東京都下の友だちを訪ねた。
といっても私が勝手に彼の家に行くと決めて、思い出したかのように向かっただけのことなのだけれど。
6年前の秋に、知り合ってから50年の節目の昼食を三人で上野でした。そして男三人、カラオケでなつかしい歌を数々がなった。次は新宿で会おうと決め、御徒町駅を後にした。
それから年が明けて平成30年の1月、その新宿の再集合には彼は姿を見せなかった。そして連絡も途切れ、やがてその夏には家の電話まで外された。携帯電話をもたない彼への唯一の連絡手段を遮断され、やむを得ず住所と昔訪ねた記憶をもとに、彼の消息をつかみに出かけたというわけである。
どうして無断で電話を外したのかを聞きたかったし、その後どうしているのかとても気になっていることも伝えたかった。6年前に会ったときに体が悪そうなのはすぐわかったから、ほんとうはそれも尋ねたかった。
しかし彼はもう3ヶ月近くもいず、一人暮らしのため近所の方もだいぶ心配しておられた。それでも一週間前には帰っていたとか。結局一度帰宅してまた出かけたということである。身寄りがないのに、どこへ行ったというのであろうか。
離れていった友にはそれなりのわけがあるとは思う。言葉には言いあらわせない、姿としては見えないそれなりの理由がある。だからその友を取り戻そうとは思わない。もう一度会えたらなと思う友がたとえいなくなったとしても、淋しいとは思わない。
一方通行になった友だちはもう違う人にきっと成長しているだろう。そうあってほしいなと思う。
いつまでも過去にこだわるなと言う人がいるけれど、それもまた違ってると思う。過去を追うのではなく、おたがいに同じ世の中でそれぞれの道を歩いているだけのことだと考えたい。
縁あって知り合い、今は別の人になっている。そういう人がいて、おたがいに別の所で生きていると思って、自分に思いこませてみれば、それはそれでまた楽しい。
そして今いるまわりの人に感謝しながら生きていければ、もうこれからは十分と思っている。冷たい心のさわやかさも、少しは必要だと思うことにしている。やせ我慢に聞こえるかもしれないが。
「つれづれ(125)古い友だちを訪ねて行ったけれど」