使用された。

★万歳〔解 説〕「二上り端歌物」といわれる三味線の組歌である。
『万歳』とは、正月などにまわってくる三河万歳や大和万歳のことであるが、これは、もともと『千秋万歳(せんずまんざい)』といって宮中で行われていたもので、そうした色々の万歳歌をつなぎ合わせて歌詞としてある。

★万歳 -楽曲解説- |尺八修理・販売 尺八修理工房幻海
http://shakuhachi-genkai.com/analysis/analysis07-manzai.html
楽曲解説 -マ行-
 邦楽の様々な楽曲の由来や解説などを知り、より演奏を楽しむ為の考察です。
万歳・萬歳(マンザイ・バンゼイ・バンザイ)
 地歌筝曲、「二上り端歌物」といわれる三味線の組歌。作曲は城志賀、替手に菊岡検校(キクオカケンギョウ)作のものがある。伝来して久しく、各流各派にそれぞれの手があり、義太夫節や三味線にも転用されいる。のちに市浦検校(イチウラケンギョウ)がオルゴールからヒントを得た、阿蘭陀萬歳という変曲もある。
 昔、正月に回ってきていた三河万歳や大和万歳などがあったが、これは宮中で催されていた千秋万歳という祝賀の曲で、いろいろな万歳の歌詞をつなぎ合わせて一曲としている。。
徳若に御万歳(おまんざい)と御代も栄えまします
愛嬌ありける新玉(あらたま)の 年立ち返る明日より
水も若やぎ 木の芽も咲き 栄えけるは
まことに目出度う候ひ(そふらい)ける
京の司(つかさ)は関白殿 下り居(くだりい)の帝
日の本 内裏 王は十善(じゅうぜん) 神は九善(くぜん)
万やすやす浦安が このもとに
正月三日 寅の一点にまします 若恵比須(わかえびす)
商ひ繁盛と守らせ給ふ
商ひ繁昌と守らせ給ふは
誠に目出度う候ひける
野師め(やしよめ、八瀬女)野師め
京の町の野師め 売たる物は何々
大鯛小鯛 鰤の大魚(おおうお) 鮑(あわび) 蠑螺(さざえ)
蛤子(はまぐりこ) 蛤子 蛤 蛤
蛤みさいなと 売たる者は野師め
そこを打過ぎそばの店(たな)
見たれば 金襴緞子 緋紗綾 緋縮緬(きんらんどんす、ひざや、ひちりめん)
繻子 緋繻子 縞繻子 繻珍(しゅす、ひじゅす、しましゅす、しゅちん)
いろいろ結構に飾り立てて候ひしが
町々の小娘  お年の寄りたる姥たちまで
行き交う有様は げにも治まる御代なり時なり
恵方の御蔵にずっしりずっしり 宝も治まる
門には門松 背門(せど、瀬戸)には背門松
そっちもこっちも幾年も お祝ひと御代ぞ目出度き

★武家家伝_万歳氏 ●丸に一つ引●武内宿禰後裔/橘氏流
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/banzai_k.html
 中世の大和国は藤原氏一族の荘園が多く、その氏寺である興福寺や氏神の春日神社に寄進され、在地の有力者らが荘官(庄司)に任じられ荘園の管理・経営にあたった。そして、衆徒・国民として興福寺の強力な支配下に置かれた。やがて、鎌倉時代のはじめより興福寺は国司と守護職を兼ねるようになり、大和一国の検断権を行使した。
 そのような興福寺の荘園の一つである平田荘は、高田・布施・万歳・岡など在地の八荘官によって分割支配されていた。万歳氏は現在の香芝市の五位堂・鎌田地域を支配して、次第に勢力を拡大していったのである。こうして、大和の各地において在地の荘官たちを中核とした大和武士団が形成さていったのである。

万歳氏の登場

 万歳氏の名が歴史にあらわれてくるのは、天永三年(1112)の
 『東大寺文書』の「某(万歳氏)処分状」である。
 処分状は対馬守(万歳殿)が、葛下郡の土地を譲渡した記録で、
 六人の「きんたち」の内、四の「きみ」にわかちたてまつるとある。
 注目されるのは、対馬守に任官し、子女が公達・君と尊称されていることで、
 平安期において万歳氏が中流官人であったことがうかがわれる。
 万歳氏は伝えられる系図などによれば、古代葛城の氏族武内宿称の後裔といい、
 源頼朝に仕えて功のあった治部少輔友直が万歳を称したことに始まるという。
 一方、葛城王橘諸兄を祖とする系図もあり、出自を特定することはできないが、
 然るべき出自の家であったと考えていいようだ。
 大和武士たちは興福寺の支配下にあって、
 春日社の「おん祭」に流鏑馬を奉納することを誇りとしていた。
 元弘三年(1333)の『春日神社文書』に「流鏑馬十騎内万歳九郎一騎」とあり、
 ついで南北朝時代の至徳元年(1384)の『長川流流鏑馬日記』に
 「万歳殿」とみえる。
 そして、万歳氏は同じく平田荘の荘官である高田氏・布施氏らとともに
 平田党を結成して、おん祭の流鏑馬をつとめていた。
 興福寺は大乗院と一乗院の両門跡が並び立ち、
 衆徒・国民はいずれかの門跡に属していた。
 康正三年(1457)の『大乗院寺社雑事記』によれば、
 万歳氏は越智・布施・箸尾・片岡氏らとともに一乗院方の国民で、
 同記には万歳南・万歳北井氏らも一乗院国民として記録されている。
 このことから、室町時代なかごろになると、
 万歳氏は一族を分出して党を結成していたことが知られる。
 そして、市場を本城として、北角城、万歳山城を築き、
 大和西部において小勢力ながら乱世を生きたのである。

★民謡研究の第一人者 加藤 正人 - 大分県. 豊後万歳. 前経(まえぎょう)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjhy5i93dPrAhUi-2EKHcnrA6UQFjABegQIBRAB&url=https%3A%2F%2Fwww.pref.oita.jp%2F10400%2Fviento%2Fvol15%2Fdata%2F14-17.pdf&usg=AOvVaw13SGZDPbnBIT_IzUTz-41y
発掘に生涯を捧げた民謡研究の第一人者. 加藤 正人. [由布市挾間出身]. Masato. 大分県が、なぜふるさとのうたの宝庫. なのか ... う。 「そのお囃子に横笛(民笛)と胡弓を. 復活させ、正調のメロディーをよみがえ. らせ、国の重要無形民俗文化財指定(選 ... 櫓の上で横笛を吹く加藤さんのうれしり(豊後高田市)、扇子踊り(津久見市).

★万歳
http://idolapedia.sakura.ne.jp/cgi-bin/song.cgi?mode=text&title=%96%9C%8D%CE
地歌のもの(端唄物)は城志賀が作曲したもので、「二上り端歌物」といわれる三味線の組歌である。
万歳とは、正月などにまわってくる「三河万歳」や「大和万歳」などの祝福芸であるが、これは、もともと「千秋万歳」といって宮中で行われていたもので、そうした色々の万歳歌をつなぎ合わせて歌詞としてある。
また、初世中能島松声による山田流のものもある。
【歌詞】
詞章前半は、大和万歳の「柱立て」及び「えびす舞」であり、「やしょめ~」以降は、禁中千秋万歳歌から出た「京の町」という、やはり大和万歳の歌であり、原曲の詞章は『古今端歌大全』(正徳(1711~16)以前刊)に収録。
  徳若に御万歳と御代も栄ゑまします
  愛嬌有ける新玉の年立返る朝より 水も若やぎ木の芽も咲き栄ゑけるは
  誠に目出度候ひける [合]
  京の司は関白殿 下り居の帝 日の本 内裏 王は十善 神は九善
  万やすやす浦安が 此許(木の本)にて
  正月三日 寅の一点に 誕生まします若恵比須
  商ひ神と祝はれ給ひて 商繁昌と守らせ給ふは
  誠に目出度候ひける [合]
  野師め(八瀬女)野師め 京の町の野師め 売たる物は何々
  大鯛小鯛 鰤の大魚 あはび 蠑螺 蛤子 蛤子
  蛤々 蛤めさいなと 売たる者は野師め
  そこを打過ぎそばの店見たれば 金襴緞子 紗綾 緋縮緬
  [合] 繻子 緋繻子 縞繻子 繻珍
  種々(いろいろ) 結構に飾り立てて候ひしが
  町々の小娘や お年の寄たる姥たちまで
  ゆきこう有様は 実にも治まる御代なり時なり
  恵方の御蔵にずっしりずっしり
  [合] 寶(たから)も治まる
  門には門松 背門(瀬戸)には背門松
  そっちもこっちも幾年のお祝ひと 御代ぞ目出度き
【解説】
「徳若」:「常若」の転。1行目は、浄瑠璃の『義経千本桜』にも取られている。

★万歳(まんざい) 新年 - 季語と歳時記 - きごさい歳時記
http://kigosai.sub.jp/archives/1866
2011/01/24


【子季語】
千秋万歳、万歳楽、御万歳、門万歳、三河万歳、加賀万歳、大和万歳、万歳大夫
【関連季語】
才蔵市
【解説】
新年を祝う門付けの一つであり、主役の万歳大夫と脇役の才蔵との二人組で行われる。その家が千年も万年も栄えるようにと賀詞をのべる。才蔵の鼓に合わせて舞ったり歌ったり、滑稽な問答を交わしたりする。
【来歴】
『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【実証的見解】
万歳は出身地によって、三河万歳、大和万歳、尾張万歳などと地名を冠して呼ばれる。もともとは室町時代の下層民の千秋(せんず)万歳が起源とされる。主役の万歳太夫は、風折烏帽子に紋服姿で手に扇を持つ。脇役の才蔵は大黒頭巾をかむって鼓を打つ。昔、江戸では、「才蔵市」なるものが立ち、万歳太夫が相方の才蔵をその市で見つけたという。
【例句】
やまざとはまんざい遅し梅の花
芭蕉 「真蹟懐紙」
 
万歳や左右にひらいて松の陰
去来 「柞原」
 
万歳にあはれや老の拍子ぬけ?
土芳 「蓑虫庵集」
 
万歳の踏みかためてや京の土
蕪村 「落日庵句集」
 
万歳や飯の吹きたつ竈の前
太祇 「太祇句選」
 
万歳や門に居ならぶ鳩雀?
一茶 「七番日記」
 
万歳や黒き手を出し足を出し
正岡子規 「寒山落木」
 
万歳も乗りたる春の渡かな
夏目漱石  「漱石俳句集」

★万歳城址(まんざいじょうし)/城跡巡り備忘録 奈良県
http://www.466-bun.com/f11w/na-f3221mabbzauyama.html
①万歳山城 まんざいやまじょう
②住所:葛城市當麻
③目標地点:當麻山口神社
④形式:山城  ⑤比高:280m 
⑥現況:山林
⑦遺構等:郭・土塁・堀切・竪堀・畝状竪堀
⑧時代/人物:戦国期?/万歳氏?
⑨満足度: 凸凸
⑩最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  30分
⑪撮影・訪問時期:2017年03月

★三河萬歳(みかわまんざい)  https://ja.wikipedia.org/wiki/三河萬歳
愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能である。もとは正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず慶事の際などにも披露される。1995年(平成7年)12月26日に国の重要無形民俗文化財に指定された。
特に、伝承地名により別所万歳(安城市)・森下万歳(西尾市)とも呼ばれる。

★尾張万歳(おわりまんざい)  https://ja.wikipedia.org/wiki/尾張万歳
愛知県知多市に伝わる伝統芸能である。1996年12月20日に国の重要無形民俗文化財に指定された。継承地名より知多万歳とも呼ばれる。
・起源
伝承としては、尾張国春日井郡矢田村(現在の愛知県名古屋市東区矢田町)にある長母寺を開いた無住国師が、鎌倉時代の正応年間(1288年 - 1293年)に寺の雑役をしていた村人に法華経をわかりやすく説き、節を付けて教えたのがその起こりとされ法華経万歳と呼ばれた。
知多半島周辺の大高村(現・名古屋市緑区大高町)や薮村(現・東海市養父町)、寺本村(現・知多市八幡)が長母寺の寺領であったことから、知多地方に万歳が普及したといわれる。
しかし、1594年(文禄3年)に豊臣秀吉が京の声聞師の多数を、荒地開墾のため尾張国春日井郡清洲付近に強制移住させ、その中より万歳を伝えるものがあったとする説もある。

★三河万歳 無形民俗文化財 - 愛知県
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/minzoku/mukeiminzoku/kunisitei/0793.html
分類 国指定
種別 無形民俗文化財
所在地 安城市・西尾市・幸田町
開催日 随時
所有者等 三河万歳連合保存会
指定(登録)年 平成7年(1995)
三河万歳は、家の繁栄と家族の健康を祈る寿詞(よごと)を太夫と才蔵の二人で述べる祝福芸として、江戸の大名家や、後の東京の華族の屋敷を訪れ、上がり込んで芸を披露した。
安城の三河万歳は、明治中期以降、尾張万歳の影響を受けた福釜(ふかま)万歳が主流となる時期があったが、昭和45年に三河万歳の正統を継承する別所出身で茨城県在住の若杉昇平から、神道三河万歳を伝授した。伝承演目としては、三羽鶴の舞、七草の舞、天の岩戸開きの舞からなる神道三河万歳、七福神の舞等を舞う御殿万歳、歌舞伎の名場面を題材とした三曲万歳が伝えられている。
芸態としては、神道三河万歳が太夫と才蔵の2人、御殿万歳が太夫1人に才蔵が6人、また三曲万歳は鼓、三味線、胡弓を加えて演ぜられる。
西尾の三河万歳は、森下村(現西尾市上町の北側)に伝わっている。その起源には諸説あり定かではない。江戸時代には土御門家の支配を受け江戸をはじめ諸国を回勤した。その芸態は、尾張万歳の影響を受けた御殿万歳である。座敷で、太夫と才蔵の2人に太刀持ち1人後見人2人の形態で演じることに特色が見られる。現在は、地元の西野町小学校の児童により継承されている。
幸田の三河万歳は明治の初め、神道教導職として西尾の太夫の才蔵役を勤め、国の安泰五穀豊穣無病息災を祈願して、関東地方を中心に回ったことに始まると伝えられている。昭和52年には幸田町三河万歳保存会が結成された。その演目には、「御門開きの舞」「御殿万歳」「数え歌」「三曲万歳」等がある。

★尾張万歳  https://ja.wikipedia.org/wiki/尾張万歳
尾張万歳(おわりまんざい)とは、愛知県知多市に伝わる伝統芸能である。1996年12月20日に国の重要無形民俗文化財に指定された。継承地名より知多万歳とも呼ばれる。
・門付万歳  https://ja.wikipedia.org/wiki/尾張万歳#門付万歳
もともと万歳は、家々の門や玄関先あたりで舞う「門付け(かどつけ)」が普通であったためこう呼ばれる。しかし、不特定多数の家々を門付けしてまわる万歳師以外に、檀那場(だんなば)といわれる特定のお得意先をまわり、座敷で万歳を披露する万歳師もいた。
いわゆる檀那場万歳・座敷万歳は門付けの万歳に比べ、芸を演じるための座敷(舞台)が確保されている事で、人数を増やすなどすこし大がかりな万歳が演じられた。これは檀那場を確保するために、万歳の内容にも創意工夫がなされるようになったことも一因といえる。このことが御殿万歳や三曲万歳へとつながっていくのである。

★秋田万歳 - 秋田ふるさと検定
https://sotsuken.core-akita.ac.jp/furusato/search/3_festival/39_akitabanzai.html
元禄年間(1688~1704)に移入された江戸万歳、三河万歳がもとになっているともいわれる万歳。 太夫と才蔵が正月に家々を訪問し祝言を述べる祝福芸である。 訪問先の家をたたえ、ひとの長寿を祝福する詞章を、掛け合いで唱えながら舞を舞う。 十二段の祝詞(しゅくし)万歳と秋田音頭などを演じる囃子(はやし)万歳、時の人を面白おかしく風刺したり、 庶民のうんぷん晴らしを代弁する秋田弁の噺(はなし)万歳で構成されている。

★加賀萬歳(加賀万歳から転送)   https://ja.wikipedia.org/wiki/加賀萬歳
加賀萬歳(かがまんざい)とは、石川県金沢市に伝わる伝統芸能である。現在まで50余りの曲が残されている。
前田利家が、越前府中の城主だった頃、城へ年頭に越前萬歳を披露していた領民が、利家が金沢に移った後も金沢で行われるようになり、これに金沢の宝生流能楽者であった大石藤五郎が、能の所作、型を取り入れて完成した物である。
越前萬歳と大きく異なるのは、越前萬歳が、庶民の家の前で舞う門付け萬歳であるのに対して加賀萬歳は、殿様の前で舞う御殿萬歳であり、テンポが遅めである。

★越前萬歳   https://ja.wikipedia.org/wiki/越前萬歳
越前萬歳(えちぜんまんざい)とは、福井県越前市に伝わる伝統芸能である。
1995年12月26日に国の重要無形民俗文化財に指定された。
野大坪萬歳(のおつぼまんざい)とも呼ばれる。

★伊予万歳(読み)イヨマンザイ
デジタル大辞泉の解説
民俗芸能の一。愛媛県中部を中心に行われる祝福芸。太夫・才蔵・次郎松に三味線・太鼓の囃子(はやし)がつき、踊り子が出る。扇を多数使って老松を表す「松づくし」や、「お染久松」「忠臣蔵」などの寸劇も演じる。本来は正月のもの。
・伊予万歳 松づくし
20,226 回視聴 2011/11/28 https://youtu.be/ec7KMatFD5E
toratoshima
チャンネル登録者数 160人
郷土芸術伊予万歳 フィナーレの松づくし

★六代目 三遊亭圓生 掛取万歳
149,892 回視聴 2012/12/04 https://youtu.be/sZF-258a9So
藪井竹庵
チャンネル登録者数 1.45万人
・大晦日の伝統
https://jbmbkyo.blog.fc2.com/blog-entry-5336.html
2019/12/31 12:31
大晦日の伝統 ライブドアで落語ブログを長年やってくださっている菖蒲園さんが「掛取り漫才」の記事を書いてくださいました。
 藪さんの子供時代にも掛売りと云うのがあって、帳面に何月何日にどう云うものを売ったというのを書いておき、節季と云う三ヶ月ごとなどの決算期にまとめて支払うと云うシステムがありました。今のカード決済と同じようなものなのかな?
 晦日(みそか)ってのは月末の事で、それの大きいやつが一年の最後の日って事で大晦日なんでしょう。昔は「大つごもり」とも云ったそうです。都合が漏るから大つごもりってやるのが志ん生流のくすぐり。
 今年も藪さんはめでたく、たいした障害もなく大晦日となりにけり。簸川神社、白山神社、こんにゃくゑんま、牛天神、湯島天神、根津神社、靖國神社、神田明神等々に取材に行ったおかげでしょう(^ω^)
 で、最近は落語ブームだそうです(^ω^)
 
・掛取万歳 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/掛取万歳
掛取万歳(かけとりまんざい)は落語の演目の一つ。上方落語では天下一浮かれの掛け取り(てんかいちうかれのかけとり)。現在は東西とも、省略形の掛け取り(かけとり)という題で演じられることが多い。
主人公のもとに4人の人物が登場する構成のうち、ひとり目が登場する場面だけ演じるものを狂歌家主(きょうかいえぬし、きょうかやぬし)、ふたり目の人物までを借金取り撃退法(しゃっきんとりげきたいほう)の題で演じることがある。
 
万歳の漫才の落ちにしてしまいそう。
萬歳の万才よりもマンザイに行かなくて安心した。




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