人村です!

舞台と結婚したと公言する「人村朱美」が綴る舞台生活 毎週火曜日更新・・・したいなぁ

立ち止まる

2015年03月25日 | 友人たち
 微妙な天候で、ストーヴを炊いたり消したり。湯たんぽを入れたり、出したり・・・。
 そんな中、東京から関西へ打ち合わせの旅に出ていた不思議人:時広氏が、わざわざ
来敦。私との秋の仕事の打ち合わせも兼ねて、夜遅くにあれこれ話をした。

 自分を信じたり好きでいられるのは幸いだ。今の私はそこがグラグラになっている。
ただ舞台に関することだけは自信もって決定できるのが救いだ。

 時さんは「表現者はステージで輝くのが本分。普段、清濁を併せ持っているからこそ
深いものが創れるはず」と励ましてくださった。

 駅前のホテルにチェックインする彼を見送りながら、誰もが自分の育ってきた環境が
もたらす狭い価値観で生きているんだなと、スッと腑に落ちた。それに気づいている事
が大事なんだと。

 素敵な友人たちを得ている幸せ。彼らは昔から彼らの言葉で語りかけてくれていたのに
私は聴く耳を持っていなかったのだ。今はそれがすんなり心に染みとおる。

 いくつになっても学ぼうとする心は失いたくない、と切実に思うこの頃である。
  
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山笑う

2013年11月19日 | 友人たち
 疲れているのに体調は悪くないようだ。湯たんぽもほとんど使って
いないし、朝晩の寒さもあまり感じない。まあ、まだ寒さが本格的では
ないからだろうが。
 指の痺れもかなり薄れてきたし、膝の水もあと少しで抜けそうだ。

 年齢は仮借なく等しく誰にも被さってくる。でも気持ちが元気なのは、
好い。

 久しぶりに若狭高浜まで小浜線に乗り、車窓の山や海に見惚れた。
往復とも上天気。ふと俳句の季語「山の四季」を思い出した。

 あれは何十年前だ?コシヒカリで有名な魚沼で初めて舞台の稽古
合宿をした時だったと思う。私たちはたった6人で小劇団を運営して
いた。リーダーは脚本家で、今やメジャーとなったH氏。彼のお母様の
ご実家が、魚沼の見事な茅葺き屋根の旧家だったので、H氏は住む
人のいなくなったその家で時折執筆したり、奥様と休暇を楽しんだり
していたようである。

 やがてその縁で長岡公演が決まり、合宿をその茅葺き屋根の家で
したのだが、その折、ご近所のおじさんが突然庭先にやってきて、
紅葉の山を背景にして言ったのだ。
 「山が装う、という季語があります、秋の山です。冬は山眠る。夏は
山滴る。春は、山笑うです!」と。

 山笑う・・なんと素敵な日本語!と、その時皆で感動したのを覚えている。

 秋は「山装う(粧う)」だが、先日小浜線の窓から見た山々は、笑って
いる様だった。突然甦った思い出が、色彩豊かに青春していたからかも
知れない。

 八海山神社の神主さんがリーダーの従兄だったので、御神酒の八海山の
二合瓶をお土産に頂いたこともあったっけ。

 その後ほろ苦い思い出と共に消滅した劇団は、リーダーだった彼の手に
よって、新たな劇団として復活している。

 ヴィジョンを持たない人間に世界は築けない。今ようやくH氏との距離が
埋まったと思っている。私独自の世界が花開こうとしている。
 あ~、でももう20年早かったらなあ・・・いや、やっぱり今でしょ!

                                       
冠雪したアルプスの山々/その麓を散歩中の牛、ならぬ愛ちゃん/カメラに動じない愛ちゃん / オチャメな?愛ちゃん
    寒そ~                チト肥り過ぎ~             舐めたろか~            飯まだ?       
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寒さの中の満開

2013年04月01日 | 友人たち
 汚れたように重く垂れ込める霞の中から富士山が姿を現した。紗幕越しに
見るようななにか不気味な姿だった。「これが私が見る最後の富士山になるかも」
などと不安を煽る想像が頭をよぎった。
 久しぶりに観劇メインの上京で興奮気味だったのかも知れないが、それ程
災害に対する危機感が現実のものになりつつあるのは事実だ。

 帝都は桜が満開。私用で東京タワーに向かう途中の増上寺で、見事な桜吹雪を
何回も見た。居並ぶお地蔵さんの持つ風車が、桜と共に一斉に回る回る・・・。

増上寺のお地蔵さんたち

 昼間は人ごみに揉まれて汗だく状態だったが、夜の帝都は凍える寒さ。前回の
仕事で知り合った若い劇団の芝居を観終わった後、あまりの好さに酔いしれて
劇場を出た途端寒さに震えあがり、思わず入った御茶ノ水駅前の日高屋で、
九死に一生を得た。

 実はその前に飛び込んだ二軒で「日本酒?置いてません」と言われ唖然茫然。
何考えとるんじゃぁ!と、怒りと寒さで震えが倍増。
 それでも、熱燗一合+キムチ一皿+餃子一皿+焼き鳥小丼=870円に大満足で
ホテルにご帰還。食材も相応なもんだろうなぁと観念。

 あくる日のメインは山本寛斎ショー。友人の亜希子さんが貫録のモデルウォーク
で魅せてくれた。何より和舞踊と太極拳が想定外の素晴らしさで満足。

終演後 亜希子さんと楽屋前で

 その後大学の同窓会で憧れのアスリートOB、OGと再会。私は選手としては
泣かず飛ばずだったが、この人たちと出会うために走っていたのだと実感。
 雪が降り出しそうな寒空もなんのそのでホテルのベッドに倒れこんだ。

 遊びと勉強と宣伝を兼ねた週末小旅行は、浅草花やしき、東京ステーション
ギャラリーを経て、最後の最後まで刺激的に幕を閉じた。

花やしきで乗った遊覧船は 何故か私たちだけ泥船だった!

東京ステーションギャラリーの回廊


 帰宅して雨戸を開けアッ・・・!我が家の桜が満々開になっていた。

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美味い酒

2013年01月15日 | 友人たち
 三年にわたって癌と闘病してきた3歳ほど年上の東京の友人が退院。
生まれた地でお姉さんと暮らし始めた。

 余命宣告を受けたわけだから不謹慎かもしれないが、少しホッとした。
メールや、漢方薬や小包を送ったりして、独身の彼女を何とか励まそう
としてきたが、病のせいか暗い返事が目立った。一人暮らしでどんなに
心細く辛い思いをしているかと身につまされ、背筋が凍る日もあった。

 SOSには応えてあげたい。
 でも当時者でなければ絶対わからない苦しみ。
 

 姉という同性の肉親が居ると知って心底安堵したし、何とか安らかな
日々の中で少しでも回復して欲しいと願っている。
 そしてまだ、私は奇跡を信じている。

 全身転移から回復した奇跡の人はたくさん居る。現に伊勢の友人も
そうだ。数年前の発病から転移。それを乗り越えて昨年夏には私に鰻を
おごってくれ、自身も美味しそうに食べるまでに回復した。

 彼は一つ一つ目標の日時を刻んで明るく生きている。
 「この舞台に出る!」「娘の結婚式に出る!」「初孫を抱く!」「今度の
舞台にも出る!」
 そしてその全てを果たし、見事に生還。去年12月には、その舞台で佳い
芝居を見せてくれた。癌の影はほとんど消えたそうだ。

 そういえば、彼には遠慮して駄目出しした覚えがない。いつも冗談を
言って笑わせ、臭い芝居で私に叱られながら、本当に楽しそうに「また
美味い酒飲みましょいな。そのために芝居しとるんやに」と人懐こい
顔で笑う。そして打ち上げで、本当に美味い酒を酌み交わすことが出来た。

 明るさは強さだと知った。好きな舞台に出逢えたこと、舞台が大好きな
人達と一緒に生きている事に、心底感謝している。

 世の中がそんな人で溢れていたらなぁ・・・。
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四国琴平フォトアルバム

2012年11月19日 | 友人たち
 なかなか便利になったとはいえ写真のアップは苦手だ。上のうどんの写真が
どうしても消せない!各写真に短いコメントを付けたかったが、それも断念。う~ん・・・。

 アップして二日後、友人から「重い写真を処理せず入れたでしょ。他のブログの
写真が全部とんでるよ!」

 えっ!?意味がわからない。

 で、わかった。未処理ではあったがそれが原因ではなく、これまで載せた写真を
全部消去してしまっていたのだ。あ~無知は罪!。
 セッセともう一度取り込んで、NYと新潟だけは復活させる事ができた。本当に
向いてない世界なんだわ、パソコンて・・・。


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金毘羅参り

2012年11月08日 | 友人たち
 名古屋での兄弟会はとっても楽しい一夜となり、人生はこれから!の意を
強くした。次回は札幌の次兄宅に集合を約して散会。
 長兄夫婦の車で次兄と4人で明くる夕方帰敦。我が家で鍋でもと思っていたが
結局カツ丼で夕食。皆で久し振りに奥田のういろう餅や天清の竹皮羊羹に舌鼓を
打ち、長兄夫婦はあくる日平塚へ帰り、次兄は四日後の昼にもカツ丼を食べて
奈良へと移動していった。

 彼らが帰って急にガランとした淋しさがあったのもつかの間、5日には待望の
四国香川県の琴平町へ。金丸座の『坂東玉三郎特別公演 鼓童出演』が目的だ。

 朝早くにM嬢がお迎えに来てくれて、福井の友人二人と高速で合流。チャリ
しか運転できない私はいつもラッキー。M嬢のお姉さんが美味しいおにぎりを
用意してくださり、一台に乗り込んだ私たちは姦(かしま)しく、ピザパンや
珈琲、紅茶で朝食。私はひたすら、食べる人。甲斐甲斐しい友に勝るものなし。

 運転のKちゃんの真っ赤なアウディも快調。助手席のTちゃんはKちゃんの
食事の介助役。二人は同業で自立しているキャリアウーマン。頼もしい年下の
友人たちに勝るものなし。

 初めての瀬戸大橋は15Mの強風。福井のTちゃんはカメラが得意で、性能
の良い携帯でアングルも良くバンバン取り捲る。時折Kちゃんが「ほら、シャ
ッターチャンス!」と声をかける。Tちゃんは後日CDに写真をまとめて送って
くれるという。マメな友に勝るものなし。

 午後二時、福井の二人が選びに選んだ格安良質の素晴らしい宿に到着。早速
オシャレ服?に着替え、宿の裏の山道を7分ほど行くと、憧れの金丸座だ。

 国の重要文化財として1970年に再建された旧金毘羅大芝居“金丸座”は、天保
六年建設の日本最古の本格的芝居小屋。江戸時代の情緒をそのまま味わえる
貴重な遺産の中は、期待に膨らんだ観客で満員だった。

 一部は玉様の地唄舞二題。間近に観る玉様は同じ人間とは思えぬ美しさだ。
特に指のしなやかさが美しい。男性的な脚使いが時折見えるところが、逆に
女形の自信に溢れているようで、不思議に説得力がある。

 二部はいよいよ鼓童。初めて見る若手が何人もいて驚いた。主力の殆どが外国
公演に出ているという。しかし私たちは、思いがけず創立メンバーの勇姿を観る
事が出来て大満足。先日新潟で共演した小島さんが出ていないのは淋しかったが、
満員の小屋を唸らせる演技に酔った。不思議人Mr.時広の衣裳も素晴らしい。

 が、正直、玉様と鼓童の共演部分は違和感があった。優れたもの同士が、これ
からどんな風に融和してゆくのか、楽しみだ。

 明くる日は金毘羅宮参り。奥の院まで約1300段の階段を踏破したのは我ながら
快挙!最近始めた足指運動のお陰で、膝は今も快調だ。

 さすがに本院から奥の院までの約600段はきつかったが、全員で達成感を味わい、
おみくじの中に入っていた金毘羅宮の象徴、金の狛犬に感激。それぞれ、大中末吉
を引き当てて意気揚々と下山した。ちなみに私は、すべて良好、未来に末広がりの
末吉。ありがとうございましたぁ!

 風呂良し、膳良し、接客良し、施設も眺めも総て良し!そしてもちろん、讃岐うどん
も最高!帰りの車中も7時間おしゃべりし通しで、大満足の一泊二日金毘羅参りの
小旅行は終わった。

 帰ってみると、二年ぶりのイヤホンガイドの資料が、リニューアルした東京芸術
劇場からドッサリ届いていた。

 しばしの休息に心身共にリフレッシュして仕事再開。
 安眠、快食で気力も高まっている。必要とされる喜びを胸に、今日からまた新たに
顔晴れそうだ。
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再会の場所は

2012年06月19日 | 友人たち
 いつものごとくバタついて一週飛んでしまった、情けない。

 再稼動が西川知事から発表された翌日の17日(日)に一人県庁前
中央公園へ。6月3日にあった反原発集会が再びあると友人が知らせて
くれたのだ。

 電車の中で、舞台でも大変お世話になったオオタさんに出会い「今年も
どくだみの化粧水を作ったからね」と言って頂き感激。覚えて下さっていた
のだ。とても嬉しかった。

 もちろん生え抜きの反原発者の彼女も集会に向かっていたのだ。聞けば
先日の「ニソの杜」集会にもいらしていたという。80歳になった彼女は目が
良く見えず白い杖をお持ちだ。福井駅に着いてからは会場の公園まで小雨
の中、傘無しでゆっくり一緒にお堀端を歩いた。

 1000人集会のはずの会場は、東京から6台、京都から2台のバス、と
いう風に、県外からの人が大勢集まっていた。全部で約2200人。県内
の人はその内何人いただろうか・・・。
 1分間スピーチが始まり、みなさん少しずつオーバーして熱弁を振るう。
飽きないで聴いていると、ふと前を横切った男性に目が吸い寄せられた。

 「??どこかで・・・?」「あれ?お前・・・何でここに?」
 「ピンちゃん?!」「おう、人村!!」

 それは20数年ぶりの再会。芝居を始めた頃からお世話になった東京の
照明家ピンちゃんことY氏ではないか。照明家の中でも異彩を放つ、というか、
腕良し人好し、が、たたき上げ的変わり者、といった印象の、ちょっと伝説的
で近寄りがたい、有名な先輩スタッフだったのだ。

 何という奇遇!この集会を教えてくれた友人にも会えない大混雑の中、
二度も、ふと前を横切るピンちゃんに遭遇したのだ。

 あまりの驚きにガクガクしてしまった。手短に近況を話し合い、高浜で
テントを張って再稼動を阻止しようとしている気になる髭の叔父さんにも
紹介してもらい(なんでピンちゃんが?)カンパを渡せた。
 この人は「ニソの杜」集会の帰りにカンパを呼びかけていた方で、以来
ズッと気になっていたのだ。

 ネットやテレビで時折見かける京大の教授とも話が出来、疑問点を解明
出来たし(彼も二度も私のまん前に立ち止まったのだ!)。
 実は会場にオオタさんと着いた途端に、母の最初の介護マネージャーだった
Nさんにも遭遇しているし、来月の金沢での仕事の主催者にも遭遇。
 なんとまあ・・・。

 繋がっていることの不思議さと、変えねばならない現実への怒りと・・・。
 曼荼羅のような世界の片隅で、二つの「なんで!?」が、交錯した。
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琵琶湖一望から夜桜まで

2012年04月10日 | 友人たち
 日曜日に親しい友人と三人で遠出をし、充実した一日を過ごした。
 
 風邪は帰敦してかなり良くなったので張り切って出かけた。一番の目的は
びわ湖ホールのピーター・ブルック最新作『魔笛』。その前に食事して三井寺
を桜見物も兼ねて拝観しよう、というアバウトな計画だった。
 
 食事に寄ったホテルはどのレストランも満席。40分以上待たねばならない。
そこで、ホテルの駐車場横で開かれていた住宅フェアをひやかしに出た。

 豪華な家々を、あれこれ夢を描きケチもつけながら拝見。優雅なスペースは
素晴らしいが、掃除の事や足腰をコントロール出来なくなるかも知れない将来
の事を思うと、やっぱり「宝くじ頼みだねぇ」が結論。建てることも不可能だが、
介助人を雇わなければ、とても広大な家で快適には過ごせまい。

 ホテルに戻ってスカイラウンジで和食。36階の窓際の席から見る琵琶湖は、
真上から見るようで清々する広さだった。そして一片の雲もない快晴の空。

 時間が迫ったのでお寺は後回しにして、びわ湖ホールへ移動。
 800席の中ホールはほぼ満席。わが町の文芸協会では人件費が殆どなく、
広報にお金もかけられない。そんな中で一本でも多くの企画を限られた事業費
の中から立て、考え付く限りの無料の宣伝に走り回り、集客もせねばならない。
それでも観客は思うようには増えず、事務局の苦労は大変なものである。
 しかしびわ湖ホールも含めて、何処の劇場も昨今の経営状況は苦しいはず。
みな踏ん張っているのだ。

 内容はオペラの「魔笛」を簡略にしたもの?だったが、シュール(象徴的)な
装置と演出に反して、オペラ歌手の演技や動きがナマに感じられ違和感が残った。
 
 勝手な感想を言いながら園城寺(おんじょうじ 通称・三井寺)へ移動。
 18時半からライトアップされる桜見物を期待したが、まだまだ一分咲きにも
なっていなかった。それでも本堂をゆっくり拝観し、観月堂で行われたステナ
踊りのような輪踊りを楽しんだ。様々なグループがそれぞれ個性的な振付で、
寒い中ノリノリで躍っている。若い人たちが参加しているのが不思議な感じ
だったが、好ましい風景ではあった。

 夕飯にと思っていた大津の中華蕎麦屋さんがお休みで、その近くの天孫神社
で露天の食べ物を色々つまみながら、見事な夜桜を楽しんだ。七分咲きほどの
ぽってりした桜はどれも若く背が低いので、間近に見られてこよなく美しい。
聞けば、この日一気にここまで開花してしまったという。昨日までとは違う陽気
に敏感に反応したのか。若さのパワーである。

 そのライトアップされた桜の天蓋の下で音楽ライヴが開催されていたのだが、
メインゲストの演奏にたまげた。もの凄く好いのである!

 いったいどういうグループ?と近づいてみてまたビックリ。タブラを叩いて
いるのは、二年前に敦賀市文芸協会で呼んだ「スパニッシュ・コネクション」の
パーカッショナー・吉見さんではないか!

 こりゃ好いわけじゃ、とばかり最前列に陣取ってアンコール曲まで全6曲を、
狭い境内いっぱいの200人以上の観客(おばあちゃんたちや親子連れが多かった)
と大いに楽しんだ。バイオリン/ギター/ウッドベース/パーカッション。どれも
超一流の編成で、久しぶりに音楽に酔った。最後に吉見さんにご挨拶も出来て、
最高の締めくくりとなった次第。

 劇場文化に無理解な人も含めて、人は知らず知らずのうちに音楽や絵、笑い
などの文化芸能に日々癒され、ガス抜きして何とか生きている。そしてライヴの
魅力を知った人は、人種や能力、価値観の相違に対して寛容で強い人になる。

 文化芸能は他人を思いやる心を育てるのだ。時が来たら、私はそういう人に
介護してもらいたいと思う。(出来ればポックリ逝きたいものだが・・・)

 濃い~一日の終わりを、赤い大きな月が見送っていた。
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嵐の東京にて

2012年04月07日 | 友人たち
 東京で仕事の打ち合わせを兼ねて友人達と逢った。風邪を引きずった
ままの出発だったのでブログには手が出なかった。

 嵐の日に風邪を完璧にぶり返し、5日間の東京暮らし中、二日間は
友人宅でダウンしていた。それでも何とか予定していた会合には全て
出席。最後まで楽しい再会を堪能出来たのは奇跡的だった。一人だけ
嵐にはばまれて会えなかった友人がいたのは残念だったが、相変わら
ず、皆好い意味で自己中心的に物事を消化し、逞しく生きていた。

 泊めてもらっていた友人はアメリカ・ツアーから最終日前日に帰国。
私は風邪、彼女は時差ぼけからあくる日まで一緒に爆睡し、最終日は
終日語り合って別れを惜しんだ。

 ツアーの話も刺激的だったが、彼女11日にはまた別のアメリカ公演
に発つのだから驚き。その間に伊勢での仕事もあるという。
 風邪でブログが書けないなんて甘い甘い。

 てなわけで、頭痛と発熱も何のその。そこそこ飲んで食べて語って
刺激いっぱいの東京から帰敦して、あくる日には相変わらず熱ぼったい
まま京都へ。一泊して先輩のライヴを観、自分の祇園ライヴ会場を下見
して来た。これも皆にエンジン点火されたお陰か。

 座していては発展なしと教わった怠慢人村、動くべし!
 事務局の仕事もまだまだ引継ぎは続きそうだが、生活のリズムを切り
替えて本来の仕事へとシフトチェンジしてゆこう。
 
 しかし風邪は依然として体内に居座っている模様。どこか不安が
付きまとうお年頃?

 いや、心身ともに鍛え方が足りないのである。
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旧友来敦

2011年09月06日 | 友人たち
 時々訳わからんことを書いてるなあ、と先週の我がブログを読んで思う。
眠れないので深酒をしたんだっけ?逆に飲まれているんじゃないの?

 久しぶりに大きな台風が停滞して猛威を振るった。文明への警告に思えて
ならないのは私だけではあるまい。

 その台風の中、大学時代からの親友が遥々信州周りで埼玉から来敦。
 彼女には学生時代多くの事を教えてもらった。大学で、ようやく自分と向き
合うということに目覚めたのも、彼女という、自分とは全く異次元の18歳と
出会えたからだ。

 以来30年間、私は巨大都市東京の片隅で生きながら、ひたすら自分探しを
していたのかも知れない。
 そして、さしたる進化もなく、死を意識する歳になった。

 彼女も韓流にハマッテいて、老後の計画や韓国俳優の話は尽きない。
 昔から私に気を使わせない人で、「じゃ私はチョット買い物に」とか、「町を
散策してくる」とか言って日中1~2時間いなくなる。私はその間にいつもより
集中して仕事が捗(はかど)る。といった具合で、相性がいいというか、彼女の
人生の達人ぶりに、心地よく充実した二日間を過ごした。

 老後は我が家で一緒にと思っていたが、信州のアルプスの見える場所へ戻る
のが夢らしく、「それが叶ったら、おいで」と誘ってもらった。
 私にはもう一人、敦賀での同居を誘っている友が東京に居るので、まあ結局
は行ったり来たり、互いに別荘のように交流することになるのかも知れない。

 停滞した台風に祭りは大打撃を受け、明けて火曜日はアッパレな秋空。が、
明日からは暑さがぶり返すそうだ、ヤレヤレ・・・。

 「午睡(ごすい)の後の穏やかな時間、たまたま一日の静を得て、正に
百年の忙を知る」というのは、夏目漱石の言葉だったか・・・。

 目覚めた瞬間だけでも一時(いっとき)の静寂を味わえる昼寝の習慣を、
ずいぶん長いことしていない。



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大都市東京

2011年08月18日 | 友人たち
 お盆の間敦賀を離れ、会いたかった恩師や友人、親戚たちと再会する為上京。
芝居も1本観るという、てんこ盛りのスケジュールだった。
 
 30年ぶりの劇団同窓会が主目的の旅だったが、初日から間接的に舞台上に見た
友人や偶然に出会った先輩を加えると、結構な人数の知人たちと再会したことになる。

 初日の夜は、不思議人Mr.時広氏宅での気楽なホームパーティー。仕事でお疲れ
にも関わらず、時さんはいつも手料理でもてなして下さる。大好きなスーパーモデル・
アッコさんも料理の腕は抜群。私は食べる人、果報者である。
アッコさん。
 時さんのホームパーティでは、酔いつぶれる寸前に素ッピン状態で、時さんの
衣裳を着せていただき写真を撮るのが慣例!? もちろん私のもあるのだが、
とても表には出せない(泣)。と言いつつ気張り過ぎのを一枚(笑)
 アァ、この違い・・・。
 
 充実した日々だった。それぞれの人たちと、芝居の休憩時間や駅までの道程や
電車の中でも、寸暇を惜しんで語り合った。
 上京の際の定宿にさせていただいている地歌舞のお家元:侑峯氏宅でも、連日
深夜まで語り合い、お稽古までつけてもらった。

 大都市東京は相変わらず増殖しているかのように密集している。定宿の横浜から
東京へ出るたびに、福井でなら楽しい息抜きの車中時間が、何だか悪い意味で無駄
に感じられる。移動時間以外の何ものでもない。地下が多いせいかも知れないが、
人の多さが圧迫感を与えて早く降りたい気持ちを誘い、ゆとりを失うのか。とにかく
「がまん」する時間だ。

 劇団仲間との再会は一気に30年前に記憶を戻し(といっても、かなり曖昧だが)
それぞれの人生に流れた時間の残酷さと、それを乗り越えて生きてきた滋味を感じ
させた。みな豊かに年を重ねた。貧しさは昔と変わらないが、生き生きと今を生き
ている。芝居に直接関わっている人はもう少なくなったが、話題は舞台の事に集中。
明治座のシニアクラス養成所に入学した人も居た。みな本当に芝居好きだ。
 忘年会での再会を約して終電に向け散会。夜の新宿は人でごった返していた。

 楽しかったが、フル回転の4日間に疲労困憊。

 帰敦途中の米原駅で、東京から敦賀に帰省する女優(敦賀の親友M嬢の姪御さん)
に遭遇!今回の旅にはこの手の遭遇が多い。花火を見にとんぼ返りの帰省だとか。
結構マスコミにも顔が出ている彼女と車中で語り合いながら、「自分のために生きる
こと」イコール「他人のために生きること」と、ふと思った。

 帰宅して、溜まった韓国ドラマを二本観たらダウン。翌日昼前まで爆睡した。

 敦賀での時間はゆったり感じられる。大都市での「移動」に費やす時間と金は、
人をとことん疲れさせるようだ。車中の殺伐としたあの空気は、その疲労感が作る
ものかも知れない。


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神様は蜂の中に

2011年08月09日 | 友人たち
 7月末に長兄が、同窓会で岐阜まで来たついでに墓参りに来敦。墓に
花を供えたので、その後毎日水の入れ替えに寺に通っている。酷い時は
花入れの水は大方無くなっていたりする。
 8月は平年並み以下の暑さというのは、聞き間違いだったか?

 兄が居たのは二日ほどだったが、誰かがひとつ屋根の下に居るという
のは張りがあってよいものだ。兄が帰った翌朝などは、楽なようでいて
ポッカリ淋しい。これで仕事をしていなかったらさぞかしボケが早まる
事だろう。

 昭ちゃんは幼馴染みだ。その昭ちゃんのお母さんが一昨日亡くなった。
 いつも、昭ちゃんが老いたお母さんを心配して帰敦する度に私は会って
いたし、先月はお母さんのお見舞いにも行ったりしていたのだが、こんなに
早く逝かれるとは・・・。お見舞いから数日後、会う約束をした日、私は
急に入った仕事の稽古を理由に断った。それ以後お母さんが亡くなるまで
昭ちゃんは連絡してこなかった。
 彼女なりの赤信号だったと思う。友達甲斐のない自分が情けない。

 私は人付き合いに欠陥がある、と時折落ち込む。長く独りで居過ぎたか?

 最後まで意識のしっかりした清く穏やかな亡くなり方だったとか。明るく
ユーモアたっぷりなお母さんらしい最後だ。葬儀も湿っぽくなくて好かった。
葬儀会場には昭ちゃんの子供たちが小さな子供たちを連れて、関東や北海道
から来ていた。たくさんの子孫を遺しての大往生。
 

 「蜂は花の中に、花は庭の中に、・・・・・
          そうして、そうして、神様は、小ちゃな蜂の中に」
という金子みすゞの有名な詩がある。肉親も友という他人も、生も死も、
すべては一つに繋がっているのか。

 舞台の中に居る自分だけは信じられる。そして其処だけが、私と人を繋ぐ
世界だ。
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シニア修学旅行

2011年03月22日 | 友人たち
 連休を利用して京都へ。大学のOB・OGで作る 保谷会のメンバー約150名の
うち18名が集まった。

 もちろん開催か否かの議論はあったが、一般被災者の「皆さん自粛などせず
笑顔で過ごして下さい。私達もいつか笑える日を目指します」という声に励まされ、
こういう時だからこそ皆で語り会おうということになったのだ。

 保谷会の中にも今回の被災者はいるが、ほぼ連絡はついている。この10日間、
保谷会連絡網の転送によって、私もその辺りの情報を逐一知る事が出来た。
 ネット通信の威力である。

 一方、表に出せない個人情報も交っていて慌てて転送を止めて頂く一幕もあった。
 ネット通信の怖さである。

 さて、京都は絹雨。当日は夕方宿に入り、お風呂に浸かってから宴会場に。
何をするにも後ろめたさと無力感が隣り合わせだ。
 亡くなった方々に黙祷を捧げてから、久しぶりの交流となった。

 今も毎日何十キロも走り込んでマラソン57才の部で全国年間十位の人。100
キロ・マラソンなるものに出場し続けている人。盲学校で日々コミュニケーションに
苦慮しつつ長きにわたって教師をしている人。“コーチ”という資格を持ち、様々な
分野の指導者に伴送している人。絵画に生き甲斐を見つけ本格的に精進している人、
などなど。

 多くの皆さんが退職を契機に、緩やかに人生を転換なさってきた豊かな人々だ。
翻って私には幸か不幸か退職はない。心身ともに保障は何もない危うさと、望む
限り、体が良しとする限り、果てしなく舞台の夢を紡いでゆける幸せを思う。

 母校筑波大体育学部の被害もかなりのものなので、保谷会としての義援金を提案
する事を決めて閉会。

 あくる日は、帰宅なさる方々を見送って数人で高台寺特別展へ。2時間かけて、
普段は見られない内部まで入り、素晴らしい調度品やお庭などの歴史遺産を堪能した。

 ここに秀吉の妻ねねの遺体が土葬されているとは知らなかった。片膝を立てた
ねねの彫像も印象的だった。もうしばらくすれば、お庭の枝垂れ桜も満開になる・・。

 皆で枯山水の庭を眺めながら、ここ10日余りの出来事と、過去に繰り返された
戦乱と破壊の歴史が交錯した。
 日本は今回の大震災で大きく政策転換するべきだ。いや、せねばならないと思った。

 誰もが今、何よりもずっしりと命の重さを感じている、と思いたい。


*コーチング
 コーチの原意は馬車。コーチングとは、大切な人を望む場所まで送り届ける事。
 つまり相手の心理を把握して、課題からの脱却や成長のきっかけを与えるのがコーチの仕事。
 教育、商業、芸能、病院関係など活動範囲は多岐にわたる。要資格。
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注連飾りに祈る

2010年12月22日 | 友人たち
 伊勢に注連飾りを買いに、いや5月の芝居の大道具打ち合わせに行った。
で、注連飾りを買って帰るつもりがプレゼントしていただいだ。

 伊勢では注連飾りを一年中玄関外に飾り続け、年末に新しいものと取り
替える。「笑門」というのが多い気がするが、今回頂いたのは「蘇民将来
子孫家門(ここまで意味不明) 七難即滅 七福即生」と幸運てんこ盛りの
上物、ハッハ。

 伊勢の注連飾りの特徴はいくつもあるが、パッと見て、上方の一文字に
締めた部分の、元結いと尻尾が他の地域と左右反対である事が目立つ。
 伊勢のは元結が左にある。なんでもお伊勢さんに遠慮して他所は反対に
したのだそうだ。よし!一年間飾り続けるぞ。

 打ち合わせが終って奈良に移動。40年来の友人たちと10数年ぶりの
再会を果たした!前回は夕飯を共にした程度だったが、今回は一泊して
じっくり語ろうということに。

 なんとN氏はあのティファニーのデザイナーだった人。といってもジュエリー
ではなくトロフィーとかが専門だったらしい。しかしとにかく天下のティファニー
なのだ。彼が30数年ぶりで大阪に永住帰国したというので、では是非会い
ましょうと、近年奈良に転居したAさんご夫婦の家に集合したのだ。

 出会いから数えると40年分の人生だから、語り尽きる事がない。質問
したりされたり、20代の頃みなで映画を創った話や、既に亡くなった知人
の話、関東圏の友人の事、今の仕事や生活の事、別世界の人になり、毎日
デイサービスに嬉々として通っていらっしゃるAさんのお母さんの事・・・。

 あくる日の午後3時過ぎに、最寄の近鉄線駅で別れた。
 過ぎた青春時代があまりに遠くて、現実に再会している事が信じられない
感じ。互いの過去の人生は、興味深かったり、それはもうどうでもいいんだ、
と思えたり。「今」に追いつかないもどかしさを残しての別れだった。

 映画館という特殊な場所で出会った私たちの繫がりは、今も不思議な糸で
繋がっているようだ。
 まるで映画の1シーンのような青春だったし、この再会もやはり、映画の
1シーンみたいに思える。

 幸運てんこ盛りの(はずの)新年に、この新たな縁も花開きますように。

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<追悼>

2010年07月28日 | 友人たち
 祇園いし田の大将が24日(土)午前3時24分、亡くなった。

 この人の一言から生まれた「祇園ライヴ」だった。
 2006年2月から年二回のペースで続き、4年目の昨年は文芸協会一年目で
新作を創る余裕が無く、秋の一回だけだった。

 この時、大将はライヴ二週間前に食道癌の手術を終えたばかり。突然の事で、
中止を考えているところへ大将から電話を頂いた。

   「お~い、そろそろ客の数おしえてくれ」

 病室からだった。自分より店の事を考えていた事と、全く変わらぬ元気な声に
驚いた。彼は入院の事を常連にも秘していた。何処から漏れたか気にしていた
位だ。ライヴ前日にお見舞いした時もお元気そのもので、私達も大将自身も
完治生還を疑っていなかったと思う。

 年末に、京都の友人から「具合悪いみたい」という電話をいただき、不安が
広がった。私とは3つ位しか違わない若さが災いするかも知れない。
 店には結局ほとんど戻らず、十ヶ月の戦いの末、逝った。
 
 6月末ごろお見舞いに行った。面会時間が終る30分前にすべり込み、時間を
越えてベッドの傍で見守った。サッカーの話題にニッコリと笑い、たまたま点けた
テレビで阪神が大勝利していることにまたニッコリと笑ってくれた。

 痩せた体をスローモーションのように動かし、私の手を頼らず自分で歩き、
個室のお手洗いから出た時すぐにベッドに入らずに、実に丁寧に手を洗った。
小学校の時から料理屋に入り、料理の世界だけに生きた人の本能の行為の
ように思えて印象に残った。人格の昇華した姿に感動し、美しいとさえ思った。

 怖そうにも思えたが、ひたすら純粋な人だったのだ。世に出ない芸人を応援する
のが好きで、私のような海のものとも山のものとも判らない役者を芸人と認め応援
してくれた。淡々と一度も変わらず、「どうや、今度はいつにする?」とお尻を叩い
てくれた。

 馴染んだ小僧さんたちは昔から全員沖縄出身者だ。お通夜の席ではどの顔も、
緊張していたのかも知れないが、私には新たな出発に向け溌剌として見えた。
東京へ行く者あり、京都で新しい店に入る者あり、一時料理から離れて自分を
見つめ直す者あり・・。

 焼香した時、大将の笑顔の写真が「どや、一人でやれるか?」と皆を心配して
いるように思えた。もちろん私の事も。

 私たちはそれぞれの日常へ戻った。

 へこんだ時、怠けたい時、大将の、

    「どや、やってるか?」

の声が、あちらの方角から聞こえてくるといいのにと思う。

 長く祇園ライヴを愛し、大将の料理を愛して下さった方々に、感謝いたします。
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