心が身体を動かす
心身は本来一つであり、この相対的世界においては心と身体を生じ、心には心の法則があり、身体には身体の法則がある。だから、本来一つのものだからといって、これらをミックスすることはできない。宗教家は「頭が痛いのは、心で痛いと思うから痛いのであって、痛くないと思えば治る」という。まったく無茶苦茶な話である。いくら痛くないと思っても、現に痛いものは痛いのである。また、ある人は「スポーツをすれば立派な人間になる」という。そうだろうか。身体を鍛えるだけでは、立派な人間になる保障などどこにもないのだ。スポーツする者で氣の弱いものもいるし、悪いことをする者もいる。心は心の法則によらねば立派にならないし、身体は身体の法則によらねば立派にならないのである。心の法則と身体の法則が車の車輪のごとく一致して、初めて人間本来の力も生じ、立派な人間にもなるのである。したがって、その両法則をどうやって一致させるかが問題になる。自由に飛び回る心と、制限を受けている身体とを行き当たりばったりに統一することなど、とうていできるものではない。どちらかを中心にしなければならない。どちらを中心にするかで、その修行のしかたも大いに変わってくる。心身は一つのもの、いずれが正しく、いずれが重要ということはない。
共に別け隔てできるものではないが、作用の上からいって、どちらがどちらを動かしているかの問題で、唯心論か唯物論かで学者たちが論争を繰り返してきた問題である。まず、身体が主で、心がこれに従うという説から検討してみよう。「健全な身体に健全な精神が宿る」これは身体が心を左右しているという考えに根ざしている。だから各地に体育館が建設されているのだが、現実に非行に走る青少年は減りそうもない。また、病気をすると心が弱り、年をとると弱氣になる。これも、たしかに一面の真理である。心と身体は相互関係にあるからだ。身体を身動きできないように固定する。さて、これで心は動かないようになっただろうか、これは明らかにノである。身体が動けなくなると、心はよけいに動揺して動く、医者に絶対安静などといわれると、身体が動けない分だけ不安になってくるものである。次に、心を止めておいて、身体を動かさないことができるか。これはイエスである。心でちょっと考えたことも、みんな身体に直接影響する。心をとどめたら身体は動けない。よく催眠術で、「あなたは椅子から立ち上がることができない」などといわれて、本当に立ち上がることができなくなったりする。これは、施術者がかけられる人を朦朧状態にしておいて、現在(顕在)意識を眠らせ、直接、潜在に命令しているからである。催眠術にかけられた人は、自分で動けないと思い込んでしまうと、実際に立ち上がれなくなる。また、催眠術など使わなくとも、自分で自分に「腰が椅子にくっついてしまった」と暗示をかければ、実際に立ち上がれなくなる。「そんなことあるものか」と思えば、すぐ立ち上がれる。要するに、こうした催眠術は心が身体を動かすという理を応用しているにすぎないのである。
そして、催眠術者はよく、「バカと何とかは催眠術にかからない」などという。それは、どちらもこっちのいうとおりに考えてくれないからである。もっとも、かけられる側は、「ここで催眠術にかからないと、バカだと思われてしまう」という心配があるから、自分でかかろうと努力するという、うまい暗示の効果があることは事実である。身体はいつも外界の影響を受て変化している。その身体が心を動かしているのなら、心はいつも動揺し、安定するひまがない。身体か病になれば、心も弱くなり、身体か年をとれば心も弱くなる。「もう50歳だ。そろそろ身体にガタが来る頃だ」ということになる。しかし、年はとっても心まで年をとる必要はない。「身に病ありとて、心必ずしも病まず。身は逆境に存りとて、心必ずしも逆境に在らず」といった強い心を持っていれば、身体はこれについてくる。逆境も乗り越え、病氣をも克服する強さを持つことができるのだ。心は身体によれねば存在しがたく、からだは心によらねば動くことはできない。したがって、まず心の法則を確立し、身体の法則をこれに合わせるようにする。すなわち、「マインド・オヘバー・マター」、心が身体を動かすことを知らねばならない。
心身は本来一つであり、この相対的世界においては心と身体を生じ、心には心の法則があり、身体には身体の法則がある。だから、本来一つのものだからといって、これらをミックスすることはできない。宗教家は「頭が痛いのは、心で痛いと思うから痛いのであって、痛くないと思えば治る」という。まったく無茶苦茶な話である。いくら痛くないと思っても、現に痛いものは痛いのである。また、ある人は「スポーツをすれば立派な人間になる」という。そうだろうか。身体を鍛えるだけでは、立派な人間になる保障などどこにもないのだ。スポーツする者で氣の弱いものもいるし、悪いことをする者もいる。心は心の法則によらねば立派にならないし、身体は身体の法則によらねば立派にならないのである。心の法則と身体の法則が車の車輪のごとく一致して、初めて人間本来の力も生じ、立派な人間にもなるのである。したがって、その両法則をどうやって一致させるかが問題になる。自由に飛び回る心と、制限を受けている身体とを行き当たりばったりに統一することなど、とうていできるものではない。どちらかを中心にしなければならない。どちらを中心にするかで、その修行のしかたも大いに変わってくる。心身は一つのもの、いずれが正しく、いずれが重要ということはない。
共に別け隔てできるものではないが、作用の上からいって、どちらがどちらを動かしているかの問題で、唯心論か唯物論かで学者たちが論争を繰り返してきた問題である。まず、身体が主で、心がこれに従うという説から検討してみよう。「健全な身体に健全な精神が宿る」これは身体が心を左右しているという考えに根ざしている。だから各地に体育館が建設されているのだが、現実に非行に走る青少年は減りそうもない。また、病気をすると心が弱り、年をとると弱氣になる。これも、たしかに一面の真理である。心と身体は相互関係にあるからだ。身体を身動きできないように固定する。さて、これで心は動かないようになっただろうか、これは明らかにノである。身体が動けなくなると、心はよけいに動揺して動く、医者に絶対安静などといわれると、身体が動けない分だけ不安になってくるものである。次に、心を止めておいて、身体を動かさないことができるか。これはイエスである。心でちょっと考えたことも、みんな身体に直接影響する。心をとどめたら身体は動けない。よく催眠術で、「あなたは椅子から立ち上がることができない」などといわれて、本当に立ち上がることができなくなったりする。これは、施術者がかけられる人を朦朧状態にしておいて、現在(顕在)意識を眠らせ、直接、潜在に命令しているからである。催眠術にかけられた人は、自分で動けないと思い込んでしまうと、実際に立ち上がれなくなる。また、催眠術など使わなくとも、自分で自分に「腰が椅子にくっついてしまった」と暗示をかければ、実際に立ち上がれなくなる。「そんなことあるものか」と思えば、すぐ立ち上がれる。要するに、こうした催眠術は心が身体を動かすという理を応用しているにすぎないのである。
そして、催眠術者はよく、「バカと何とかは催眠術にかからない」などという。それは、どちらもこっちのいうとおりに考えてくれないからである。もっとも、かけられる側は、「ここで催眠術にかからないと、バカだと思われてしまう」という心配があるから、自分でかかろうと努力するという、うまい暗示の効果があることは事実である。身体はいつも外界の影響を受て変化している。その身体が心を動かしているのなら、心はいつも動揺し、安定するひまがない。身体か病になれば、心も弱くなり、身体か年をとれば心も弱くなる。「もう50歳だ。そろそろ身体にガタが来る頃だ」ということになる。しかし、年はとっても心まで年をとる必要はない。「身に病ありとて、心必ずしも病まず。身は逆境に存りとて、心必ずしも逆境に在らず」といった強い心を持っていれば、身体はこれについてくる。逆境も乗り越え、病氣をも克服する強さを持つことができるのだ。心は身体によれねば存在しがたく、からだは心によらねば動くことはできない。したがって、まず心の法則を確立し、身体の法則をこれに合わせるようにする。すなわち、「マインド・オヘバー・マター」、心が身体を動かすことを知らねばならない。
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