サロン・ド・クロノ分社

Harmony中国茶&SpiritualCareサロン 埋蔵LOG

チカラ1995

1995年11月16日 | 00エピソード
だからこそ

何らかの
特別な人にしか視えなかったり
特別な人にしか感じられない
「チカラ」を

明確に

「要らない」と

今回の人生は意図してきた、と

思えるのだ。


「気」も然り。



かつて縦横無尽に使役した「チカラ」の明確な残像が確かに内に在る。


それでも

「あの人と一緒に居てよく大丈夫だったわね」
「あなたよくあんな場所に行って平気ね~」
「あの人のパワーは凄いわよ」
「そんな本読んでるの?次元が低いわね」
「あの人の傍に居さえすれば大丈夫」
「あれだけのオーラだもの」
「あの人のエネルギーはキレイね」
「一緒にいるだけで浄化される」
「あの人はまだまだね」


聞くたびにいたたまれなくなり

「力」(気・ヴィジョン・オーディエンス・知識)で判断しなくてすむ自分でよかった」と

その人や場所や状況の
なにがしかの「カ」があるから近づいてゆく
あるいは遠ざけてしまう
そんな自分でなくてよかったと

何度胸を撫で下ろしたことだろう・・・


それほどまでに
「力」の及ぼす波状効果を解っているからこそ
人というものがいかに共振する物質であるかを識っているからこそ

そしてそれがワカル自分であれば、
きっとわたしの言葉や行動は
今と違ってしまうであろうことを識っているから。



そしてそれは

いかに自分がそれに惹かれて反応し、

いつもいつも心のうちにそれを求めてしまう

愚かで脆く弱い自分を

一番識っているのがわたし自身だから。





それほどまでに
かつて「力」を手に
人を惹き付け
人を動かし
人を操り
人を人とも思わぬ歴史に関わってきたのだろう、と思うのだ。


そう思う自分であるということは、
誰かの為にナニカを為すことでしか
自分を掬えないことも識っているからなのだ。

何故そう思うのか?

それは

わたしが特別に優しいわけでも
人柄が良いわけでも
人格が優れている訳でもない

救えなかった、
救いたかった、
慙愧と後悔と懺悔の念
それこそが初めから既に胸に在ったからこそ
そう思うのだ。

何故人の為になりたいと願う自分がいるのか?
何故人を助けたい、
人の為に生きたい、
人の役に立ちたい、
と思わずにはいられないのか?

そうではなかった人生を送った自分が
未来の自分に送った
自分をこそ掬う道
そうつぶやく内なる声が聞こえるから。



だから
今生で出会う
「力」を求める人や持っている人、
それにわたしが揺れることはない。
「気」も然り。
「気」の清濁、
それも幻。

それををそう観せているのは
その人と相手の業によるから。

しかし
それさえも一抹の断片でしかなく。

言葉にするより多くのことを携え
人と人は関わってゆく。
















全て受け入れたつもりでさえ尚

わが息子として生まれた次男君、
イトオシク胸が潰れる痛み、なお・・・


それほどまでに
わが「力」持てし時代の業深しことよ。

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