苦情で閉店→大行列店」47歳・つけ麺店主の格闘つけ麺日本一「YOKOKURA STOREHOUSE」の流儀井手隊長様記事抜粋<
2024年の秋、新宿・大久保公園にて大型ラーメンイベント「大つけ麺博『つけ麺日本一決定戦』」が開催された。一般投票による予選を勝ち抜いた総勢40店舗が出店し、つけ麺の日本一を決めるという大会だ。
栄えある優勝を勝ち取ったのは栃木県小山市にある「YOKOKURA STOREHOUSE」(ヨコクラ・ストアハウス)というお店だ。
工場街で輝く、日本屈指の行列店
JR小山駅からおよそ6㎞。「横倉」という工業地帯の中に「YOKOKURA STOREHOUSE」はある。
看板メニューは「昆布水つけ麺」。まずは麺をそのまま、そのあと藻塩で、そしてつけダレでと3段階楽しめる。
しなやかさが際立った麺で、食べるたびに麺がおいしくなっている。焼きのしっかり入ったチャーシューから低温調理チャーシューまで柔らかさと味のバラエティーもよく、楽しくおいしい。
「食べログ」では3.90点という高得点で、栃木県で堂々の第1位だ(2024年12月23日現在)。日本を代表する屈指の行列店になっている。
もともとはプロサッカー選手を目指していた
店主の篠塚浩一さんは1977年栃木県小山市生まれ。10歳の頃から父の仕事の関係でアメリカへ。高校で日本に戻ろうと、受験をするが失敗。その後サッカーのプロを目指してブラジルに飛び立つ。
現地のプロチームの下部組織に入団し、19歳までサッカー漬けの毎日を過ごした。日本でプロになるために20歳になる前に帰国し、アルバイトをしながら社会人リーグに所属した。
必死で努力をしてきたが、このままサッカーを続けていくのは難しいと思い、生きていくために仕事を探した。
表参道や青山など国道246号沿いにある高級なフランス料理店に一軒一軒飛び込みで「従業員を募集していませんか?」と聞いて回った。
「プロサッカーチームは当時日本に10球団しかありませんでしたが、料理店は無限にあります。なので、一軒一軒回ればなんとかなるだろうと思ったんです。こうして21歳で完全未経験でフランス料理の道へ入りました」(篠塚さん)
篠塚さんはサッカーを忘れるために料理に没頭した。働いて家に帰り、寝る寸前まで料理書を読むという夢中の日々を過ごした。10年間でビストロからレストラン、そして最後はグランメゾンのお店にまで上り詰めた。
10年間の料理人人生を終え、その後2年間サラリーマンをやってみたが、いったい自分は何をやりたいんだろうと再び我に返る。
この頃、母親が癌を患う。篠塚さんの実家は餃子の「みんみん」の支店を営んでいた。このままではお店が続けられないと思い、篠塚さんは弟の大介さんと2人でラーメン屋を開こうと話し合う。ラーメン屋なら実家の店がそのまま使えると思ったからだ。
こうして2009年5月に「中華蕎麦 サンジ」をオープン。大介さんは近くの焼きそば屋で製麺機を借りて、麺の勉強をした。
極太のつけ麺を提供すると決めていたので、製麺所の麺ではなく自家製麺とハナから決めていたのであった。ある種のミーハー心から始まったラーメン作りだった
栃木を含めた北関東はこれといった誇れるものがなく、おいしいラーメン店を作ることで誇れる街にしようと立ち上がった。
しかし、オープンして半年以上は閑古鳥だった。仕込んだスープや具材はほとんど廃棄する日々が続いた。
努力の末に行列店になるも、閉店を余儀なくされる
しかし、粘り強く営業を続けていくと、少しずつ口コミが広がるようになり、徐々にお客さんが増えていった。その後行列ができるようになったが、駐車場問題で近隣からクレームが出るようになり、従業員の問題も重なって、閉店を余儀なくされる。
「私は地域貢献のために『サンジ』を作りました。しかし、行列や駐車場問題で心が折れました。近隣の人たちに必要とされていないお店だったんだと思いました。親父と言い合いをしてまでオープンしたお店だったのに、閉めることになり本当に悔しかったです。
『ラーメン屋になるのが夢だった』と皆さんよく言いますが、大体の人がセカンドキャリアでラーメンを選んでいることが多いと思います。夢ならばセカンドキャリアではなく最初から目指すもの。
ですので、私は簡単にラーメン屋が夢だったとは言えません。でも、閉店は物凄く悔しかった」(篠塚さん)
「サンジ」を閉店し、しばらくひきこもりの日々が続く。そんななか、家でアメリカのポートランドの飲食店やデンマーク・コペンハーゲンの「ノーマ」の映像を観て、何もない場所でも料理を作る「人」の魅力があれば素晴らしいお店を作ることができることを知る。
同じ頃、東京のカフェで「ただいま従業員は募集しておりません」という貼り紙を見て大変ショックを受ける。
ラーメン店はこんなに人が足りていないのに、カフェの求人には断らなければいけないほど応募が来ているのである。ラーメン店で働きたい人はなぜこんなに少ないんだろうと思った。
篠塚さんは小山の地で、東京の人たちを食べに来させられるお店を作ろうと決意する。
そうして、大行列店は産声をあげた
こうして、2019年「YOKOKURA STOREHOUSE」をオープン。
場所は小山市の横倉工業団地のど真ん中。工場の立ち並ぶ中、地域にあった外装、内装を模索し、インダストリアルな雰囲気のお店に仕上げた。地域や景観にあったお店作りを目指して作った。
「私はこの店では“従業員が働きたいと思える店作り”その一点にこだわりました。『こいつらと一緒に働きたい!』と思える店です。
ラーメンの味で業界を引っ張っている人はすでにいらっしゃいますし、手軽なお店で多くのお客さんを集めているラーメン店もたくさんあります。
その中で、自分にできることは何か、業界に何が残せるだろうと考えて、“働きたくなるラーメン店を作る”ということを目標にしました」(篠塚さん)
ラーメン店というとどうしても「修業」「独立」という言葉がついて回るが、ラーメン店で働くということにおいて選択肢はそれだけではない。このまま働き手がいなくなってはラーメンの歴史は止まってしまう。篠塚さんは「チームで働ける店」を目指した
ラーメンだけでなく、店内にコーヒースタンドも作るなど新しい世界観を模索した。
オープン直後にコロナが襲来
しかし、オープンしてすぐコロナ禍に突入した。ご飯ものを出したり、テイクアウトをやったりといろいろと試行錯誤したがすぐにキャッシュが溶けてしまった。その後、お客さんに求められているものを磨いていかないといけないということで、メニューを絞って営業を続けた。
すると、2020年の途中から徐々にお客さんが戻ってくるようになった。神様が「生きろ」と言ってくれているんだと篠塚さんは気持ちを取り戻した。この頃、新たな仲間として鈴木貴也さんが加わり、店の雰囲気が一気に良くなってきた。
「飲食店をやっていてノーゲス(お客さんが一人もいない状態)のときがあると思います。ノーゲスは世界に80億人の人がいて誰一人に必要とされていないということ。これは正気の沙汰ではありません。
こう考えてみると、来てくれるお客さん一人ひとりに感謝するようになります。
うちは幸いにもお客さんが毎日来てくださるお店ですが、行列のときも行列をさばくマインドではなく、最後の一人のお客さんにまで来てくれてありがとうという気持ちになるんです」(篠塚さん)
YOKOKURA STOREHOUSE」はオープン前から20人ほど行列し、営業時間内に行列が途絶えることはない。週末は駐車場待ちも出るほどの大盛況だが、行列に並んだ最後の一人が食べ終わるまでしっかりと営業する。
売り切れ終了はできるだけないように努力し、営業時間は営業のために使い、その時間内に片付け始めることはないように心がけている。
「私は人との出会いに恵まれました。そこに自ずとお客さんの数もついてきたと思っています。“人”は食材以上に大きな価値です。この店を作ってから人が好きになりました。
チームが夢中になれるものならラーメンじゃなくても何でもいいと思っています。お客さんたちが『こいつら頑張ってるな』『いいチームだな』と思ってくれる店が理想です」(篠塚さん)
従業員の鈴木さんも「お金や名誉よりも、この店で働く楽しさや働き甲斐が大事だと感じるようになった」と話す。
今回の「つけ麺日本一決定戦」に出場することにおいても、迷いはあった。果たして日本一を獲る必要があるのかという議論にもなった。
しかし、篠塚さんはイベントで結果を残して、授賞式でラーメン店で働くことの誇りを伝えたかった。メンバーにもそれを伝えて、全力で出場することにした。
「イベントに出ていろんな人とつながれて、自分と同じような考えを持つ方が他にもいることを知りました。これがきっかけで同志が増えたら、日本中にいいお店が増えていくかもしれないなと思っています。我々は日本一に胡坐をかくことはありません。
先人には敬意を持ち、たとえ僕らが絶望に打ちのめされたとしても若者に希望を与えられる世代でありたいと思いますし、若い世代に『真剣に働くと仕事も面白い』ということを体現し、伝えたいと思っています」(篠塚さん)
後輩の世代になっても、誇れる店であり続けたい
日本一を獲得したら終わりではなく、常に全盛期ではないと意味がないと篠塚さんは考えている。これはたとえ、篠塚さんが引退し、後輩の時代になっても変わらない。
「YOKOKURA STOREHOUSE」は、小山の街にとって誇れるお店であることを目指し続けているのだ。
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