風の吹くまま

18年ぶりに再開しました。再投稿もありますが、ご訪問ありがとうございます。 

★「初恋の来た道」 張芸謀(チャン・イーモウ)監督作品 【米中合作】

2005-09-26 | 良質アジア映画

原題:「我的父親母親」  英語タイトル:「The Road Home」  個人的には、英語タイトルがもっとも物語にあっているのではないかと思う。  監督の張芸謀(チャン・イーモウ)は、この作品で「ベルリン国際映画祭金熊賞受賞」。『紅いコーリャン』では「ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞」。『菊豆』と『紅夢』で2度の「アカデミー外国語映画賞ノミネート」。『紅夢』で「ベネツィア映画祭銀獅子賞」。『秋菊の物語』と『あの子を探して』で2度の「ベネツィア映画祭金獅子賞」を受賞。アジアを代表する映画作家・監督。他に『Hero』等が有名。小生がもっとも好きな映画作家の一人。ヒロインのチャン・ツィイーはこの作品で一躍世界的に有名となる。

初恋の来た道- 良質アジア映画
これは<奇跡>のように現れた映画である。
一本の道を通して育まれた一途な恋の物語がまるで寓話のように描かれる。

都会でビジネスマンをしている青年ルオ・ユーシェン(スン・ホンレイ)は、雪道を友人に車で送られ、華北の小さな山村に久しぶりに「帰郷」する。それは父の死の知らせをうけたからだ。その小さな山村の唯一の分教場の教師だった父は、新しい校舎建設のため病をおして金策に奔走し、吹雪の中で力つきたのだった。

父の遺体はまだ町の病院に安置されてたが、母(チャオ・ユエリン)は町から続く「道」に遺体を人が担いで帰る伝統の葬儀をすると言って周囲を困らせる。その様子を見ながら息子は村の伝説となった父母の恋物語を思い出いだす・・・・・

40年前、20歳の青年教師ルオ・チャンユー(チェン・ハオ)は、村人たちが待ち望んでいた教師として、村へと続く一本の道を馬車にのってやってきた。少女チャオ・ディ(チャン・ツィイー)は都会からやってきた若い分教場の教師に恋して、その想いを伝えようとする。彼が食べてくれるのではとの一途な想いで毎日弁当を作り続ける。授業中は、彼の範読する声を聴きつづける。

少女の恋心は、やがて彼のもとへと届くのだが、田舎の山村にも「文革」の波が押し寄せ青年は町へと帰ってゆく。そして、少女は町へと続くその「道」で、来る日も来る日も、季節が移り変わりゆくなかで、手作りの弁当をもって彼を待ち続ける・・・・・・・・・・


やがて葬儀も終わり息子のユーシェンが都会に帰る朝。遠くから聴こえる範読の声。聴き覚えのある教師の声、それに続く子供たちの声。その声に引き寄せられるように、歩いてゆく年老いた母。村人たちもやがて集まってくる。それは、遠い昔少女が学校の外から聴いた父の作った文章だった・・・


礼儀正しく、
暖かい気持ちを忘れず、
人、世に生まれたら志あるべし。
書を読み、字を習い、見識を広める。
字を書き、計算ができること。
どんなことも筆記すること。
今と昔を知り、天と地を知る。
四季は春夏秋冬、天地は東西南北。
どんな出来事も心にとどめよ
目上の人を敬うべし・・・・・・・・・・・・・
 

静かで叙情性を高める音楽。鮮やかな四季折々の森と林、どこまでも続く黄金色の麦畑、丘にのびる一本の道を映し出すあまりにも鮮やかな映像。そしてそこに暮らす素朴な人々と家族の形。それらは豊かになった今でも、我々のDNAのどこかに記憶されている遠い昔日本にもあった<故郷の原風景>。そして、少女の純粋で無垢な心と一途な姿。それはかつて<自分の中>にもあったもの。

そんな忘れかけた何かをもって、この映画は観る人の心の奥へと続く一本の「道」を通って、<奇跡>のように静かにやってくる。そして、ぽろぽろと流れでる涙が止まらない。

観た人にとっては、きっと生涯忘れ得ない映画となることだろう。

 

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★愛知万博閉幕 皆勤賞のおばちゃんに拍手したい

2005-09-25 | 雑感
毎日新聞の9月25日付け記事にこんなのがあった。

***********************
「185日の全期間入場、56歳主婦が“皆勤賞”」
185日の会期の皆勤賞、通算208回の万博入場――。地元では一躍有名人となった愛知県瀬戸市の主婦、山田外美代さん(56)。毎日押しているシヤチハタマークタウンの「9月25日付」のスタンプを押した瞬間、周りの入場者から大きな拍手が起こり、思わず涙がこぼれた。
***********************

ここまで読んで、
「暇な人もいるものだなあ~」と思ったが、続きを読んで考えを改めた。

***********************
この日は知り合いになったベトナムやチュニジア館などのスタッフに、一緒に撮ったプリクラや日本土産をプレゼントして回った。「万博は私にとって学校。教科書なんかでは分からない、いろんな国の人と出会って会話を交わすことで得られる貴重な体験でした。きょうは私の卒業式です」
***********************

自分の目、体験を通じてしか得られないことがいっぱいある。僕にも同じような経験があるので、彼女の言いたいことに共感を覚えた。

日本政府は巨額な資金を投資し今回の万博を開催したが、本当に得られたものは何だろうか?・・・それは、彼女のような人の存在がどのくらい沢山できたのかだ。世界への先端技術をPRするパビリオンだけではない。

人種、宗教、国籍が変わっても人は同じだ。同じようなことに喜び、同じようなことに悲しむ。同じように生まれ、そしていつかは死ぬ。それは案外ささやかな交流を通じて理解することができる。学校だけでは学べない。活字やメディアだけでは真実を知りえない。

知らないということは、ただ単にそれだけの意味をもつのではない。知らないということは偏見を生み、偏見は摩擦や差別へとも繋がる可能性をも含んでいる。知るということ・・・それは自分の経験を通じ、感情と強く繋がってこそ価値をもつ。

一人のささやかな交流が与える力・・・そんなメッセージをこの56歳のおばちゃんは送ってくれたと思う。すごいね、ホントこの人。

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★「ラブレター~パイラン(白蘭)より」 【韓国】

2005-09-23 | 良質アジア映画

ラブレター ~ パイラン(白蘭)より」 - 良質アジア映画

浅田次郎の短編小説「ラブ・レター」を原作とする韓国映画。ガンジェ演ずる俳優は「シュリ」で有名なチェ・ミンシク。ヒロインのパイラン役には香港女優のセシリア・チャン。まだ、今の韓流ブーム前の作品。今日の韓流ブームの中でも、この作品は何故かほとんど語られることがないようだ。それは物語のパイランのように、映画自体もひっそりと存在している。

人は、自分以外の人を通じて自分を振り返るときがある。自分の力だけではどうしようもなく、変えようもなかった日々のくらし・・・それが他の誰かとのほんの僅かな接点で変わってゆくことがある。そして、そんな僅かな接点が積み重なって今の自分があるのかもしれない。そんなことを考えさせられる作品である。

三流やくざでどうしようもない屑のような生活を送るガンジェ(チェ・ミンシク)のもとに、ある日訃報が届く。それはかつて金欲しさのために偽装結婚した中国人女性パイラン「白蘭」(セシリア・チャン)の死の知らせだった。

彼女の顔すらも知らないガンジェだったが、遺体を引き取りに彼女が暮らした海沿いの小さな町を訪れる。

そこにはパイランが、病のもとで書いたガンジェ宛ての一通の手紙が遺されていた。病と闘いながら必至に働いて言葉を覚えていったパイランの最後の手紙。そこにはカンジェへの、素朴で純粋な気持ちが切々と綴られていた。

****************************

カンジェさんへ

この手紙を読んだとしたら、私に会いに来てくれたんですね
ありがとう。

でも、私は・・・
きっと死にます。

短い時間でしたがカンジェさんのやさしさに感謝してます。
私はカンジェさんのことをよく知っています
忘れないために写真をみているうちに、カンジェさんのことを好きになりました
好きになったら、今度は寂しくなりました
一人で過ごすのがとても寂しくなりました
ごめんなさい。

写真の中のあなたはいつも笑ってます
ここの人たちはみんな優しいですが
カンジェさんが一番やさしいです。

カンジェさん
私が死んだら、会いに来てくれますか?
もし許してくれるなら、ひとつお願いがあります。
あなたの妻として死んでもいいですか?
勝手なお願いでごめんなさい。
私のお願いはこれだけです。

カンジェさん
あたなにあげるものが何もなくてごめんなさい

この世界の誰よりも・・・・愛してる
カンジェさん さようなら 

*********************パイラン最後の手紙

中国人孤児のパイランは、韓国の親戚を訪ねたもののすでに海外に移住してしまっていた。途方にくれた彼女は、就労のためにやむを得ずカンジェと偽装結婚する。そして、海沿いの小さな町で職を得ることができた彼女は、結婚書類作成の際に渡された1枚のカンジェの写真を見ながら、彼への感謝の気持ちと想いをもって毎日を生きていた。

一度も逢うこともなかったパイランの遺した手紙を通して、欠陥だらけの自分の人生と自分自身を振り返り変わってゆくカンジェ。そして、孤独で不遇な身でありながらも素朴でけなパイランの姿。そして、ラストシーンではカンジェへの想いを綴った手紙がパイラン(セシリア・チャン)の麗しい声で静かに読み上げられる。また、それを演じるセシリア・チャンは野にひっそりと咲く名も知らぬ花のように可憐な美しさだ。これでもかーというくらい涙腺を直撃し息ができないほど泣かされる。

人はひとつの曇りもない美しさに触れたとき浄化される。それがこの物語の主題であり、パイランのけなげな美しさと、それに触れたカンジェが悟る姿に心打たれる。そしてそれはスクリーンのなかのカンジェではなく、この物語に触れた自分自身もだ。

見終わった後も、その切ないラストシーンの余韻が永遠に心に残りつづける至極の名作のひとつ。

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★先生のシャツ ~ 学校

2005-09-23 | 忘れえぬ人々
小学校入学と同時に、僕の通っていたA市内の市立小学校の花形だった「ブラスバンド」に、なんにも考えずに、「ほれ、しゅしゅしゅ・・・」と入ってしまった。

しかしながら、なんせこの担当のT先生が熱血で、神戸の北区の遠いところから、通勤。そして、毎朝7時から練習開始。噂によると先生は片道2時間かけて、学校に通っていたらしい。

日曜日以外は、夏休みも、冬休みも、春休みも、毎日毎日練習で。あまりのハードさに耐え兼ねて「せんせい、僕(or あたし)辞めます。」など言おうものなら、「バシーーーーン!」とそのオーケストラ・タクトでお尻を叩かれて・・・。それを目にした僕は、びびってしまい、とうとう5年生まで、虫の吐息で続けてしまった。

朝もたとえ5分でも遅刻をしようものなら、タクトでバシーン!何度やっても、思いどうりに演奏できないものなら、タクトでバシーン!・・・とにもかくにも、厳しいT先生であった。先生は、僕らを大人に接するように接した。


僕はその先生の事を今でもはっきり覚えていることが、ひとつある。

T先生の来ているシャツは、きれいに洗濯されているのだが、いつも同じだったことである。

情熱家のT先生のとても厳しい練習でつらいものもあったが、、その同じシャツを見ていると、先生の何かとても質素な部分が、感じられ、とうとう辞めますの一言が言えず、小学校のほとんどの期間を終えた。

子供だったので、よくわからなかったが、T先生は周りの先生からは、あまりよく見られていなかったようだ。ときおりT先生支持派の父兄の話を盗み聞きしたところでは、あまりの情熱家であったため、まわりの先生から、なにやらやっかみみたいなものが存在していたようであった。しかし、こどもだったのでよくわからなかった。

練習はとても厳しく、ほとんど笑わず、常に厳しい接し方をする先生であったが、春休みや夏休みには必ず、こども達を集め、有志の先生方と、僕らをハイキングに連れていってくれた。そういう時の先生は、普段では見られない笑顔で、とても楽しかった記憶として残っている。

とにもかくにも、めちゃちゃくちゃ厳しい先生であったが、先生を悪く言う子供はおらず、僕らは強い絆でつながっていたように思う。僕が、5年生になったと同時に、先生は転勤で別の学校に移動となった。先生のいなくなったブラスバンドは、自然と消滅してしまい、僕の小学校生活の最後の1年は、早起きをせずに済んだのだが、めちゃくちゃ寂しかったのを今でも覚えている。

T先生には、今でもお盆と正月には、短いながらも葉書を出している。葉書を出すと、すぐさま返信が返ってきて、先生の音符のような懐かしい文字を、今でも見ることができる。

「教育とは、バケツを満たすことではなく、火を燃えあがらせることである」
ウィリアム・バトラー・イーツ


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★自分のできること・もてるもの

2005-09-22 | 忘れえぬ人々

シークレット・ガーデン」という北欧の音楽ユニットがいる。日本ではあまり知られていないが、欧米、日本以外のアジア諸国では、ファンの多いユニットである。

昨年、東京でその来日初公演があるというのでチケットを購入した。彼らの音楽を聞き始めたのは、アメリカに住むある恩人の家にお邪魔した際、彼に頂いたCDがきっかけである。 彼は、以前僕の勤めていた企業の日本法人社長であった。彼が初めて日本に来たのは、もう今から12年ほど前になる。彼には、随分とかわいがられ、様々なことを学ぶ機会を与えてもらった。そのお陰で現在の自分があると強く信じている。

僕も当時は20代後半で随分と血の気も多かった。仕事には打ち込んだし、それに信頼を寄せてくれる人もいた。しかし、その反面、相手が誰であろうとストレートな物の言いかたで、嫌われる部分も多かったのではないかと思う。 その彼の言った言葉で今でも忘れえぬものがある。

当時、何かのプロジェクトで大きな壁にぶちあたっていた時だった。僕に限らず同僚達は先の見えぬ迷路にはまり込んでいた時だった。 ある日、彼と偶然、昼食の席で一緒になった。食事の席ということもあり、とりとめもない会話が続いた後、彼は僕に訊いた。

「○○さんは、スキーをしますか?」

僕は、それはあくまで趣味の会話であると思い、

「しますよ。学生時代にはよく長野県に行ったものです。でも、今では昔ほどは行かなくなりました。」そういう僕の答えの後に、彼は続けて訊いた。

 「木立の中をスキーで滑ったことはありますか?」

「ええあります。あまり上手くはありませんが・・・」僕は、変な質問だなあとは思ったがそう答えた。

「木立の中を滑る時に、木々にばかり注意してそこを見ていると、木にあったてしまいます。でも、木と木の間にある空間だけ見ながら滑ると、木々は気にならなくなり、上手く林を抜けて滑ることができます。」彼は、ただそう言った。

そして食事を続けた。 僕は、彼が何をいきなり言おうとしているのかよくわからなかった。そんな僕に気づいたのか、彼はまた話を始めた。・・・私は思うのです。苦しい状況の中で、問題点にばかり囚われそこに自分の神経を集中させていると、その問題が視界の中心になり向こうが見えなくなってしまい、上手く通りぬけることができないものです。でも、自分の意識をその空いた空間に向けていると、やがてその問題を通りぬけてゆけるものです。これはスキーと同じですね・・・。 時の流れともにわかる彼の伝えたかったこと。自分の前にある障害、困難といったことばかりに囚われるのではなく、真に自分が自由になろうとするならば、自分がもっているもの、自分が今できることに精神を集中しなさい、と。

もうすぐ、僕も当時の彼と同じ年齢になろうとしているが、彼のようになれない。ずっと、僕にはなれないだろう。彼と同じといえば、「シークレット・ガーデン」を聴いていることぐらいである。

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★命~帰郷

2005-09-15 | 忘れえぬ人々
約10年前の秋、仕事でオーストリアのインスブルックに行く機会があった。インスブルックでの仕事を終えた僕は、次に訪れる予定のミラノの前にドイツのミュンヘンを訪れた。

ミュンヘンにはそれよりも10年前、まだベルリンの壁崩壊前に一度訪れたことがあったが、東西統一後のドイツを見てみたくなりミラノへ行く前に、逆方向にあるミュンヘンに立ち寄ることにしたのである。

訪れてはみてみたものの、ミュンヘンは特に魅力のある街ではなかった。街の風景にはさしたる変化はなかったように思えるのだが、ふたたび訪れた街に住む人々の表情には、以前よりも少し荒れた感があった。僕は、本来ミュンヘンで一泊するつもりであったが、ここにいても興味をそそるものもないため、その日のうちにミラノ行き最終列車に乗り込んだ。

ヨーロッパの国際列車は、ほとんどが6人個室のコンパーメントになっている。この夜僕の乗り込んだコンパーメントには、既に2人の男が乗っていた。一人は20代後半と思われる若者と、もう一人は50代と思われた。二人ともイタリア人であった。若者の方は、英語が話せた。

最初、彼らは連れ同士かと思っていたが、その列車はドイツからイタリアへと向かう国際列車であったため、たまたま同じになっただけであることがわかった。それは、後に若者との会話を通じてわかったことである。

二人とも故郷の街を離れ、若者はオランダ、50代と思われる男性はスイスで、それぞれ仕事をしているらしかった。この列車へは、二人目的地は違えど故郷の街へ帰るために乗り込んでいるらしかった。今でも多くのイタリア人は、こうして故郷の街を離れ出稼ぎに出るものが多いのだと、若者は言った。

彼はいかにもヨーロッパの若者らしい風貌で、ジーンズとTシャツ、そして耳にはピアスをしていた。聞くところによると美容師をしているということだった。僕は、僕との会話をしながらも時々暗い車窓の外を眺める彼の横顔になにか思いつめたような印象をもった。

しばらく軽い会話を断片的に続けていた僕らであったが、彼はいきなり僕に問いかけた。
「人は死ぬとどうなると思う?」
突拍子もない質問にその答えのもつ意味に戸惑った僕は、どう答えてよいものか悩んだ。

「おやじが危篤なんだ。そのために故郷に帰るんだ」
イタリアへは、もう何年も帰っていないらしかった。希望という荷物だけをもって、家出に近いかたちで故郷の街を出たものの、現実は厳しくあちらこちらを転々するばかりの生活が続いた。そしてやがてはドラッグにも溺れていったらしい。
しかし今では、歩き違えた道から抜け美容師としてやっていけていると、彼は語った。

「おやじは癌なんだ。もう何度も手術をしている。今度はもうだめだとおふくから連絡があったんだ。何年も帰ってないんだ。でも、今朝帰ることを決め、この列車に飛び乗ったんだ。」

ただ頷いて聞いているだけだった。どう答えてよいかわからないし、彼も僕の答えを期待しているのでもなかったと思う。そんな僕の戸惑いを感じたのか彼は話題を変えた。
「イタリアではどこに行くんだい?」
彼は聞いた。
「ミラノへ行って、そこからベニスに行こうと思う」
僕は答えた。

「フローレンス(フィレンツェ)に行くといい。ほんとのイタリアが見れる。ベニスやローマでは見られない本当のイタリアさ。僕らイタリア人はみんな、フローレンスで生まれたんだ。」彼は、熱心に続けた。

故郷イタリアを捨てた彼が、たまたま出会った旅行者の僕に、熱心にその故郷の話をするのもおかしなことであるが、何年かぶりに帰郷する彼の心の中には、話つづけているうちに、今までずっと持ち続けていた故郷への想いが、湯水のように湧き出てきたのかもしれない。

「僕も落ち着いたら、フローレンスには行ってみたい」
という言葉を最後に、またぼんやりと車窓の外を眺めた。


僕は、彼の問いかけ・・・人は死んだらどうなると思う?・・・という答えを、想い続けていたが、列車はやがてオーストリア国境を超えイタリア国内へと入った。

そして、ひとつの小さな駅への到着のアナウンスが車内に流れた。彼は僕に言った。
「僕は、次の駅で降り別の列車に乗り換えなければならない。短い間だったけど、出会えて良かったよ。是非、一度フローレンスには訪れてくれ。君の旅の安全を祈ってるよ。」

まだ彼への答えが見つからない僕はただ、
「どうも有難う。君も元気で。」
とだけ答えた。

そして列車は小さな駅に到着し、彼は深夜のプラットホームへと消えて行った。

あれから長い年月を経て、あの夜の記憶を蘇らせながら彼への答えを想う・・・
「長い旅を終えると、再び生まれた場所に戻ってゆくのではないだろうか。君のように。」と。それは生きるものすべてがもつ命というものに最初から刻まれている道しるべなのかもしれない。
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★自分の目で見たもの

2005-09-11 | 忘れえぬ人々
若かりし頃、シベリア鉄道にのって、大陸を横断する旅をしたことがある。
旅の途中、多くの人々と出会い、別れた。そのすべての人々とは二度と逢うことはないだろう。
でも、彼らは記憶の奥底にしっかりと生き続けている。

当時のソ連(現在のロシア)は共産主義の世界。隣国でありながら、もっとも遠い国のひとつであった。
メディアから流れるソ連に関する当時の情報は、どれもが否定的なもの。周囲の人々がもつソ連に対する印象といえば、・・・共産国、鉄のカーテン、何考えてるかわからん、笑わない冷たい人々など、我々を敵視している・・・など、どれもが冷たい氷に閉ざされた世界と、そこに住む無表情な人々を連想させるものばかりであった。当然ながら、僕も同じであった。

そういう時代に、自分自身にとって、ターニングポイントとなった一人のロシア人との出会いがある。旅の途中に出会った彼は日本のロシア人小学校の教師であった。真夜中のシベリアの大地を走る列車の中で、彼がにこやかに語った「子供たちの話」は、今でもはっきりと記憶に刻まれている。

『ことしのおしょうがつに、
ロシアのこどもたちと、にほんのこどもたちと、
いっしょにスキーにゆきました。
とてもたのしかったですね。

みんないっしょにスキーをして、
みんないっしょにごはんをたべて、
みんないっしょにおなじへやでねました。

そして、元旦の朝。
みんないっしょにおもちをついて、それをいっしょにたべました。
それから、
ロシアのこどもたちと、にほんのこどもたちは、
みんないっしょに「書きぞめ」をしました。

わたしは、かれらに書かせました。

まっしろな紙のうえに、
「平和」
ということばを。』

その10数年後に、ソ連は崩壊し、現在のロシアとなった。今では、国同士の関係も近くなり、人々のもつロシアへの認識も随分と変化した。しかし、そこに住む人々自体はずっと変わっていない。我々とまったく同じようなことに、喜び、哀しみ、希望もちそして祈る。同じように家族がいて、友人がいて、そして日々の糧を求めて働いている。同じように生まれ、そしてやがて死をむかえる。
それは、今も昔も変わらない。そして、これからも変わることはないだろう。

彼との僅かな時間の語らいは、何年もの間に学校で学んだことよりも、遙に多くのことを僕に教えてくれたのである。
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