アジャ達を見送ってガトウィックから自分のフラットに戻って来たのは8時前だった。
僕をフラットの前で降ろすと,何の余韻も残さず青いフィアットティーポは静かに走り去った。丁字路の先のビーチでは真っ青な空と交わる白波が何本も立っている。歩道に行き交う人たちのシルエット。連休明けのブライトンは忙しなく動き始めていた。
僕が借りているフラットの隣でB&Bを経営するハミルトンという老人がいつもの様にエントランスで友人と歓談している。僕に気づくと,待ち受けていたかの様に元気よく声をかける。
「よぉ,若造。久しぶりだな!」
「元気だね」
「ああ,チャンピオンの気分さ!」
そのまま地下へ続く狭い階段を下りてフロントドアを開けると,丁度でかけようとしていた隣人が楽しそうに話しかけてくる。
「あら,しばらく」
「どうも」
ようやくかび臭い部屋にたどり着いて懐かしい空気にホッとする。少しだけベッドに腰かけたが,僕はそのまま眠る気にもなれずフワフワした感覚のまますぐに出かけることにした。
学校も何の変哲もなく普段通りの騒がしい朝を迎えていた。
僕は空港でイーゴからサンドリンへの手紙を預かっていた。彼はサンドリンに急な帰国のことを伝えてはいなかった。
僕は空港でイーゴからサンドリンへの手紙を預かっていた。彼はサンドリンに急な帰国のことを伝えてはいなかった。
エントランスでしばらく待っていたのだが始業の時間になってもサンドリンは現れなかった。
僕は仕方なく2階の教室へ向かった。
イレイナと円山さん二人がいないだけでガランとした印象に何となく違和感を感じながら僕が軽く挨拶をして席に着くと,クラスメイトたちが何かを察した様に同情の眼差しをこちらへ向けた。隣の席のビクトリアが小声で2人のことを尋ねてきた。僕は知らないというジェスチャーで答えて授業の準備を始めた。間もなくジェニファー先生が入室して,イレイナの事情を説明した後,クラスの一瞬の動揺を押さえ込むように淡々と授業を開始した。
夢を見ている様なぼんやりとした感覚が残る中で午前の授業を何とかやり過ごした。昼休み,サンドリンが学ぶプロフェッセンシーの教室やカンティーヌへ行って探したのだが彼女は見当たらなかった。僕はサンドウィッチと紅茶を買って食べようと,クラスメイト達とテーブルに座ったが,2口ほど食べて午後の始業時間になってしまった。その時友人たちと何を話したかは記憶していない。
放課後,一人になって回り道をしながらゆっくり海辺のキングズロードを歩いていると,ようやくアジャのいない喪失感が強くなっていくのを感じた。急激に激しい孤独に自分が支配されていくのに気づいて全身が震えた。前日までの満たされた幸福感と正反対の冷たい感情は,まるで麻薬が切れたジャンキーが怯えているのと同じ様なものなのだろう。僕は急に円山さんに会いたくなって大きな歩幅を取ってグイグイとホーヴの町中を急いだ。
20分も歩くと円山さんの自宅前に到着した。どことなくいつもと違う沈んだ雰囲気に包まれた様子に少しおどおどしながらベルを押したが,開いた扉の向こうから円山さんは僕をいつも通り親切に歓迎してくれた。
「やぁ,今朝は大変だったね」
「少しは休めましたか」
「何ともね・・・何かしてないと,気分がね」
「僕も・・・まだ信じられなくて」
「どうぞ」
昨日までのパリ旅行のことを思い返すこともせず,2人とも陰鬱な面持ちでリビングのソファに腰を下ろした。カウンター式のテーブルでサイフォンがコポコポと音を立てていて入れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。ここでは紅茶よりコーヒーというのが定番で,ちゃんとした美味しいコーヒーが飲める唯一の場所だった。カウンターの向こう側に仕切られた小さな作業スペースがあって,組み立てかけのオースチンミニのボディシェルが4ヶ所でジャッキアップされたまま佇んでいる。
「いつもはイレイナが入れてくれるから,今日のは味の保証できんよ」
円山さんは微笑みながらマグカップを僕に渡すとコーヒーを注いでくれた。サーバーをテーブルに置いてカップのコーヒーをすすりながら円山さんがガレージの方へ向かった。僕も招かれるように円山さんの後を付いて行った。円山さんの自宅には何度かお邪魔したことがあったがガレージに入るのは初めてだった。
円山さんとは普段から自動車の話でも馬があった。工業デザイナーとしての視点からあれこれと語ってくれて僕の興味を強烈に刺激してくれる兄のような存在だ。服装や物腰もすべてが英国的で堂々としている立派な紳士で,僕はそんな円山さんを尊敬し慕っていた。
「コイツを完成させてドライブするのが楽しみにだったんだよな・・・」
円山さんはそう言うと息をつまらせた。そんな可愛そうな円山さんを見たことがなかったから,僕も胸がギューと締め付けられた。
夢を見ている様なぼんやりとした感覚が残る中で午前の授業を何とかやり過ごした。昼休み,サンドリンが学ぶプロフェッセンシーの教室やカンティーヌへ行って探したのだが彼女は見当たらなかった。僕はサンドウィッチと紅茶を買って食べようと,クラスメイト達とテーブルに座ったが,2口ほど食べて午後の始業時間になってしまった。その時友人たちと何を話したかは記憶していない。
放課後,一人になって回り道をしながらゆっくり海辺のキングズロードを歩いていると,ようやくアジャのいない喪失感が強くなっていくのを感じた。急激に激しい孤独に自分が支配されていくのに気づいて全身が震えた。前日までの満たされた幸福感と正反対の冷たい感情は,まるで麻薬が切れたジャンキーが怯えているのと同じ様なものなのだろう。僕は急に円山さんに会いたくなって大きな歩幅を取ってグイグイとホーヴの町中を急いだ。
20分も歩くと円山さんの自宅前に到着した。どことなくいつもと違う沈んだ雰囲気に包まれた様子に少しおどおどしながらベルを押したが,開いた扉の向こうから円山さんは僕をいつも通り親切に歓迎してくれた。
「やぁ,今朝は大変だったね」
「少しは休めましたか」
「何ともね・・・何かしてないと,気分がね」
「僕も・・・まだ信じられなくて」
「どうぞ」
昨日までのパリ旅行のことを思い返すこともせず,2人とも陰鬱な面持ちでリビングのソファに腰を下ろした。カウンター式のテーブルでサイフォンがコポコポと音を立てていて入れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。ここでは紅茶よりコーヒーというのが定番で,ちゃんとした美味しいコーヒーが飲める唯一の場所だった。カウンターの向こう側に仕切られた小さな作業スペースがあって,組み立てかけのオースチンミニのボディシェルが4ヶ所でジャッキアップされたまま佇んでいる。
「いつもはイレイナが入れてくれるから,今日のは味の保証できんよ」
円山さんは微笑みながらマグカップを僕に渡すとコーヒーを注いでくれた。サーバーをテーブルに置いてカップのコーヒーをすすりながら円山さんがガレージの方へ向かった。僕も招かれるように円山さんの後を付いて行った。円山さんの自宅には何度かお邪魔したことがあったがガレージに入るのは初めてだった。
円山さんとは普段から自動車の話でも馬があった。工業デザイナーとしての視点からあれこれと語ってくれて僕の興味を強烈に刺激してくれる兄のような存在だ。服装や物腰もすべてが英国的で堂々としている立派な紳士で,僕はそんな円山さんを尊敬し慕っていた。
「コイツを完成させてドライブするのが楽しみにだったんだよな・・・」
円山さんはそう言うと息をつまらせた。そんな可愛そうな円山さんを見たことがなかったから,僕も胸がギューと締め付けられた。
「手伝いますよ」
それから僕たちは2時間ほどガレージで黙々と作業した。
夕方6時を回った頃一段落したので食事に誘ったが,円山さんはその日は早く休みたいとのことだった。
別れ際,扉を閉じながら挨拶すると円山さんはソファに腰かけたまま軽く手を挙げて弱々しく微笑んだ。
それが円山さんとの最後の挨拶になってしまった。
夕方6時を回った頃一段落したので食事に誘ったが,円山さんはその日は早く休みたいとのことだった。
別れ際,扉を閉じながら挨拶すると円山さんはソファに腰かけたまま軽く手を挙げて弱々しく微笑んだ。
それが円山さんとの最後の挨拶になってしまった。