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大型台風16号が9/30~10/1にかけて関東地方に接近、進路予想に反し逸れてくれれば良いが・・・
では、台風が来る前に走っておこう。
と、言っても何ら目的地がありません・・・
この前、越生の法恩寺で「澁澤平九郎埋首之碑」を見た、今日は「澁澤平九郎自決之地の碑」を見に行ってみよう。
渋沢 平九郎(しぶさわ へいくろう、弘化4年(1847年)11月7日~慶応4年(1868年)5月23日)は、江戸時代末期(幕末)の豪農出身の武士。兄に富岡製糸場の初代工場長となった尾高惇忠と尾高長七郎、従兄に渋沢誠一郎(喜作)、渋沢栄一がいる。渋沢栄一の見立養子となり、幕臣の子として彰義隊・彰義隊に参加して飯能戦争を戦ったが敗北し、黒山村(現:越生町)にて自害した。
8時29分出発です。
往路は狭山市~武蔵高萩~越生と走って行きます。
暫し走って「入間川の狭山大橋」から上流を望む。
「智光山公園」で写真です。
道中の道端に咲いていたのは群生する「イヌサフラン」です。
やがて越生の「法恩寺」に到着する。
・・飯能戦争等、説明すると長くなるので省略・・
振武軍は敗北し、平九郎は一人逃れて故郷に向う途中、顔振峠を黒山に下った所で官軍に遭い、小刀を振って三名を傷つけて闘ったが遂に切腹して果てた。官軍はその首を越生の法恩寺の門前に梟し、遺骸は村の人々によって黒山の全洞院に葬られた。
「澁澤平九郎埋首之碑」です。この碑は、昭和39年に建立された。
では次に向かいます。
暫し走って、着いた所は「全洞院」です。
「お墓」に行きます。
明治7年(1874)、渋沢平九郎の「骸」は法恩寺の「首」とともに、谷中の渋沢栄一家の墓に移されました。その後この墓石が建てられた。
そして「澁澤平九郎自決之地碑」に到着する。
慶応4年(1868)5月23日、飯能戦争に敗れた振武軍隊士の一人(平九郎)が顔振峠を下って黒山村へ逃れてきた。官軍の一隊と遭遇した隊士は、孤軍奮闘後、抗し難きを悟り路傍の岩に座って自決した。
孤軍奮闘後、抗し難きを悟り路傍の岩(自刃岩)↑ に座って自決した。
整理すると・・・
慶応4年(1868)5月23日、飯能戦争に敗れた振武軍隊士の一人(平九郎)が顔振峠を下って黒山村へ逃れてきた。官軍の一隊と遭遇した隊士は、孤軍奮闘後、抗し難きを悟り路傍の岩に座って自決した。
その首は越生今市宿に運ばれ、高札場にさらされた。
黒山の村人たちはあわれに思い、骸を全洞院に葬った。一方越生今市宿では、横田佐兵衛と島野喜兵衛が、ひそかに首を法恩寺に埋葬した。名も知らぬ青年隊士を、黒山では「脱走様(だっそさま)」、越生では「お首様」と呼び、不運な境遇に同情したという。
その後、この隊士が振武軍副頭取尾高惇忠の弟 平九郎、当時22歳であったことが判明した。
明治7年(1874)、平九郎の「骸」は法恩寺の「首」とともに、谷中の渋沢栄一家の墓に移された。
これで今日の予定は終了です。
黒山三滝は、男滝・女滝・天狗滝の3つの総称。
久々に寄ってみます!!
こんなオブジェもある。
ここからは、自転車は押して行きます。
「天狗滝」です。
「女滝」
「男滝」
早々と退散する。
梅畑の「ヒガンバナ」は末期です。
何処かで食事と思ったが・・・混んでいます。
結局はコンビニです。
暫し走って、「航空記念公園」です。
13時40分帰還です。
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