風の吹くまま

18年ぶりに再開しました。再投稿もありますが、ご訪問ありがとうございます。 

★祈りの旗

2024-10-06 | 忘れえぬ人々

 今から四年前の八月。急にアメリカへの帰国が決まったフレッドから、あることを頼まれた。
 「アメリカへ帰国する前に、どうしてもこれを持ち主に返したいんだ。」
 彼が僕に見せたものは、第二次世界大戦時に作られたと思われる絹製の国旗だった。その日の丸の周囲には、戦場へ赴く若者へ送る多くの人々のメッセージが書かれていた。
 フレッドは僕より2歳上のアメリカ人だ。だから、彼が、直接この絹の旗を手にいれたわけではない。彼が日本へ初めて来たのは、20年前である。その絹の旗は、彼の祖父からその時手渡されたものだった。
 「フレッド。わしはこの旗をなんとしてでも、持ち主のもとに返してあげたんだ。だが、わしはもう長くない。だから、自分の手でこれを返すことはできないだろう。でも、お前ならいつか持ち主を探しだせるかもしれない。日本へ行ったら、持ち主を探して、返しておくれ。頼んだよ・・・。」
 フレッドの祖父は癌だった。彼は孫のフレッドに自らの想いを託したのだった。しかし、彼の祖父は、その絹の旗をどこでどのようにして手に入れたのかを、決して語ることなく亡くなってしまった。

 僕らは、その絹の旗に書かれてある○○神社という名前を手がかりに探すことにしたが、フレッドが帰国するまでの残り時間は10日あまりしかない。僕には、それがとてつもなく気の遠くなるようなことに感じた。しかし、インターネットで、それらしき神社が熊本県に存在するということがわかったのだ。
 だが同時に、フレッドはあることも心配していた。その絹の旗に名の書かれてある奥さんと思われる女性は、今では別の人生を歩んでいるかもしれない。彼がコンタクトすることによって、今の生活を乱すことになるかもしれない。突然アメリカ人が尋ねてきて、どのような反応を示すのだろうか、というような事だった。
 そんな心配はあるものの、我々は思い切ってその○○神社に電話をかけ、そのような事情も含めて説明しすることに決めた。我々は、ただこの旗を持ち主のもとへ届けたいだけなこと、そしてその行為が持ち主の人生を傷つけてしまうような事態になる可能性があるのであれば、あきらめるつもりであることも。

 最初に、○○神社へ電話をしてから約7日目。先方から連絡があった。事情を説明しておいた○○神主からの電話であった。それは、フレッドが帰国する3日前のことだった。
 「みつかりましたよ。奥さんは今もご健在です。大変驚かれています。それと同時に、はやりご心配されていました。でも、旗は返せますよ。」


 
当日の熊本は、その年の国体の開催地ということで、その開催前日と重なり、東京からの直行便が取れず、我々は早朝の羽田発・福岡行の飛行機に乗り、そこからローカル線を乗り継いで目的地まで行かなければならなかった。フレッドにとては、帰国2日前ということもあり、東京と熊本間を日帰りしなければならないという強行軍の旅でもあった。
 僕らは、早朝の羽田発福岡行きの飛行機に乗り、そして福岡からローカル線に乗り継ぎ熊本へと向かうことしにした。その旅の間、普段は陽気なフレッドがずっと無口だった。そして時折思い出したように、「奥さんは喜ぶだろうか?迷惑なことじゃないだろうか?アメリカ人に突然こんなものを渡されて彼女を傷つけはしいないだろうか?」、と僕に問い掛けた。彼は旅の途中、何度も同じ質問を繰り返した。

 「大丈夫。きっと喜ぶよ。心配することはない。」その度に、僕は自分自身の内にもある同じ不安感に気づかれないように、彼に言った。
 それは、とても夏の陽射しの強い日だった。

 
 対面の場所は、○○神社のある○○村役場に設定されていた。半日以上をかけた長い旅を終え、ようやく○○村役場に到着した僕らを待ちうけていたのは、○○神社の神主○○さんだった。そして僕らは、到着するなりすぐさま、助役室へと案内された。

 「わざわざ遠いところまでお越しくださって、ありがとうございます。役場の助役が今日は助役室を提供してくれていますので、早速、ご案内します。」

 「中にはもう、奥さんが来ていらっしゃいます。」助役室の前で、神主○○さんはフレッドにその扉を開けるよう促すように云った。フレッドは、ゆっくりとそのドアを開た。開けられた扉から広がる助役室には、凛とした一人の小柄な老婦人が立っていた。
 フレッドは、彼女の姿を見た瞬間、今までの長旅の心配事がまるで嘘であるかのように、とても豊かな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女のもとへ近づいていった。その老婦人はただ無言のまま涙を浮かべた目で、次第に近づく背の高いフレッドを見つめていた。そして、言葉ひとつかわさぬままフレッドは、老婦人を優しくだきしめた。彼女はフレッドの胸で泣いていた。
 その部屋にいた者誰もが声を発さなかった。最初の言葉は、彼ら二人が発するものであると誰もがそう感じた。外から聞こえる真夏の蝉の声だけが、二人を包み込んだ。

 
 「今、まぶたを閉じても、この旗のどこに、何が書かれているかはっきりと憶えています。」老婦人は時折こぼれる涙をぬぐいながらその旗の思い出を静かに語り始めた。
 
この絹の旗は、主人を送り出す宴が終り、二人だけになった夜、渡しましたものです。それは、召集令状が来たその日の夜のことでした。それが二人で過ごした最後の夜です。そして翌日、彼は出兵して行きました。召集されて暫くは、彼は同じ熊本県内の駐屯地にいましたが逢うことは許されませんでした。しかし、いよいよ戦地へと出兵する夜。軍隊の知り合いを通じ、その夜彼が戦地へと旅立つことを聞きました。彼と逢うことは許されないが、彼に汽車の窓をあけておくように伝えておくので、開いている窓があるとそこに彼がいると思いなさいというものでした。
 私は、駅から離れた高台から、いつ通るかもやしれない汽車を朝から待ち続けました。待っても待ってもそれらしき汽車はなく結局夜になってしまいました。そして夜になり、それらしき列車が遠くに見えたのです。そして、その列車の一つの窓から灯りがこぼれていたのです。私にとって、あの人の最後の姿は、遠くを走る汽車の車窓から洩れる灯りです。その灯りの中にあの人がいたのかどうかはわかりません。でも、私は、あの灯の中に、必ず私を見つめているあの人がいるんだと信じて、線香花
火のように儚(はかな)く遠くへ消えゆく夜汽車の灯りに向かって、懸命に手を振り続けました。それは、私が21歳の時でした。あの人の妻になった、半年後のことでした。 
 その老婦人は、彼女の膝におかれた「絹の旗」に、その穏やかな眼差しを落としながら、亡き夫との「最後の思い出」を静かに語った。それは時折、蝉の鳴き声の聞こえる八月の午後のことだった。


 「随分と迷いましたが、今日ここに来て良かったと思っています。」老婦人は、話を続けた。
 「私は、主人を失ったあと、再婚しました。再婚先へは自分が再婚であったことは、今まで、隠してきました。再婚相手はとても良い人で、子供や孫にも恵まれ、幸せな人生を送ってこれたと思っています。その再婚相手も数年前に亡くなりましたが、今も子や孫達に囲まれ、幸せに暮らしています。」
 そういいながら、彼女の横に座る、大学生の孫にその穏やかな視線を移した。

 「これで、私の戦争は終わりました。ずっと終わらなかったものが、今やっと終わりました。たしかに、辛い記憶ですが、今こうして、こんなに暖かい人に出会え、ほんとうに幸せです。」 我々は、静かに彼女の、話を聞いた。
 「今日、ここに来る決心をした時、私は子供や孫達に、私の物語を打ち明けました。今日ここへは、その孫の一人が連れてきてくれました。そして今私は、自分だけのためのだけでなく、孫達のためにも、私の話を伝えておくことが、私の仕事だと思えるようになりました。」
 静かに彼女の話を聞いていた彼女の孫は、恥かしそうに微笑み返した。



 東京への帰路は、熊本から羽田への航空便が取れた。○○村役場から熊本空港へは、車で約1時間の旅でだった。長旅にもかかわらず、我々の滞在時間は一時間ほどだった。帰路の予定の便に乗るため、我々は空港へと急いだ。だが、空港へ近づくにつれ、周辺道路の警備が厳しくなった。
 「おそらく、明日から熊本国体が始まるからだと思う。」私は、フレッドに説明した。しかし、空港へ近づくにつれ、それは何か少し違うように思えてきた。路辺道路には警察・自衛官の数が次第に多くなっていったからだ。

 空港に到着すると、そこには何かを待つ人たちが溢れていた。皆それぞれが小さな国旗を持っていた。そしてその理由は、我々が搭乗する予定の熊本から羽田行き便が到着すると明らかになった。空港ゲートには何かを待つ人々で溢れかえっている。旅人の我々はその意味が理解できなかったが、人々が笑顔を投げかけているその先の到着ゲートを人々と同じように見守っていた。
 その時である、ゲートから現われたのは、穏やかな笑顔を浮かべながら出てくる皇太子殿下の姿だった。
 そしてその次の瞬間、待っていた人々からは溢れるばかりの笑顔がこぼれ、その割れんばかりの歓声が空港中に沸き起こった。フレッドもとても幸せそうな笑顔を浮かべながら手を振っていた。

 その夏のその日、その瞬間、熊本空港には、数えきれないくらい沢山の小さな旗が、幸せと平和の象徴としていつまでも揺れていた。



「 不幸な物語のあとには、かならず幸福な人生が出番をまっています。」
(寺山修司)

***あとがき***

 あまりにできすぎたような話で、今思い返すと、それは僕が観た夢物語ではなかったかと錯覚を起しそうになってしまう時もある。だが、これは事実としてすべて僕が見たものある。 
 時代の潮流にその人生を狂わされてしまった一人の老婦人と、異国の地で命を落としたその夫との哀しい最期の思い出。生きて帰ってきてほしいという祈りを込めた絹の旗は、その願いは届かず敵国であったアメリカ人の手に渡ってしまう。それが、半世紀以上という時の流れと、二つの世代を超えて、その旗は遥か海を渡って、再び持ち主のもとへ帰ることになる。
 この日、かつて哀しみの象徴であったその旗は、今では平和の象徴として揺れていた。

 不幸と幸福、哀しみと喜び、祈りと失意。人の人生というものは長い視線でみると、その運命というもののなかに、これらをどこかで帳尻があわせるような方程式が、そのどこかに隠されているのかもしれない、と僕は思う。


2005年に書いたものになります。

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★少女と母

2024-08-20 | 忘れえぬ人々
毎朝、自宅を出て東急田園都市線T駅に向かう途中、多くの小学生達とすれ違う。

彼らは、僕と逆方向に向かい、約5-10人のグループを組み地元の小学校に通う児童達である。彼らの背丈は、丁度麦くらいでの高さで、列を成した彼らとすれ違うたびに、なにやら麦畑でも歩いているような錯覚になる。

どれもがだいたいは、5-6年生と思われる子供と、1-2年生と見られる幾人かの低学年のグループで構成されており、高学年と思われる児童は、真っ直ぐ小学校向い歩きながらも、時折低学年の子供達が気になるのか、時折振り返っては年下の子供を気にかけながら歩いているが何とも微笑ましい。

そして、そんな子供達とすれ違ったあと、ほぼ必ずあう一人の少女がいる。

彼女は、他の子供達のようにグループで登校せず、母親とみられる女性といつも一緒に歩いているのである。なぜならば、彼女の両足には、ギブスがはめられ、両足共に曲った彼女の足を支えている。一歩歩くたびに彼女の両膝は大きく左右に揺れ、その度に彼女の体全体が大きく不安定に揺れている。

彼女の歩くスピードは、非常に遅く、通常の子供であれば数秒で歩く距離を、彼女の場合数分は掛かっているのではないかと思われる。僕の見る少女の目はいつも真剣で、彼女の額にはいつもうっすらと汗が浮んでいる。

母親と思われる女性は、少女の腕に軽く手を添えながらも少女と同じ歩調で歩き、決して少女の歩行を手助けをしない。少女がどこから通っているのかはわからないが、僕のすれ違う場所に辿り着くだけでも相当の時間を費やしているのだろうと思う。

僕は、この二人が会話を交わしているのを見たことがない。母親と思われる女性は、ただ黙って少女の歩くスピードに合わせて歩いているだけである。少女とすれ違い、暫くして振り替えってみても、彼女は先ほどすれ違った場所とほとんど同じ場所を歩いている。

あなたにとっての通学生活は、随分と過酷なものなんだろうと思う。毎朝他の子供たちより早く家をでて、それでも途中でどんどん抜かれながら学校への道を歩く。しかし、僕には一歩一歩ゆっくり足を進めるあなたが、他の子供たちよりもずっと早く大人への道を駆け上がっているように見えるのです。そして、その6年間の学校生活の中で、学校での授業以上に登校下校の道が与えるものが、いずれあなたにとって大きなものとなるように思えるのです。歩き続けたという自信と、寡黙に支え続けるあなたとあなたの母親との絆・・・。

そんなことを考えながら、僕はまた寝坊してしまったため、早足でT駅に向かうのである。

「人に魚を与えると一日食べることができる。人に魚を釣ることを教えれば一生生きてゆくことができる」
中国故事

2005年に書いたものです
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★先生のシャツ ~ 学校

2005-09-23 | 忘れえぬ人々
小学校入学と同時に、僕の通っていたA市内の市立小学校の花形だった「ブラスバンド」に、なんにも考えずに、「ほれ、しゅしゅしゅ・・・」と入ってしまった。

しかしながら、なんせこの担当のT先生が熱血で、神戸の北区の遠いところから、通勤。そして、毎朝7時から練習開始。噂によると先生は片道2時間かけて、学校に通っていたらしい。

日曜日以外は、夏休みも、冬休みも、春休みも、毎日毎日練習で。あまりのハードさに耐え兼ねて「せんせい、僕(or あたし)辞めます。」など言おうものなら、「バシーーーーン!」とそのオーケストラ・タクトでお尻を叩かれて・・・。それを目にした僕は、びびってしまい、とうとう5年生まで、虫の吐息で続けてしまった。

朝もたとえ5分でも遅刻をしようものなら、タクトでバシーン!何度やっても、思いどうりに演奏できないものなら、タクトでバシーン!・・・とにもかくにも、厳しいT先生であった。先生は、僕らを大人に接するように接した。


僕はその先生の事を今でもはっきり覚えていることが、ひとつある。

T先生の来ているシャツは、きれいに洗濯されているのだが、いつも同じだったことである。

情熱家のT先生のとても厳しい練習でつらいものもあったが、、その同じシャツを見ていると、先生の何かとても質素な部分が、感じられ、とうとう辞めますの一言が言えず、小学校のほとんどの期間を終えた。

子供だったので、よくわからなかったが、T先生は周りの先生からは、あまりよく見られていなかったようだ。ときおりT先生支持派の父兄の話を盗み聞きしたところでは、あまりの情熱家であったため、まわりの先生から、なにやらやっかみみたいなものが存在していたようであった。しかし、こどもだったのでよくわからなかった。

練習はとても厳しく、ほとんど笑わず、常に厳しい接し方をする先生であったが、春休みや夏休みには必ず、こども達を集め、有志の先生方と、僕らをハイキングに連れていってくれた。そういう時の先生は、普段では見られない笑顔で、とても楽しかった記憶として残っている。

とにもかくにも、めちゃちゃくちゃ厳しい先生であったが、先生を悪く言う子供はおらず、僕らは強い絆でつながっていたように思う。僕が、5年生になったと同時に、先生は転勤で別の学校に移動となった。先生のいなくなったブラスバンドは、自然と消滅してしまい、僕の小学校生活の最後の1年は、早起きをせずに済んだのだが、めちゃくちゃ寂しかったのを今でも覚えている。

T先生には、今でもお盆と正月には、短いながらも葉書を出している。葉書を出すと、すぐさま返信が返ってきて、先生の音符のような懐かしい文字を、今でも見ることができる。

「教育とは、バケツを満たすことではなく、火を燃えあがらせることである」
ウィリアム・バトラー・イーツ


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★自分のできること・もてるもの

2005-09-22 | 忘れえぬ人々

シークレット・ガーデン」という北欧の音楽ユニットがいる。日本ではあまり知られていないが、欧米、日本以外のアジア諸国では、ファンの多いユニットである。

昨年、東京でその来日初公演があるというのでチケットを購入した。彼らの音楽を聞き始めたのは、アメリカに住むある恩人の家にお邪魔した際、彼に頂いたCDがきっかけである。 彼は、以前僕の勤めていた企業の日本法人社長であった。彼が初めて日本に来たのは、もう今から12年ほど前になる。彼には、随分とかわいがられ、様々なことを学ぶ機会を与えてもらった。そのお陰で現在の自分があると強く信じている。

僕も当時は20代後半で随分と血の気も多かった。仕事には打ち込んだし、それに信頼を寄せてくれる人もいた。しかし、その反面、相手が誰であろうとストレートな物の言いかたで、嫌われる部分も多かったのではないかと思う。 その彼の言った言葉で今でも忘れえぬものがある。

当時、何かのプロジェクトで大きな壁にぶちあたっていた時だった。僕に限らず同僚達は先の見えぬ迷路にはまり込んでいた時だった。 ある日、彼と偶然、昼食の席で一緒になった。食事の席ということもあり、とりとめもない会話が続いた後、彼は僕に訊いた。

「○○さんは、スキーをしますか?」

僕は、それはあくまで趣味の会話であると思い、

「しますよ。学生時代にはよく長野県に行ったものです。でも、今では昔ほどは行かなくなりました。」そういう僕の答えの後に、彼は続けて訊いた。

 「木立の中をスキーで滑ったことはありますか?」

「ええあります。あまり上手くはありませんが・・・」僕は、変な質問だなあとは思ったがそう答えた。

「木立の中を滑る時に、木々にばかり注意してそこを見ていると、木にあったてしまいます。でも、木と木の間にある空間だけ見ながら滑ると、木々は気にならなくなり、上手く林を抜けて滑ることができます。」彼は、ただそう言った。

そして食事を続けた。 僕は、彼が何をいきなり言おうとしているのかよくわからなかった。そんな僕に気づいたのか、彼はまた話を始めた。・・・私は思うのです。苦しい状況の中で、問題点にばかり囚われそこに自分の神経を集中させていると、その問題が視界の中心になり向こうが見えなくなってしまい、上手く通りぬけることができないものです。でも、自分の意識をその空いた空間に向けていると、やがてその問題を通りぬけてゆけるものです。これはスキーと同じですね・・・。 時の流れともにわかる彼の伝えたかったこと。自分の前にある障害、困難といったことばかりに囚われるのではなく、真に自分が自由になろうとするならば、自分がもっているもの、自分が今できることに精神を集中しなさい、と。

もうすぐ、僕も当時の彼と同じ年齢になろうとしているが、彼のようになれない。ずっと、僕にはなれないだろう。彼と同じといえば、「シークレット・ガーデン」を聴いていることぐらいである。

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★靴を磨く

2005-07-17 | 忘れえぬ人々
人はそれぞれ、記憶の奥壁に掲示板をもっている。そこには、忘れえぬ大切な人たちの一言や、一瞬の光景を捉えたスナップ写真が、落ちそうになりながらもピンで留められていている。
 そして、そんな掲示板の隅には、いつのまにか書かれた言葉や絵があり、長い時間を経てその存在に気づくこともある。知らないうちに訪れ消えていった、時には名も知らぬ人々のメッセージと足跡がそこにある。


 目的の東京国際フォーラムを目前にした遊歩道の銀杏並木の縁に、一人の老人が地べたに座り込んで新聞を読む姿が目にはいった。歳は70歳前であろうと思われるその老人は、うつむいて熱心に新聞を読んでいた。どうやら靴磨きの老人のようだ。

 朝、家を出る前から靴の汚れが気になっていた僕は、ここで靴をみがいて行こうかどうか迷った・・・これから出席するセミナーの前に昼食を取れない場合、夕方まで食事をする機会を失ってしまう・・・セミナー開始までは、30分しかなかった。当時の僕は、何かに疲れていた。その気分転換の意味でも、このセミナーに申し込んでいた・・・なにかきっかけはないだろうか・・・と。そんな意味で参加したセミナーだったので遅れたくはなかった。

 しかしながら、セミナーまでの僅かな時間にも関わらず、その老人に興味を抱いた僕は、気がつけば既に老人に声をかけていた。

 「すいません。いくらですか?」
 今まで靴磨きの経験のなかった僕は、その相場すらも知らなかったのだ。僕はすこし屈み込んでこのように声をかけてみたが、その老人はうつむいて新聞に目を落したままだった。

 今度はその老人の肩を軽くたたいて、
 「いくらですか?」と聞いてみた。

 突然肩をたたかれた僕に脅えたたようにその老人は、靴磨きで真っ黒になった指を2本たてた。

 「2000円か、随分と高いな」と思いながらも、その老人に興味を抱いた僕は、
 「じゃあ、お願いします」と言い老人の前に置かれた小さな椅子のに腰掛けた。

 僕は、その歳になるまで、靴磨きの人に靴を磨いてもらうという経験がなかった。いままで、他人に靴を磨いてもらうということに抵抗をl感じていた。漠然としたものであるが、靴を磨く人と磨いてもらう人の間に、社会の階層を感じていたからだ。社会人になりこの歳になるまでの間、何度となく地べたに座る靴磨きの人達の光景に出くわしてきたが、そのたびにこのことを感じていた。

 靴をみがいてもらっている間に、さまざまな思いを巡らした。
 「この老人の今までの人生はどのようなものだったんだろうか。」
 「自分の息子のように歳の離れたお客の靴を磨く今の老人のこれまでの人生どのようなものだったんだろうか。」
 家族・兄弟はいるんだろうか・・・・目の前に座り私の靴を磨いている老人に、僕は惹きつけけられた。そして、こんな事を考えているうちに、あっという間にその靴磨きは終わった。

 さすがに磨いてもらった靴は見違えるようにきれいになったが、思っていた以上にその時間が早かったことに驚いた。2000円という値段から30分程度はかかるだろう予想していたのだが、実際にはわずか15分程度でその老人は僕の靴を磨き終えたのだった。

 お金を支払おうと財布をみたが、5000円札しかなかった。仕方なくその5000円札をさしだしながら、僕は、
 「お釣はありますか?」と訊いてみた。

 老人は驚いたように手を左右に振った。
どうやらお釣がないようだ。困った僕はズボンのポケットに手をいれ、ある限りのコインを取り出しながら、
 「どこかで両替が可能な場所はないだろうか」と戸惑った。

 そんな僕をみて、老人はコインの入った空缶を指差し、そしてまた以前のように靴磨きのスミと油で黒くなった指を二本たてた。
 「200円。地べたに座って靴を磨いて、たったこれっぽっちか・・・」
僕は、やっと理解ができた。そして、その値段に少しショックを受けながらも、ポケットからとりだした500円玉を老人に手渡した。老人は、頭を下げながらその500玉を受けとり、空き缶から取り出したお釣りの300円を僕に向けた。

 僕は・・・お釣りは結構です・・・と首と手を左右に振った。

 その耳の聞こえない、言葉を話せない老人は初めて少し笑った、そして何度も頭をさげた。彼の笑みにつられて僕も、微笑み返した。そして、この無言の15分間に、僕は靴を磨いてもらうと同時に、疲れた心をも磨いてもらった気がした。


「ある人たちは、気づかずに天使をもてなしました」
ヘブライ人への手紙 13章2節
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