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商 品 | 余 力 |
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現物買付可能額(米ドル) | 90.00 US$ |
内 課税口座
|
56.64 US$ |
内 NISA口座 (NISA口座へ資金を割当)
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33.36 US$ |
シンボル
銘柄名
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口座区分 | 保有数量 |
参考取得単価(US$)
現在値(US$)
|
一株当たり評価損益(US$)
評価損益率
|
約定金額合計(US$)
時価評価額(US$)
|
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---|---|---|---|---|---|---|
AVGO
ブロードコム
|
課税 | 70 |
87.52
224.19
|
136.67
156.15
|
6,126.70
15,693.30
|
|
BX
ブラックストーン
|
課税 | 42 |
86.27
164.75
|
78.48
90.97
|
3,623.38
6,919.50
|
|
AVGO
ブロードコム
|
NISA | 520 |
92.58
224.19
|
131.61
142.17
|
48,139.44
116,578.80
|
|
BX
ブラックストーン
|
NISA | 83 |
82.75
164.75
|
82.00
99.09
|
6,868.51
13,674.25
|
|
MCHP
マイクロチップ・テクノロジー
|
NISA | 1 |
80.70
55.34
|
-25.36
-31.43
|
80.70
55.34
|
|
QBTS
D ウェーブ クオンタム
|
NISA | 25 |
10.30
5.24
|
-5.06
-49.13
|
257.50
131.00
|
|
WBA
ウォルグリーン・ブーツ・アライアンス
|
NISA | 1 |
8.98
11.68
|
2.70
30.07
|
8.98
11.68
|
愛着形成がしっかりできている人は精神的に強靭です。人生の困難やストレスに直面してもへこたれず、たくましく生きていくことができます。
たとえば小さいうちに親や養育者にたっぷり甘え、「もうじゅうぶん」と思うほど甘え尽くした子どもには強固な愛着が形成されます。愛着がしっかり形成されれば、子どもは自然に親から離れ、なにも言われなくても自分の人生を歩み始めます。
ところが、人間は大きくなるとだんだん素直に甘えられなくなってきます。甘え足りないのに「もう大きいんだから」などと言われて愛着サイクルを断ち切られてしまった子は、愛着形成が不十分なまま大人になっていきます。
実際には、思う存分甘えきり、揺るぎない愛着形成ができている人など世のなかにほとんどいません。大半は中途半端な愛着形成のまま大人になっているのが実情です。
だからこそ、みんなそこそこの自己肯定感と他者信頼感はあるものの、強いストレスや逆境に出合うと簡単に潰れてしまうのでしょう。
愛着の問題を、童話「三匹の子豚」にたとえてみましょう。
普通の人は木造の家に住んでいます。ある程度の雨風には耐えられますが、強い台風や地震がくれば家は崩れてしまいます。
治療やケアが必要な人は、藁ぶきの家レベルです。一方、逆境にも負けないような人は、強いレンガ造りの家に住んでいます。
安心感や自己肯定感が乏しいと感じる人は、自分自身に問題があるのではなく「家の構造が弱い」と考えてみてください。原因は家の構造にあるのですから、補強工事で強化することはじゅうぶん可能です。専門家の知見を活用することをお勧めします。
藁ぶきの家の人はもちろん、木造の家に住んでいる人も、もっとしっかりした家=自分にしたいのであれば、レンガ造りの家を目指して補強・耐震工事をしていきましょう
愛着障害は正式には小児の障害なので大人には用いませんが、大人の患者さんと話をしていると、多くの方に愛着の問題が見られます。患者さんは愛着の問題とは気づかず、他の病気の症状や、自分の性格だと考えています。
とくに精神疾患が再発しやすかったり精神状態が安定しなかったりする患者さんに向き合っていると、愛着の問題が見えてきます。
たとえば「自分がきらい」と言う人には、「いつからですか」と聞きます。「小さい頃から」と答えた人は、たいてい愛着に問題があります。
また、愛着に問題があると自分をいたわることができません。多くの人が自分を傷つけ、まるで自分をむち打つような生き方をしています。
それを指摘すると「たしかにそうですね」とうなずく人が多いのです。
このように、自分の「家の構造」の弱点に気づくことは非常に大事なことです。弱点がわかれば、そこから補強工事をスタートさせることができるからです。
そのためにも、自分ひとりで悩まずに医師やカウンセラーに相談し、第三者の視点をとり入れるようにしてください。
兵庫県尼崎市に、最大19時間待ちのラーメン店がある。JR尼崎駅から徒歩10分ほどの場所にある「ぶたのほし」が、そのお店。ここのラーメンを求めて15時に並び始め、翌日11時の開店を待つ人がいるのだ。
ぶたのほしの店主、髙田景敏さんは、異色のキャリアを持つ。かつて億を超える資産を築いたが、のちに死すら意識するほどのどん底を味わった。その時、京都の有名店「無鉄砲」のラーメンに救われ、40歳にしてアルバイトを始める。9年間の修業を経て、50歳の時に開いたのがぶたのほしだ。
取材当日も順番待ちの行列ができていた。
なぜ、ラーメンのために19時間待ってもいいと思えるほど、ぶたのほしは支持されるのか? ヒントは、店主の歩みにある。
大阪市で生まれ育った髙田さんは、物心ついた時から「人生の成功とは、お金持ちになること」と考えていた。この思考は、父親の極端な教育方針で育まれた。不動産業を営んでいた父親は、ベンツやロールス・ロイスを所有していた。家族で出かける時、髙田さんだけがその車に乗ることを許されず、ひとり自転車で目的地に向かった。
「非常に厳しい父親で、よく殴られたし、怖い人でした。直接言われたわけではないけど、いい車に乗りたかったら自分で稼げるようになれということだったみたい」
高校生にもなると、「絶対に親父を超えてやる」という反骨心が芽生えた。当時、「最もお金持ちへの近道で、なおかつ親父と違う道を歩める」と考えていたのが株のディーラーで、一獲千金を目指して著名な相場師の豪快なエピソードを集めた『実録・北浜の相場師』などを読み漁った。高校卒業後、一浪して甲南大学の法学部へ。お金持ちへの最短距離を歩むために商法を選択し、就職活動では某大手証券会社から内定を得る。
しかし、大学4年生の時に、有名な経営者が主宰するビジネスサークルに入って気が変わった。1年間、友人とともにうまくいけば合法的に、スピーディーに、大金が手に入るビジネスモデルを学ぶ。そこで手ごたえを得て、大学卒業後、その友人と化粧品販売会社を立ち上げた。「早く儲けたい」一心だった。
サークルで教わった通りにビジネスを始めると、あっという間に大金が転がり込んだ。起業して3カ月で月収が150万円に達し、毎日のように大阪のミナミで飲み歩いた。しかし、爆速で稼いでいた若者グループが失速するのも早かった。組織が大きくなると、末端まで目が届かなくなる。一度、狂った歯車を軌道修正することができず、2年も経たずに会社を畳むことになった。
髙田さんは次に携帯電話の販売代理店を始め、数カ月で驚くほどの契約を得る。通信会社から表彰されて、ハワイにも行った。ところが、髙田さんにとって「めっちゃ簡単」なビジネスは、通信会社側の事情で1年もせずに終息する。
やることがなくなってブラブラしている時、髙田さんから大量に携帯電話を買い取っていた大手企業の幹部が「京都で独立するんやけど、一緒に来てやれへんか」と声をかけてきた。ふたつ返事で京都行きを決めた髙田さんが入社したのは、高級な和服、洋服、毛皮などを販売するアパレル企業。そこには驚異的な売り上げを誇る女性の本部長がいた。顧客に「崇拝されているように見えた」という本部長から、髙田さんは「お客さんを、いかにロイヤルカスタマーにするか」を教わった。
「例えば、本部長は相手の心を開くのが超得意なんですよ。初めて会った人がみんな、本部長を好きになる。なんでかなと思ったら、本部長が最初にお客さんのことを好きになってるんですよね。どんなお客さんにも、関心を持って話しかける。『あなた初めての人? その猫ちゃんのブローチどうしたの、ステキね』って。それで本部長のファンになった人たちに対して、AIDMAの法則(商品を認知してから購入に至るまでの過程)に従って科学的にアプローチすると、自ら喜んで本部長の勧める高額商品を買うようになるんです」
「ぶたのほし」の人気メニュー、さかなとんこつスペシャル
髙田さんが「こういうことか」と肌で感じたのは、大学生の頃から何度も読んだ松下幸之助の本に書かれていたことだ。
「松下幸之助は、人とモノとお金のダムを作るのが経営と書いています。先のことを考えずに人、モノ、お金を使うのではなくて、ダムを作って、貯めたなかから必要な分だけ活用する。使った分が常に溜まるような仕組みと工夫と努力をしなさいという内容です」
髙田さんには、本部長を支える分厚い顧客層が、ダムになみなみと貯まる水に見えた。
厳しい本部長のもとで鍛えられた髙田さんは、凄腕の営業マンとして成り上がっていく。29歳で営業部長に抜擢され、給料は手取り1500万円、さらに会社から支給された経費用のカードを自由に使うことが許された。183センチの長身にアルマーニのスーツを着込み、京都の繁華街を闊歩していた男はしかし、まだ満足していなかった。もっと儲けたい――。
欲望に燃える髙田さんが目を付けたのは、孫正義だった。孫正義とソフトバンクに関する書籍をすべて読み、スケールの大きさに感嘆した髙田さんは、決意する。
「この人に全財産を賭ける」
「ぶたのほし」の店内。ラーメン店のイメージとは異なるオシャレな雰囲気
2000年4月、日本のITバブルが崩壊し、一時期、4万円がついていたソフトバンクの株価も大きく下落した。その頃に株を買い、反転したタイミングで売った。預金通帳には、1億円を超える残高が記された。この時、髙田さんは原点に返る。
「これを元手に、トレーダーになろう」
2003年、35歳の時にアパレル企業を辞めた髙田さんは、デイトレーダーとして株の売買を始める。この時も、松下幸之助の「ダムの経営」を取り入れた。ブログを開設して、リアルタイムでなんの株をいくら売り買いしたのかを記し、1日の終わりの収支や反省点も明らかにする。狙い通り、右肩上がりでPVが増えていったタイミングで、有料会員限定のコンテンツに切り替えた。すると、200人ほどが会員になった。
デイトレーダーとしての収支は黒字で、有料会員からの会費も入ってくる。髙田さんの資産は、最大3億円に達した。順調に見えた「お金持ち」への道はしかし、一気に崩壊する。2008年9月のリーマンショックで資産の9割を喪失
茫然自失の髙田さんは、手元に残った1割の資産で、日々を漫然と過ごした。当時の妻からは「アパレルに戻ったら?」と言われたが、その気力も残っていなかった。ただ毎日、韓国ドラマを観続けていた。
1年が経ち、貯金が尽きかけた頃、「もう、ええか」と感じ始めた。うまいメシも食った。高い車にも乗った。あれもした、これもした。これまで、たくさんいい思いをした。頭のなかには、「死」の文字が点滅
ある日、ついに「もう死のう」と立ち上がった。その時、唐突に思い浮かんだ。
「もう1回、最後に食べに行こう」
最後の晩餐に選んだのは、京都に本店を構える「無鉄砲」のとんこつラーメン。大学生の頃からラーメンの食べ歩きを始めた髙田さんが最も愛したラーメンだった。ひとりで昼時を過ごすデイトレーダーになってからは、年間100杯は食べていた。
「俺の一杯を探す旅」というブログも書いていた。無鉄砲では「麺固め」「こってり」「ねぎ多め」などのオーダーができる。毎回オーダーを変えて、最高の組み合わせを探るという内容だ。あらゆる組み合わせを試して出した結論は、「普通のラーメンが一番」
豚骨スープに合わせるのはモチモチの中太麺
人生最後の一杯として足を運んだ無鉄砲大阪店で注文したのも、シンプルなとんこつラーメンだった。
豚骨と水だけで作る、濃厚かつ滋味豊かなスープをすする。ジュレのようなスープによく絡む麺、トロトロに煮込まれた自家製チャーシュー。40年の人生で一番多く食べたラーメンは、その日も変わらない味だった
丼を傾け、スープを飲み干す。その時、髙田さん自身も予想しなかった思いが、グツグツと沸き上がってきた。
「どうせ死ぬんやったら、これを1回、自分で作ってから死んだらええ!」
その日、無鉄砲の大将、赤迫重之さんが不在だったため、自宅に戻った髙田さんは、便せん3枚にわたって手紙をしたためた。
「自分がどれぐらい無鉄砲のラーメンを食べてきたか、なぜこれだけ無鉄砲が好きなのか、過去にどんなとんこつラーメン食べたのか、僕が入ったらどんな仕事をしたいのか、思いのたけを書きました」
3日後、大将から「今すぐうちに来なさい」と電話がかかってきた。京都の郊外にある邸宅で、大将、女将さんと向き合った。そこで、髙田さんは無鉄砲への思いを訴えた。この時、40歳。髙田さんと同じ年の大将はなにを思っただろう。30分ほどの面接を終えた時、「明日から来なさい」と言われて、髙田さんは、ホッと胸をなでおろした。
40歳になった時、ラーメン店「無鉄砲」での修業生活が始まった
2009年6月、髙田さんが「地獄」と振り返るラーメン修業が幕を開ける。
時給850円のアルバイトとして入店したのは、奈良の大和郡山駅から徒歩40分ほどの場所にある無鉄砲の支店「豚の骨」。当時、髙田さんが住んでいた大阪市福島区の自宅から片道2時間以上をかけての通勤が始まった。
最初の仕事は、食器洗い。厨房の奥の狭い場所で食洗器の熱気がこもり、エアコンがまったく効かない。湿度90%の熱帯にいるような環境で9時から22時45分まで働き、終電で帰った。2日目には、「もう無理やわ……」と音を上げそうになった。
無鉄砲でスープに触れることが許されるのは、店長のみ。当時、無鉄砲には腕に覚えのある若い店長候補が10人ほど働いていた。40歳のアルバイトがラーメンを作れるようになるには、できる限り早く彼らのレベルに達しなくてはならない。
ではどうするか? 洗い場から早く抜け出したい一心で、髙田さんは全力でアピールを始めた。洗い物を頑張るというレベルではない。休憩に行ってと言われても、「必要ないです」と頑としていかない。それじゃあ会社が困ると怒られると、外に出て、スープを作る大将が厨房の窓から見える位置で腕立て伏せ。
大将から「あきちゃん、なにしてんの?」と呆れ顔で聞かれた時には「ラーメンを作る日に備えて体力作りです」と答えた。
「ぶたのほし」の厨房。2つの羽釜と、1つの寸胴鍋が並んでいた
アピールを始めて間もなく、総本店に店長候補が集まる研修会に呼ばれた。そこで、鉄の棒を使ってスープを混ぜる無鉄砲独特の方法を体験した時には、その棒を誰にも渡さなかった。その日の夜、「あきちゃん、すごいな。棒、離さんかったらしいな」と苦笑まじりの電話が大将からかかってきた。
「あいつアホちゃうかって思われたでしょうね。自分の過去の話は一切しなかったから、大将にとっては、人生こけてこけてこまくって、ラーメン屋の門を叩いたかわいそうな同い年のおっさんだったと思います」
アピールの効果か否か、入店から4カ月後、大将の指示で新店舗の「つけ麺 無心」に移ることになった。この移籍が、髙田さんの運命を変える。
その店は、オープンからすぐ人気店になった。あまりに多忙で、間もなくして店長が離脱。スープ担当になった二番手は、いきなりの大役に技術が追い付かない。大将はここで、洗い物と掃除担当だった髙田さんを抜擢する。
大将は、数日だけスープの作り方を指導すると、あとは髙田さんに任せた。髙田さんによると、無鉄砲では5年働いてもスープに触らせてもらえない人もいる。それが、入店から5カ月目にして、スープにたどり着いた。つけ麺のスープは当然、ラーメンに通じている。
豚骨スープをつくる髙田さん
「おれはついてる!」と幸運を噛み締め、一心不乱に働いた。しかし、40歳の身体が気持ちについてこなかった。
両足の皮下と筋肉組織の間に細菌が入る病気に罹り、10日間ほど入院。その間に別の店からきた助っ人が店長に就いた。
そのタイミングで再び異動になり、大阪店へ。デイトレーダー時代、大阪店によく食べに来ていた髙田さんは、「スープの達人」と称される店長と顔見知りだった。すぐに意気投合した店長は、ホール係の髙田さんにラーメンやスープ、接客に至るまであらゆるノウハウを伝授した。
しばらくすると、また大将から連絡があった。東京に無鉄砲の支店を出す、大和郡山の店長を連れていくという話で、「あきちゃん、大和郡山の店長しな。ちょっと面接するわ」。
全体重をかけながら、羽釜の底をえぐるようにかき混ぜる
面接の日、「スープ作ってみて」と言われた髙田さんは、緊張しながらも大阪店で学んだスープを出した。それを飲んだ大将の顔色が一瞬で変わる。
「あきちゃん、なんでスープ作れるん?」
先述したように、無鉄砲でスープに触ることを許されているのは、店長のみ。ギクッとした髙田さんだが、大阪店の店長のことを高校生の頃から知る大将はなにが起きたのかすべて悟ったような表情をした後、特に問い詰めるでもなく、「店を黒字にしてくれ」と言い残して、東京に向かった。
現在は妻・のぶこさん(右)とともに厨房に立つ
2010年6月、大和郡山の支店「がむしゃら」(元「豚の骨」)の店長に就任。モノを売る、売り上げを伸ばすのは得意分野だ。髙田さんはスタッフに「一緒に売り上げを伸ばそう」と呼びかけ、とにかく褒めて、褒めて、褒めまくって働く気持ちを盛り上げた。
トイレ掃除、ゴミ捨ては自分でやり、店をピカピカに磨き上げ、「皆さんはお客さんに集中してください」と伝えた。お客さんにも、アパレルで働いていた時に鬼の本部長から教わったように接した
「常連さんの名前を覚えて、名前を呼んで『いつもありがとうございます』と言うのはもちろん、常連さんが友達を連れてきたら、その人の顔を立てるように話しかけます。お客さんがスープを残して出ていったら、追いかけて、なんで残したのかを聞きました。そのお客さんのことを覚えておいて、次に来た時に、『あの時はすいません、今日はちゃんと改善しますので』と伝えます。そういうことを、コツコツ、コツコツ続けました」
モチモチの中太麺。
髙田さんが店長に就任してから、右肩上がりで売り上げが伸びた。その背景には、クビになるかもしれなかった「事件」もあった。
豚骨と水しか使わない無鉄砲のスープは野性味が特徴だが、髙田さんはそれを苦手にする女性客が多いのではと仮説を立てた。そこから骨の配合など試行錯誤を重ね、3、4年目に入った頃には「めっちゃどろっとしてるのに上品」なスープに仕上がった。
この頃、無鉄砲の女将さんが突然店に来て、一口食べた瞬間、「あきちゃん、これ無鉄砲のラーメンとちゃうやん!」と小さな声で叫び、怒って店を飛び出した。間もなく、大将から「どうしたの?」と電話がかかってきた。店長が勝手に店のスープをいじったのだから、クビになるだろうとビクビクしながら正直に話した。大将は少しの間沈黙した後、尋ねた。
「お客さんはそれで喜んでるんか?」
大将の判断基準は、いつもお客さん。それを知る髙田さんは神妙に「そう信じてやってます」と答えると、大将は言った。
「あきちゃんの好きにしたらええ。その代わり約束してくれ、お客さんを絶対に笑顔で帰すこと」
この言葉を聞いた瞬間、髙田さんは、「この人には絶対に勝てない」と感服
「究極のラーメン 関西版」の第9回究極のラーメンAWARDと最強ラーメン番付SHOW受賞のたて
独立することになったのは、事故がきっかけだった。2016年10月、渋滞中の道路でトラックから追突され、左肩の筋肉を支える4本の腱のうち3本が切れてしまったのだ。手術とリハビリで、全治10カ月。その間、自分の店をやりたいという思いが溢れ出し、手帳一冊分の構想を記した。
ケガがほぼ治りかけた頃、大将から奈良の実家に来るように呼び出された。近所の串カツ店に入り、昼間からふたりで焼酎を飲む。しばらく時間が経った頃、大将は言った。
「あきちゃん、ほんまは店やりたいんやろ。やったらええわ。もしあかんかったら、帰ってきたらいい」
髙田さんはそれまで一度も、独立したいと口にしたことはなかった。それだけに、意を汲んで背中を押してくれた大将の言葉は胸に沁みた。
「その一言は、ほんまもう一生忘れません」
その後、大阪店でアルバイトをさせてもらいながら、店を開く場所を探した。最初の条件は、無鉄砲の支店がないエリア。もうひとつの条件は、私生活でも一緒に行動するようになった常連さんが何人もいる大和郡山周辺から通える距離であること。
どちらも満たすのが、尼崎だった。
10カ月かけて探し歩き、ようやく出会ったのが、フラリと入った不動産店で紹介された、もともと工場だった物件。JR尼崎駅から徒歩10分ほどでありながら、準工業地帯で豚骨のにおいも行列も問題なしという好条件だった。
しかし、手持ちの資金が圧倒的に足りなかった。2009年6月に働き始めてからずっとアルバイトだったため、120万円しか貯金がなかった。それは、一度ガンの手術をした時に入ってきた保険金だった。
ある金融機関に工場のリフォームと運転資金に必要な1000万円の借金を申し込むと、最初の担当者にはどう頑張っても800万円しか出せないと言われた。しかし、途中で代わった担当者が大和郡山の無鉄砲がむしゃらに通っていた人で、「あなたのこと、知ってますよ。任せてください」と1200万円の融資を通してくれた。
加えて、不動産店のオーナーの息子が「がむしゃらのラーメンを食べたことがある」という偶然から、家賃は格安、保証金も安くしてもらうなど優遇してもらった。
「こんなことある? ってぐらい、うまいこといき過ぎました。僕の知る限り、利害の関係のない人がこうやって乗っかってくる事業って成功するんです。これは俺の店、いけるんちゃうかなと思いましたね」
2018年1月20日、ぶたのほしオープン。メニューはとんこつラーメンと、さかなとんこつラーメンの2種類。がむしゃら時代に探求した独自のスープがベースになっているが、それだけで勝負しようとは考えなかった。
「(おいしい)味が作れたから偉いわけじゃない。僕は自分のラーメンがおいしいと思ってるけど、もっとおいしいところはいっぱいありますよ。そのなかでうちに来てもらうにはどうしたらいいかを考えるんです」
パッと見ではラーメン店と思えないほどスタイリッシュな内装。音が「上から降ってくる」ように、お店の高い位置に設置した高級スピーカー。そのスピーカーから流す音楽も、髙田さん自身がセレクトしている。15時の閉店後には、毎日数時間かけて清掃する。
がむしゃらの時と同じように、できる限りお客さんが気持ちよく過ごせるように接客する。どんなに忙しくても、笑顔で話しかける。
「お客さんがラーメンを食べて帰るときに、なんか元気なっとる、なんか心が軽なっとる、そういうことに対して僕らはお金もらってるんです。だからお客さんに全神経を集中するし、非日常的な雰囲気を作ったり、気持ちよく過ごせる環境を整える。そういうことも含めて、自分という人間を売るしかない。もうすぐAIが人間よりおいしいスープのレシピを作る時代が来ます。AIにできないことを僕らはやっていかないと」
冒頭に記した、19時間待ちのお客さんは遠山太一さんという。年間300杯から400杯は食べるラーメン好きで、ぶたのほしがオープンした年に初めて来店している。それから6年が経ち、全国で2000杯前後のラーメンを食べてきた遠山さんが「食べ歩きしてきたラーメンのなかで一番」と断言するのがぶたのほしだ。その評価は、味だけにとどまらない。
「アキさんぐらい熱意のあるラーメン店主にはなかなか出会えないっていうのはもちろんなんですけど、アキさんってオシャレやし、音楽もオシャレやし、工場をリノベーションしたスタイルとかも、すごい好きやし。ぶたのほしって、普通に食べに行っても2時間は待つんですよ、でもあの空間におるっていうのが居心地いいんですよね」
オープン以来、「ここは僕の店じゃありません。皆さんのお店です。僕は皆さんに雇われている職人です。だから肩書きが工場長なんです。皆さんがこの店を盛り上げてください」とお客さんに伝えている髙田さん。
その徹底した「お客様第一主義」は、ラーメンも変える。髙田さんは基本的に「自分がおいしいと思っているものを出す」スタンスだが、オープンした時から多かった「ぶたのほしのラーメンにニンニクをトッピングしたい」という声を無視しなかった。
2019年より年に数回、15食限定でニンニクとチャーシューをたっぷりと盛ったラーメンを出し始めたのだ。これが、またファンの心に火をつけた。
「一番おいしいのは、ベーシックな豚骨ラーメンです。ただ、たまにある限定ラーメンをアキさんがどういう感じで出してくるのかがすごく楽しみで。もう絶対に食べないといけないみたいな感覚ですね」(遠山さん)
19時間待ちを経験した常連の遠山太一さん
限定ラーメンを提供する前日、髙田さんは15時に営業を終え、片づけと掃除をした後、外で待つお客さんを店のなかに招き入れ、自分は帰宅する。お客さんはキャンプ用のイスなどを持ち込み、ウーバーイーツを頼んだりしながら、夜を過ごす
19時間待つことを厭わないラーメンマニアの集まりだから、ラーメン談議が弾んで「キャンプみたいで楽しい」(遠山さん)そうだ。それにしても、お客さんとここまでの信頼関係を築く飲食店があるだろうか。
髙田さんは、2024年12月23日、25日にも限定ラーメンを出した。遠山さんは22日のランチにとんこつラーメンを食べた後、今回もそのまま15時から19時間並んだ。その日、一緒に夜を明かしたぶたのほしファンは、ほかに4人いた。
12月23日に提供された限定15食を求めて、
ぶたのほしは、2018年1月20日のオープンから1日もお客さんの行列が消えたことがない。売り上げは毎年、前年比を上回る。しかし、髙田さんは現在56歳。ぶたのほしのスープは鉄の棒で常にかき混ぜ続ける重労働のため、「60歳が限界かもしれない」と考えている。それでも現場に立つのか、人を雇って育てるのか、悶々と悩み続けている。
まだ答えは出ないが、理想の終い方は頭のなかにある。「つけ麺の神様」と呼ばれる大勝軒の創業者、故・山岸一雄さんの今際の際の言葉は「いらっしゃいませ」。その事実を知って、「さぶいぼが立った」という髙田さんは、最後の最後まで職人を貫き、厨房でバタッと倒れて死ぬことに憧れる
「お客さんの笑顔を思い出しながら、ニヤニヤしながら死んだろと思ってるんです。そこで最後に一言、『いらっしゃいませ』。めっちゃかっこよくないですか」
若かりし頃、「お金持ちになる」という野望に燃えていた髙田さんは「人生は絶対にお金じゃありません」と笑った。
「一風堂の河原成美さんが書いた本にね、どんな辛い状況でも、どんな悲しい状況でも、どんな苦しい状況でも、仕事をしている時に心の底からありがとうという言葉しか出ない時期がある、もしそう思えたら、それがあなたの天職ですよって書いてあったんです。僕も地獄の修業時代にそう感じた瞬間がありました。生まれ変わってもラーメン屋さんしますよ」
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで日米英独仏の蔵相が秘密裏に会合を開いた(写真:AP/アフロ)
2025年の為替市場に関しては、ドル高続伸を予想する声が相変わらず多い。実際、現在入手可能な情報に基づく限り、それは合理的な予想といわざるをえない。
事実としてアメリカの労働生産性(ここでは時間当たり実質GDP)の伸びは先進国でも突出しており、その分、中立金利(経済に対して緩和的でも引き締め的でもない政策金利水準)も上がっていると考えるのが自然ではある。
2025年はアメリカの「利下げの終わり」はおろか、「利上げの始まり」がどこかのタイミングで織り込まれ始めるのではないかとの声すら見られる。あながち否定しかねる状況である。
しかし、ドル高相場が続くほど、「低金利やドル安を志向する第2次トランプ政権がドル全面高をどれほど許容するのか」という市場の思惑は強まるだろう。
もちろん、インフレ高止まりが社会問題化し、そのおかげでバイデン政権が倒れ、自らの再選に漕ぎつけたのだから、建前では低金利・ドル安を望みつつも本音では「インフレが終息しない間はドル高を容認」と考えるのが基本線だろう。
ベッセント次期米財務長官が財政規律派ゆえに米金利が低下し、結果としてドル安が実現するという解釈も一時期はもてはやされたが、時の政権にとって世論の離反につながりかねないインフレこそ忌避すべき経済現象であり、基本的には「ドル高のほうが都合はよい」と考えるのが自然である。
しかし、実効ドル相場を見た場合、名目・実質ベースともに過去10年以上、上昇局面が続いており、実質ベースに至ってはすでに1985年のプラザ合意前後の水準に接近している。
国際協調によるドル高是正が正当化されたプラザ合意当時と同じ水準が視野に入る事実を、保護主義推進者であるトランプ氏がどう評価するか。
1985年当時のレーガン大統領は、アメリカ国内(特に議会)の論調が保護主義に傾斜することを危惧してプラザ合意の必要性に至ったが、トランプ氏は自身の政治信条に基づき率直なドル高是正を求めるかもしれない。
もしくは、為替経路ではなく、ドル高を放置したうえで保護主義者らしく追加関税というより制裁色の強い挙動に訴えかける可能性もある。
いずれにせよ、ドル高が放置された場合、それが政治的に許容されるのかは注目の論点と言える。
年末年始の金融市場では「びっくり予想」、いわゆる金融市場に断絶をもたらすような予想外のイベントや材料を訪ねられることが多い。
筆者は2025年にブラックスワン的なイベントがあるとすれば、「プラザ合意2.0」の可能性を挙げたい。
上述したように、インフレが社会問題化している中で通貨高を是正する必要性は大きくない。それは裏を返せば、インフレが鎮静化すれば、そのドル高も争点化しやすいという意味でもある。
例えば、今後、消費者物価指数(CPI)や個人消費支出(PCE)デフレーターが物価目標である2%前後で落ち着いてきたらどうか。現状では基調的なインフレ関係指標が2%近傍で落ち着き始めているようにも見える。もちろん、底打ちして上がり始めているようにも見えるため、今はその点で過渡期とも言えるだろう。
かかる状況下、対円だけではなく、対主要通貨、言い換えれば実効相場ベースでドルが歴史的な高値をつけるような展開になれば、金融市場でも注目の論点となるのではないか。ラストベルト(錆びついた工業地帯)の支持を背負うトランプ政権としてもドル高を看過できないという判断はあり得る。
実際、これまでもG20など国際会議の開催に合わせて「プラザ合意2.0」の可能性は取りざたされてきた。
特に2016年2月の上海G20に関しては暗黙の第2次プラザ合意としての「上海合意」があったという報道は多数見られた。その真偽や因果関係は定かではないが、上海G20の後にFRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の利上げ路線が棚上げされたのは事実である。
仮に「プラザ合意2.0」が現実的に求められる場合、その大義として第2次トランプ政権はアメリカの貿易赤字の大きさを持ち出すだろう。特に、圧倒的な対米貿易黒字を誇る存在として中国が(これまで通り)敵視されることは言うまでもない。
実はG7でアメリカの次に対中貿易赤字が大きいのは日本である。日本において対中貿易赤字の大きさが争点化しているわけではないが、そもそも貿易赤字の大きさ自体が円安の一因として注目されている以上、中国の貿易黒字の大きさを理由にした「プラザ合意2.0」やこれに伴うドル高是正は日本にとって「渡りに舟」という側面もある。
例えば、アメリカが通貨高の是正を、日本が通貨安の是正を希求した場合、互いの利害は一致する。日米だけではなく、ドイツを除けばG7は対中貿易赤字であるし、EU(欧州連合)レベルで見れば、やはり欧州全体としても対中貿易赤字を抱えている。
2024年下半期以降、ユーロ安も相応に深刻度を増しているので、通貨高の是正をアメリカが、通貨安の是正を日欧が求めるような構図は仕上がりやすいように思える。
ちなみに、名目実効相場で見れば、2022年1月対比で人民元は0~マイナス5%で穏当な通貨安が続く一方、ドルは優に10%を超えている。ユーロが実効相場で見ると落ち着いているのは対ドル、対スイスフランで下落する一方(両通貨のウエート合計で19.5%)、対人民元、対円で上昇していること(両通貨のウエート合計で23.3%)などが背景にありそうだ。
実体経済に目をやれば、対ドル相場でのユーロの続落が域内のインフレ率を押し上げることに関しECB(欧州中央銀行)を筆頭とする域内の当局者は愉快に思うまい。
いずれにせよ、現状では「仮想敵国である中国が意図的に通貨安誘導を行い、アメリカを筆頭とする西側陣営が割を食っている」という構図は指摘できなくはない。かかる状況を踏まえ、西側陣営で結託してドル相場を低位誘導しようという発想はトランプ次期大統領らしい発想でもある。
アメリカの対中貿易赤字は、2023年時点で2787億ドル(GDP比で1%)と近年の両国関係を反映して13年ぶりの低水準まで縮小している。だが、それでもアメリカの貿易赤字(約1兆ドル、GDP比で3.8%)の約4割が中国という状況は目立つ。
対米貿易黒字の大きさに関し、中国に次いで大きいのがメキシコ(1614億ドル)、これにベトナム(1046億ドル)と続くが、これらの国は中国から部材を輸入し、アメリカへ輸出するという加工貿易の結果が含まれていることで知られる。当然、こうした貿易取引は第2次トランプ政権も問題視するところだ。
極端な話、メキシコやベトナムまで対中貿易の結果だと判断すれば、アメリカの貿易赤字の半分は中国という着想にも至る(実際は台湾や韓国、何よりアメリカの自動車企業による輸出も含むため、すべてが敵対視される筋合いではないが)。
ちなみにメキシコのほか、ベトナムの次に対米貿易黒字が大きいカナダ(723億ドル)といった旧NAFTA諸国は、アメリカの自動車会社が工場を構え、アメリカに輸出しているという実情もある。
トランプ氏は第2次政権においてメキシコとカナダからの輸入品すべてに25%の関税を課すと述べているが、これは自国企業を圧迫する行為でもあり、要は「アメリカ国内で作れ」という意思表示と考えられる。
なお、カナダの次に対米貿易黒字が大きい国が日本(719億ドル)である。過去の本欄でも議論したように(「円安批判」するトランプ氏に伝えたい日本の実情)、日本はすでに多額の対米投資を実施済みだが、やはり因縁はつけられやすいだろう。
結局アメリカは、対中国でも、対主要国でも大きな貿易赤字を抱えている。そのため第2次トランプ政権が「プラザ合意2.0」に踏み込むとした場合、対人民元でのドル高是正であれ、対主要通貨でのドル高是正であれ、相応に理屈は立つ。
政治的には対人民元を前面に押し出したほうがわかりやすいが、アメリカ第一主義と整合的にドル安誘導を企図するならばシンプルに「アメリカの過剰な貿易赤字を是正する」という大義と共に国際協調を強弁するかもしれない。上述したように、アメリカの求め方はどうあれ、通貨安の是正は日本やユーロ圏にとって悪い話ではない。
もちろん、こうした「プラザ合意2.0」の想定はメインシナリオではない。しかし、この論点は第2次トランプ政権だからこそ看過できないリスクシナリオの1つとして留意したいものだ。
実際、「半世紀ぶりの安値」までの押し下げられた円の実質実効相場が短期間で大きく切り上がるとすれば、そのような力業くらいしか思いつかない。通貨高(円高)を社会全体で忌避していた過去であれば受け入れの難しかった論点だが、現在は政治・経済的にも円安是正は歓迎されやすい雰囲気はある。
もっとも、アメリカが保護主義に訴えかけながら自国通貨の切り下げを先導した場合、「強いドル」への政治的意思には疑義が生じる。
実際、トランプ氏はドルの基軸通貨性にチャレンジするような動きを牽制する意図を明示している。「BRICS共通通貨を検討するような動きがあれば、追加関税100%」と述べたことはその象徴であった。
「ドル高は嫌だが、基軸通貨の座を譲るのも嫌だ」というのは矛盾した主張でもあり、総合的に考えれば、やはり基軸通貨性を担保すべく「強いドル」を甘受していくというのがメインシナリオではある。
アメリカが自ら「弱いドル」を志向すれば、それが中国にとっては人民元国際化のための橋頭堡になる可能性は確かにあるだろう。現在の政治・経済・金融情勢を踏まえると、アメリカが自発的にドル安を誘導しようとすることに関し、日本、ユーロ圏、そして中国がそれほど反対しない環境は整っている。この点は知っておいてもよい話であろう。
2024年の秋、新宿・大久保公園にて大型ラーメンイベント「大つけ麺博『つけ麺日本一決定戦』」が開催された。一般投票による予選を勝ち抜いた総勢40店舗が出店し、つけ麺の日本一を決めるという大会だ。
栄えある優勝を勝ち取ったのは栃木県小山市にある「YOKOKURA STOREHOUSE」(ヨコクラ・ストアハウス)というお店だ。
JR小山駅からおよそ6㎞。「横倉」という工業地帯の中に「YOKOKURA STOREHOUSE」はある。
看板メニューは「昆布水つけ麺」。まずは麺をそのまま、そのあと藻塩で、そしてつけダレでと3段階楽しめる。
しなやかさが際立った麺で、食べるたびに麺がおいしくなっている。焼きのしっかり入ったチャーシューから低温調理チャーシューまで柔らかさと味のバラエティーもよく、楽しくおいしい。
「食べログ」では3.90点という高得点で、栃木県で堂々の第1位だ(2024年12月23日現在)。日本を代表する屈指の行列店になっている。
店主の篠塚浩一さんは1977年栃木県小山市生まれ。10歳の頃から父の仕事の関係でアメリカへ。高校で日本に戻ろうと、受験をするが失敗。その後サッカーのプロを目指してブラジルに飛び立つ。
現地のプロチームの下部組織に入団し、19歳までサッカー漬けの毎日を過ごした。日本でプロになるために20歳になる前に帰国し、アルバイトをしながら社会人リーグに所属した。
必死で努力をしてきたが、このままサッカーを続けていくのは難しいと思い、生きていくために仕事を探した。
表参道や青山など国道246号沿いにある高級なフランス料理店に一軒一軒飛び込みで「従業員を募集していませんか?」と聞いて回った。
「プロサッカーチームは当時日本に10球団しかありませんでしたが、料理店は無限にあります。なので、一軒一軒回ればなんとかなるだろうと思ったんです。こうして21歳で完全未経験でフランス料理の道へ入りました」(篠塚さん)
篠塚さんはサッカーを忘れるために料理に没頭した。働いて家に帰り、寝る寸前まで料理書を読むという夢中の日々を過ごした。10年間でビストロからレストラン、そして最後はグランメゾンのお店にまで上り詰めた。
10年間の料理人人生を終え、その後2年間サラリーマンをやってみたが、いったい自分は何をやりたいんだろうと再び我に返る。
この頃、母親が癌を患う。篠塚さんの実家は餃子の「みんみん」の支店を営んでいた。このままではお店が続けられないと思い、篠塚さんは弟の大介さんと2人でラーメン屋を開こうと話し合う。ラーメン屋なら実家の店がそのまま使えると思ったからだ。
こうして2009年5月に「中華蕎麦 サンジ」をオープン。大介さんは近くの焼きそば屋で製麺機を借りて、麺の勉強をした。
極太のつけ麺を提供すると決めていたので、製麺所の麺ではなく自家製麺とハナから決めていたのであった。ある種のミーハー心から始まったラーメン作りだった
栃木を含めた北関東はこれといった誇れるものがなく、おいしいラーメン店を作ることで誇れる街にしようと立ち上がった。
しかし、オープンして半年以上は閑古鳥だった。仕込んだスープや具材はほとんど廃棄する日々が続いた。
しかし、粘り強く営業を続けていくと、少しずつ口コミが広がるようになり、徐々にお客さんが増えていった。その後行列ができるようになったが、駐車場問題で近隣からクレームが出るようになり、従業員の問題も重なって、閉店を余儀なくされる。
「私は地域貢献のために『サンジ』を作りました。しかし、行列や駐車場問題で心が折れました。近隣の人たちに必要とされていないお店だったんだと思いました。親父と言い合いをしてまでオープンしたお店だったのに、閉めることになり本当に悔しかったです。
『ラーメン屋になるのが夢だった』と皆さんよく言いますが、大体の人がセカンドキャリアでラーメンを選んでいることが多いと思います。夢ならばセカンドキャリアではなく最初から目指すもの。
ですので、私は簡単にラーメン屋が夢だったとは言えません。でも、閉店は物凄く悔しかった」(篠塚さん)
「サンジ」を閉店し、しばらくひきこもりの日々が続く。そんななか、家でアメリカのポートランドの飲食店やデンマーク・コペンハーゲンの「ノーマ」の映像を観て、何もない場所でも料理を作る「人」の魅力があれば素晴らしいお店を作ることができることを知る。
同じ頃、東京のカフェで「ただいま従業員は募集しておりません」という貼り紙を見て大変ショックを受ける。
ラーメン店はこんなに人が足りていないのに、カフェの求人には断らなければいけないほど応募が来ているのである。ラーメン店で働きたい人はなぜこんなに少ないんだろうと思った。
篠塚さんは小山の地で、東京の人たちを食べに来させられるお店を作ろうと決意する。
こうして、2019年「YOKOKURA STOREHOUSE」をオープン。
場所は小山市の横倉工業団地のど真ん中。工場の立ち並ぶ中、地域にあった外装、内装を模索し、インダストリアルな雰囲気のお店に仕上げた。地域や景観にあったお店作りを目指して作った。
「私はこの店では“従業員が働きたいと思える店作り”その一点にこだわりました。『こいつらと一緒に働きたい!』と思える店です。
ラーメンの味で業界を引っ張っている人はすでにいらっしゃいますし、手軽なお店で多くのお客さんを集めているラーメン店もたくさんあります。
その中で、自分にできることは何か、業界に何が残せるだろうと考えて、“働きたくなるラーメン店を作る”ということを目標にしました」(篠塚さん)
ラーメン店というとどうしても「修業」「独立」という言葉がついて回るが、ラーメン店で働くということにおいて選択肢はそれだけではない。このまま働き手がいなくなってはラーメンの歴史は止まってしまう。篠塚さんは「チームで働ける店」を目指した
ラーメンだけでなく、店内にコーヒースタンドも作るなど新しい世界観を模索した。
しかし、オープンしてすぐコロナ禍に突入した。ご飯ものを出したり、テイクアウトをやったりといろいろと試行錯誤したがすぐにキャッシュが溶けてしまった。その後、お客さんに求められているものを磨いていかないといけないということで、メニューを絞って営業を続けた。
すると、2020年の途中から徐々にお客さんが戻ってくるようになった。神様が「生きろ」と言ってくれているんだと篠塚さんは気持ちを取り戻した。この頃、新たな仲間として鈴木貴也さんが加わり、店の雰囲気が一気に良くなってきた。
「飲食店をやっていてノーゲス(お客さんが一人もいない状態)のときがあると思います。ノーゲスは世界に80億人の人がいて誰一人に必要とされていないということ。これは正気の沙汰ではありません。
こう考えてみると、来てくれるお客さん一人ひとりに感謝するようになります。
うちは幸いにもお客さんが毎日来てくださるお店ですが、行列のときも行列をさばくマインドではなく、最後の一人のお客さんにまで来てくれてありがとうという気持ちになるんです」(篠塚さん)
YOKOKURA STOREHOUSE」はオープン前から20人ほど行列し、営業時間内に行列が途絶えることはない。週末は駐車場待ちも出るほどの大盛況だが、行列に並んだ最後の一人が食べ終わるまでしっかりと営業する。
売り切れ終了はできるだけないように努力し、営業時間は営業のために使い、その時間内に片付け始めることはないように心がけている。
「私は人との出会いに恵まれました。そこに自ずとお客さんの数もついてきたと思っています。“人”は食材以上に大きな価値です。この店を作ってから人が好きになりました。
チームが夢中になれるものならラーメンじゃなくても何でもいいと思っています。お客さんたちが『こいつら頑張ってるな』『いいチームだな』と思ってくれる店が理想です」(篠塚さん)
従業員の鈴木さんも「お金や名誉よりも、この店で働く楽しさや働き甲斐が大事だと感じるようになった」と話す。
今回の「つけ麺日本一決定戦」に出場することにおいても、迷いはあった。果たして日本一を獲る必要があるのかという議論にもなった。
しかし、篠塚さんはイベントで結果を残して、授賞式でラーメン店で働くことの誇りを伝えたかった。メンバーにもそれを伝えて、全力で出場することにした。
「イベントに出ていろんな人とつながれて、自分と同じような考えを持つ方が他にもいることを知りました。これがきっかけで同志が増えたら、日本中にいいお店が増えていくかもしれないなと思っています。我々は日本一に胡坐をかくことはありません。
先人には敬意を持ち、たとえ僕らが絶望に打ちのめされたとしても若者に希望を与えられる世代でありたいと思いますし、若い世代に『真剣に働くと仕事も面白い』ということを体現し、伝えたいと思っています」(篠塚さん)
日本一を獲得したら終わりではなく、常に全盛期ではないと意味がないと篠塚さんは考えている。これはたとえ、篠塚さんが引退し、後輩の時代になっても変わらない。
「YOKOKURA STOREHOUSE」は、小山の街にとって誇れるお店であることを目指し続けているのだ。
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