母の遺言
母は 秋が来るの待たずに死んだ
病院の屋上で仰いだ雲は 低く灰色に湿っていた
弟が身の立つようにしてやってくれと言うのが
母の言い遺した頼みだった
自分に言い残したのは それだけだった
俺の身はどうなのだと思った
病院の屋上でのあの夏の日から
自分の前を何十回も その後の夏が過ぎていった
何時までも続いた今年の暑い夏は
十月になっても まだ余熱を残している
母が案じていた弟には 今年の春 女の子の孫が出来た
秋に 遅ればせに挙げるという姪の結婚式の招待は 遠慮した
今年の自分の夏が終わり 秋が来るのかどうか分からない
病院の屋上の あの夏の日が終わらないように
母の言う弟の身が はたして立ったのか 立たなかったのか
自分には分からない
自分には 出来ることしか出来なかった
自分には 出来ることをしないことしか出来なかった
母が死に 父が死んで おそらく それで それだけで
弟の身も 立ったのだ
母が死に 父が死んで おそらく それで それだけで
俺の身も 立っていたのだ