今から四年前の八月。急にアメリカへの帰国が決まったフレッドから、あることを頼まれた。
「アメリカへ帰国する前に、どうしてもこれを持ち主に返したいんだ。」
彼が僕に見せたものは、第二次世界大戦時に作られたと思われる絹製の国旗だった。その日の丸の周囲には、戦場へ赴く若者へ送る多くの人々のメッセージが書かれていた。
フレッドは僕より2歳上のアメリカ人だ。だから、彼が、直接この絹の旗を手にいれたわけではない。彼が日本へ初めて来たのは、20年前である。その絹の旗は、彼の祖父からその時手渡されたものだった。
「フレッド。わしはこの旗をなんとしてでも、持ち主のもとに返してあげたんだ。だが、わしはもう長くない。だから、自分の手でこれを返すことはできないだろう。でも、お前ならいつか持ち主を探しだせるかもしれない。日本へ行ったら、持ち主を探して、返しておくれ。頼んだよ・・・。」
フレッドの祖父は癌だった。彼は孫のフレッドに自らの想いを託したのだった。しかし、彼の祖父は、その絹の旗をどこでどのようにして手に入れたのかを、決して語ることなく亡くなってしまった。
僕らは、その絹の旗に書かれてある○○神社という名前を手がかりに探すことにしたが、フレッドが帰国するまでの残り時間は10日あまりしかない。僕には、それがとてつもなく気の遠くなるようなことに感じた。しかし、インターネットで、それらしき神社が熊本県に存在するということがわかったのだ。
だが同時に、フレッドはあることも心配していた。その絹の旗に名の書かれてある奥さんと思われる女性は、今では別の人生を歩んでいるかもしれない。彼がコンタクトすることによって、今の生活を乱すことになるかもしれない。突然アメリカ人が尋ねてきて、どのような反応を示すのだろうか、というような事だった。
そんな心配はあるものの、我々は思い切ってその○○神社に電話をかけ、そのような事情も含めて説明しすることに決めた。我々は、ただこの旗を持ち主のもとへ届けたいだけなこと、そしてその行為が持ち主の人生を傷つけてしまうような事態になる可能性があるのであれば、あきらめるつもりであることも。
最初に、○○神社へ電話をしてから約7日目。先方から連絡があった。事情を説明しておいた○○神主からの電話であった。それは、フレッドが帰国する3日前のことだった。
「みつかりましたよ。奥さんは今もご健在です。大変驚かれています。それと同時に、はやりご心配されていました。でも、旗は返せますよ。」
当日の熊本は、その年の国体の開催地ということで、その開催前日と重なり、東京からの直行便が取れず、我々は早朝の羽田発・福岡行の飛行機に乗り、そこからローカル線を乗り継いで目的地まで行かなければならなかった。フレッドにとては、帰国2日前ということもあり、東京と熊本間を日帰りしなければならないという強行軍の旅でもあった。
僕らは、早朝の羽田発福岡行きの飛行機に乗り、そして福岡からローカル線に乗り継ぎ熊本へと向かうことしにした。その旅の間、普段は陽気なフレッドがずっと無口だった。そして時折思い出したように、「奥さんは喜ぶだろうか?迷惑なことじゃないだろうか?アメリカ人に突然こんなものを渡されて彼女を傷つけはしいないだろうか?」、と僕に問い掛けた。彼は旅の途中、何度も同じ質問を繰り返した。
「大丈夫。きっと喜ぶよ。心配することはない。」その度に、僕は自分自身の内にもある同じ不安感に気づかれないように、彼に言った。
それは、とても夏の陽射しの強い日だった。
対面の場所は、○○神社のある○○村役場に設定されていた。半日以上をかけた長い旅を終え、ようやく○○村役場に到着した僕らを待ちうけていたのは、○○神社の神主○○さんだった。そして僕らは、到着するなりすぐさま、助役室へと案内された。
「わざわざ遠いところまでお越しくださって、ありがとうございます。役場の助役が今日は助役室を提供してくれていますので、早速、ご案内します。」
「中にはもう、奥さんが来ていらっしゃいます。」助役室の前で、神主○○さんはフレッドにその扉を開けるよう促すように云った。フレッドは、ゆっくりとそのドアを開た。開けられた扉から広がる助役室には、凛とした一人の小柄な老婦人が立っていた。
フレッドは、彼女の姿を見た瞬間、今までの長旅の心配事がまるで嘘であるかのように、とても豊かな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女のもとへ近づいていった。その老婦人はただ無言のまま涙を浮かべた目で、次第に近づく背の高いフレッドを見つめていた。そして、言葉ひとつかわさぬままフレッドは、老婦人を優しくだきしめた。彼女はフレッドの胸で泣いていた。
その部屋にいた者誰もが声を発さなかった。最初の言葉は、彼ら二人が発するものであると誰もがそう感じた。外から聞こえる真夏の蝉の声だけが、二人を包み込んだ。
「今、まぶたを閉じても、この旗のどこに、何が書かれているかはっきりと憶えています。」老婦人は時折こぼれる涙をぬぐいながらその旗の思い出を静かに語り始めた。
この絹の旗は、主人を送り出す宴が終り、二人だけになった夜、渡しましたものです。それは、召集令状が来たその日の夜のことでした。それが二人で過ごした最後の夜です。そして翌日、彼は出兵して行きました。召集されて暫くは、彼は同じ熊本県内の駐屯地にいましたが逢うことは許されませんでした。しかし、いよいよ戦地へと出兵する夜。軍隊の知り合いを通じ、その夜彼が戦地へと旅立つことを聞きました。彼と逢うことは許されないが、彼に汽車の窓をあけておくように伝えておくので、開いている窓があるとそこに彼がいると思いなさいというものでした。
私は、駅から離れた高台から、いつ通るかもやしれない汽車を朝から待ち続けました。待っても待ってもそれらしき汽車はなく結局夜になってしまいました。そして夜になり、それらしき列車が遠くに見えたのです。そして、その列車の一つの窓から灯りがこぼれていたのです。私にとって、あの人の最後の姿は、遠くを走る汽車の車窓から洩れる灯りです。その灯りの中にあの人がいたのかどうかはわかりません。でも、私は、あの灯の中に、必ず私を見つめているあの人がいるんだと信じて、線香花火のように儚(はかな)く遠くへ消えゆく夜汽車の灯りに向かって、懸命に手を振り続けました。それは、私が21歳の時でした。あの人の妻になった、半年後のことでした。
その老婦人は、彼女の膝におかれた「絹の旗」に、その穏やかな眼差しを落としながら、亡き夫との「最後の思い出」を静かに語った。それは時折、蝉の鳴き声の聞こえる八月の午後のことだった。
「随分と迷いましたが、今日ここに来て良かったと思っています。」老婦人は、話を続けた。
「私は、主人を失ったあと、再婚しました。再婚先へは自分が再婚であったことは、今まで、隠してきました。再婚相手はとても良い人で、子供や孫にも恵まれ、幸せな人生を送ってこれたと思っています。その再婚相手も数年前に亡くなりましたが、今も子や孫達に囲まれ、幸せに暮らしています。」
そういいながら、彼女の横に座る、大学生の孫にその穏やかな視線を移した。
「これで、私の戦争は終わりました。ずっと終わらなかったものが、今やっと終わりました。たしかに、辛い記憶ですが、今こうして、こんなに暖かい人に出会え、ほんとうに幸せです。」 我々は、静かに彼女の、話を聞いた。
「今日、ここに来る決心をした時、私は子供や孫達に、私の物語を打ち明けました。今日ここへは、その孫の一人が連れてきてくれました。そして今私は、自分だけのためのだけでなく、孫達のためにも、私の話を伝えておくことが、私の仕事だと思えるようになりました。」
静かに彼女の話を聞いていた彼女の孫は、恥かしそうに微笑み返した。
東京への帰路は、熊本から羽田への航空便が取れた。○○村役場から熊本空港へは、車で約1時間の旅でだった。長旅にもかかわらず、我々の滞在時間は一時間ほどだった。帰路の予定の便に乗るため、我々は空港へと急いだ。だが、空港へ近づくにつれ、周辺道路の警備が厳しくなった。
「おそらく、明日から熊本国体が始まるからだと思う。」私は、フレッドに説明した。しかし、空港へ近づくにつれ、それは何か少し違うように思えてきた。路辺道路には警察・自衛官の数が次第に多くなっていったからだ。
空港に到着すると、そこには何かを待つ人たちが溢れていた。皆それぞれが小さな国旗を持っていた。そしてその理由は、我々が搭乗する予定の熊本から羽田行き便が到着すると明らかになった。空港ゲートには何かを待つ人々で溢れかえっている。旅人の我々はその意味が理解できなかったが、人々が笑顔を投げかけているその先の到着ゲートを人々と同じように見守っていた。
その時である、ゲートから現われたのは、穏やかな笑顔を浮かべながら出てくる皇太子殿下の姿だった。
そしてその次の瞬間、待っていた人々からは溢れるばかりの笑顔がこぼれ、その割れんばかりの歓声が空港中に沸き起こった。フレッドもとても幸せそうな笑顔を浮かべながら手を振っていた。
その夏のその日、その瞬間、熊本空港には、数えきれないくらい沢山の小さな旗が、幸せと平和の象徴としていつまでも揺れていた。
「 不幸な物語のあとには、かならず幸福な人生が出番をまっています。」
(寺山修司)
***あとがき***
あまりにできすぎたような話で、今思い返すと、それは僕が観た夢物語ではなかったかと錯覚を起しそうになってしまう時もある。だが、これは事実としてすべて僕が見たものある。
時代の潮流にその人生を狂わされてしまった一人の老婦人と、異国の地で命を落としたその夫との哀しい最期の思い出。生きて帰ってきてほしいという祈りを込めた絹の旗は、その願いは届かず敵国であったアメリカ人の手に渡ってしまう。それが、半世紀以上という時の流れと、二つの世代を超えて、その旗は遥か海を渡って、再び持ち主のもとへ帰ることになる。
この日、かつて哀しみの象徴であったその旗は、今では平和の象徴として揺れていた。
不幸と幸福、哀しみと喜び、祈りと失意。人の人生というものは長い視線でみると、その運命というもののなかに、これらをどこかで帳尻があわせるような方程式が、そのどこかに隠されているのかもしれない、と僕は思う。
2005年に書いたものになります。