風の吹くまま

18年ぶりに再開しました。再投稿もありますが、ご訪問ありがとうございます。 

★アジアの風

2024-10-06 | エッセイ
香港は、九龍(カオルーン)サイドと呼ばれるその背後に中国大陸をもつエリアと、その九龍の先端からボートで5分ほどの真向かいにある香港島サイドという、大きく二つのエリアから成り立っている。その間には海が流れ大小さまざまなボートが行き来している。そして、その2つのエリアにはお互いを向き合うように高層ビルが立ち並び、その近代的な建築物の間に無数の人々の営みがある。 


僕は香港での数日間の用を終え、香港島サイドにある空港行きのステーションビルディングにいた。ここで空港チェックインを済まし空港行き列車に乗車することになっていた。そのビルの海に面した大きな透明の硝子からは、海に浮かぶ大小無数のボートが見えた。まだ予定の時間まで余裕があるので、このビルのオープンエアのカフェで遅めの朝食をとることにした。 この年の夏は、香港でも異常な蒸し暑さで、海に面したそのオープンカフェに座ると海からの熱気が少し息苦しかった。

コーヒーを飲みながらぼんやりと海を眺めていると、どこからか笑い声が聴こえてくる。 どこからくるのかとその笑い声を探すと、そこには沢山の女性達がそのビルの下にある広場に座っていた。何百という数の女性達がそこにいた。
彼女たちは香港で働くフィリピンメイドと呼ばれる女性達である。20代、30代、40代とさまざまな年齢の女性達がそこにいた。香港では結婚後も女性のほとんどは働くため、中流家庭であっても住み込みのメイドさんを雇っている家庭が非常に多い。そういうメイドさんはそのほとんどがフィリピンの女性達だ。賃金も比較的低いのだが、高学歴で英語を話せるからである。

彼女たちは、月曜日から土曜日まで住み込みでメイドさんとして働きつづける。日曜日は彼女達のささやかな休日。 しかし、住まい=職場であるため家でのんびりと過ごすということができない。だから彼女達は日曜日になるとずっと外で過ごす。したがって、日曜日ともなると香港中の広場はフィリピン女性でいっぱいになる。少し異質でもある光景だ。

オープンカフェから眼下に眺める彼女達。同郷の友人たちと手作りの料理を広げているもの、歌を歌ているもの、愉しそうに語り合うものたちなど・・・皆屈託のない笑顔に満ちている。 皆ささやかな日曜日を楽しんでいる。

だが、その一人一人は誰かのためにそこにいる。
「誰かのために」・・・あるものは両親祖父母のために、あるものは兄弟姉妹のために、そしてあるものは幼い子を残して・・・そのひとりひとりがその誰かのために、異国の地で寂しさの中で異邦人として暮らしている。

生まれた環境、時代、それらに人間はその人生を左右される。左右されながらも、誰かを支えながら生きている人たちがいる。かつての日本にも女性たちが海外に出稼ぎに行った時代があったときく。豊になった今、そんなことは忘れさられつつある。だが、時代は変わっても、同じような境遇で生きる人たちは、どこかにいる。

眼下の彼女達を眺めながら、そんなことを想い浮かべていたその時、「一瞬の涼しい風」が翔けてきた。それは夏の熱気で陽炎のように揺らめく高層ビルの間から突然現れて、一瞬のうちに彼女たちの笑い声を掴み、大小無数のボートが浮かぶ海の方へとすり抜けていった。

そして、僕にはその風が、海を見下ろす白いカモメのようにその優しい眼差しで振り返りながら、碧い空へと早足に駆け上がっていったかのように見えた。 それはまるで、彼女たちの哀しい笑い声をどこか遠くへ運んでゆくかのように。


2005年に書いたものになります

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★海老フライ定食

2024-10-06 | エッセイ
僕は、食というものにまったくといっていいほど興味がない。

子供の頃、父親は必ず給料日には家族揃って外食につれていってくれた。外食といっても、同時はファミリーレストランや回転寿司などはなかった時代だ。ましてや、しゃれたレストランなどもなかった。

行くところはいつも同じであった。地元の商店街の洋食屋。当時としては少し洒落ていたのかもしれないが、子供だったのでよくわからない。

僕は注文するのはいつも「海老フライ定食」だった。今のような、タルタルソースなどはなく、とんかつソース。その海老フライは子供の僕にはすごく大きく見えた。

香ばしい香り、サクっとした感触、その熱々で甘い味・・今でもはっきりと覚えている。

父と母はカレーライスやもっと安いものをいつも注文していたのを覚えている。僕はまだ小学校の低学年であったが、そのくらいのことはわかった。

たまに、
「僕もカレーライスにしよかな・・」と言うと、母は
「海老フライにしとき、こっちのほうが美味しいで」と、いつも海老フライを注文させた。

大人になって、取引先や上司部下と高級といわれる料亭やレストランに行くこともある。一人何万もするような料理をいただける機会もある。

しかし、どんな有名レストランやどんな有名シェフの料理より、父の給料日に食べさせてもらったあの「海老フライ定食」よりも美味しいと思った料理は未だ食べたことがない。


「子どもの心に残るのは、
親が買い与えてくれたものではなく、
愛を注いでもらったという記憶である。」
(リチャード・エバンス)

2005年に書いたものになります
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★恋~夜行列車の少女

2024-10-06 | エッセイ

それは中学1年生の夏休みだった。母と妹との三人で、夕刻の大阪駅から親戚の住む山陰島根県の出雲へ向かう夜行列車に乗った。

列車が駅を出発し暫く経った後、母はちょうど僕らとは反対側の4人席に座る一人の少女に視線を向け僕に言った。
「あの子おまえと同じ歳くらいちゃうか。凄く綺麗やなあ。」

「ん? そうかあ?」
と、そっけなく答えた僕は、読みかけの文庫本にすぐ視線を戻した。彼女は、父親らしき男性と弟らしき小さな少年と一緒であった。白いワンピースを着た長い黒髪を後ろ束ねた少女は、スヌーピーの英語本を読んでいた。

中学生の僕は、それまで異性に対して綺麗だとか可愛いだという感情を抱いたことがなかった。女というものは、ただ口うるさくめんどくさい存在でしかなかった。だが僕は誰にも気づかれないよう彼女をぬすみ見た。

やがて車窓から見る景色も暗闇となり、車内の人々も旅立ちの興奮から冷め眠りにつきかける頃、僕は、車窓から暗い外を見つめている白いワンピースの少女をこっそり盗み見た。

彼女の長い黒髪、その透きとおるような彼女の横顔。僕は彼女の美しさに次第に吸い込まれていった。その時、ふと彼女が見つめている窓をみると、そこには鏡のようになった窓硝子に写るこちらを見つめる少女の目があった。

そして僕は、その後二度とその少女の方を見ることができぬまま、その夜行列車は眠りについたのである。

「初恋は遠い昔の打ち上げ花火」
たしかサントリーのCMだった気がします。


2005年に書いたものになります。
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★祈りの旗

2024-10-06 | 忘れえぬ人々

 今から四年前の八月。急にアメリカへの帰国が決まったフレッドから、あることを頼まれた。
 「アメリカへ帰国する前に、どうしてもこれを持ち主に返したいんだ。」
 彼が僕に見せたものは、第二次世界大戦時に作られたと思われる絹製の国旗だった。その日の丸の周囲には、戦場へ赴く若者へ送る多くの人々のメッセージが書かれていた。
 フレッドは僕より2歳上のアメリカ人だ。だから、彼が、直接この絹の旗を手にいれたわけではない。彼が日本へ初めて来たのは、20年前である。その絹の旗は、彼の祖父からその時手渡されたものだった。
 「フレッド。わしはこの旗をなんとしてでも、持ち主のもとに返してあげたんだ。だが、わしはもう長くない。だから、自分の手でこれを返すことはできないだろう。でも、お前ならいつか持ち主を探しだせるかもしれない。日本へ行ったら、持ち主を探して、返しておくれ。頼んだよ・・・。」
 フレッドの祖父は癌だった。彼は孫のフレッドに自らの想いを託したのだった。しかし、彼の祖父は、その絹の旗をどこでどのようにして手に入れたのかを、決して語ることなく亡くなってしまった。

 僕らは、その絹の旗に書かれてある○○神社という名前を手がかりに探すことにしたが、フレッドが帰国するまでの残り時間は10日あまりしかない。僕には、それがとてつもなく気の遠くなるようなことに感じた。しかし、インターネットで、それらしき神社が熊本県に存在するということがわかったのだ。
 だが同時に、フレッドはあることも心配していた。その絹の旗に名の書かれてある奥さんと思われる女性は、今では別の人生を歩んでいるかもしれない。彼がコンタクトすることによって、今の生活を乱すことになるかもしれない。突然アメリカ人が尋ねてきて、どのような反応を示すのだろうか、というような事だった。
 そんな心配はあるものの、我々は思い切ってその○○神社に電話をかけ、そのような事情も含めて説明しすることに決めた。我々は、ただこの旗を持ち主のもとへ届けたいだけなこと、そしてその行為が持ち主の人生を傷つけてしまうような事態になる可能性があるのであれば、あきらめるつもりであることも。

 最初に、○○神社へ電話をしてから約7日目。先方から連絡があった。事情を説明しておいた○○神主からの電話であった。それは、フレッドが帰国する3日前のことだった。
 「みつかりましたよ。奥さんは今もご健在です。大変驚かれています。それと同時に、はやりご心配されていました。でも、旗は返せますよ。」


 
当日の熊本は、その年の国体の開催地ということで、その開催前日と重なり、東京からの直行便が取れず、我々は早朝の羽田発・福岡行の飛行機に乗り、そこからローカル線を乗り継いで目的地まで行かなければならなかった。フレッドにとては、帰国2日前ということもあり、東京と熊本間を日帰りしなければならないという強行軍の旅でもあった。
 僕らは、早朝の羽田発福岡行きの飛行機に乗り、そして福岡からローカル線に乗り継ぎ熊本へと向かうことしにした。その旅の間、普段は陽気なフレッドがずっと無口だった。そして時折思い出したように、「奥さんは喜ぶだろうか?迷惑なことじゃないだろうか?アメリカ人に突然こんなものを渡されて彼女を傷つけはしいないだろうか?」、と僕に問い掛けた。彼は旅の途中、何度も同じ質問を繰り返した。

 「大丈夫。きっと喜ぶよ。心配することはない。」その度に、僕は自分自身の内にもある同じ不安感に気づかれないように、彼に言った。
 それは、とても夏の陽射しの強い日だった。

 
 対面の場所は、○○神社のある○○村役場に設定されていた。半日以上をかけた長い旅を終え、ようやく○○村役場に到着した僕らを待ちうけていたのは、○○神社の神主○○さんだった。そして僕らは、到着するなりすぐさま、助役室へと案内された。

 「わざわざ遠いところまでお越しくださって、ありがとうございます。役場の助役が今日は助役室を提供してくれていますので、早速、ご案内します。」

 「中にはもう、奥さんが来ていらっしゃいます。」助役室の前で、神主○○さんはフレッドにその扉を開けるよう促すように云った。フレッドは、ゆっくりとそのドアを開た。開けられた扉から広がる助役室には、凛とした一人の小柄な老婦人が立っていた。
 フレッドは、彼女の姿を見た瞬間、今までの長旅の心配事がまるで嘘であるかのように、とても豊かな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女のもとへ近づいていった。その老婦人はただ無言のまま涙を浮かべた目で、次第に近づく背の高いフレッドを見つめていた。そして、言葉ひとつかわさぬままフレッドは、老婦人を優しくだきしめた。彼女はフレッドの胸で泣いていた。
 その部屋にいた者誰もが声を発さなかった。最初の言葉は、彼ら二人が発するものであると誰もがそう感じた。外から聞こえる真夏の蝉の声だけが、二人を包み込んだ。

 
 「今、まぶたを閉じても、この旗のどこに、何が書かれているかはっきりと憶えています。」老婦人は時折こぼれる涙をぬぐいながらその旗の思い出を静かに語り始めた。
 
この絹の旗は、主人を送り出す宴が終り、二人だけになった夜、渡しましたものです。それは、召集令状が来たその日の夜のことでした。それが二人で過ごした最後の夜です。そして翌日、彼は出兵して行きました。召集されて暫くは、彼は同じ熊本県内の駐屯地にいましたが逢うことは許されませんでした。しかし、いよいよ戦地へと出兵する夜。軍隊の知り合いを通じ、その夜彼が戦地へと旅立つことを聞きました。彼と逢うことは許されないが、彼に汽車の窓をあけておくように伝えておくので、開いている窓があるとそこに彼がいると思いなさいというものでした。
 私は、駅から離れた高台から、いつ通るかもやしれない汽車を朝から待ち続けました。待っても待ってもそれらしき汽車はなく結局夜になってしまいました。そして夜になり、それらしき列車が遠くに見えたのです。そして、その列車の一つの窓から灯りがこぼれていたのです。私にとって、あの人の最後の姿は、遠くを走る汽車の車窓から洩れる灯りです。その灯りの中にあの人がいたのかどうかはわかりません。でも、私は、あの灯の中に、必ず私を見つめているあの人がいるんだと信じて、線香花
火のように儚(はかな)く遠くへ消えゆく夜汽車の灯りに向かって、懸命に手を振り続けました。それは、私が21歳の時でした。あの人の妻になった、半年後のことでした。 
 その老婦人は、彼女の膝におかれた「絹の旗」に、その穏やかな眼差しを落としながら、亡き夫との「最後の思い出」を静かに語った。それは時折、蝉の鳴き声の聞こえる八月の午後のことだった。


 「随分と迷いましたが、今日ここに来て良かったと思っています。」老婦人は、話を続けた。
 「私は、主人を失ったあと、再婚しました。再婚先へは自分が再婚であったことは、今まで、隠してきました。再婚相手はとても良い人で、子供や孫にも恵まれ、幸せな人生を送ってこれたと思っています。その再婚相手も数年前に亡くなりましたが、今も子や孫達に囲まれ、幸せに暮らしています。」
 そういいながら、彼女の横に座る、大学生の孫にその穏やかな視線を移した。

 「これで、私の戦争は終わりました。ずっと終わらなかったものが、今やっと終わりました。たしかに、辛い記憶ですが、今こうして、こんなに暖かい人に出会え、ほんとうに幸せです。」 我々は、静かに彼女の、話を聞いた。
 「今日、ここに来る決心をした時、私は子供や孫達に、私の物語を打ち明けました。今日ここへは、その孫の一人が連れてきてくれました。そして今私は、自分だけのためのだけでなく、孫達のためにも、私の話を伝えておくことが、私の仕事だと思えるようになりました。」
 静かに彼女の話を聞いていた彼女の孫は、恥かしそうに微笑み返した。



 東京への帰路は、熊本から羽田への航空便が取れた。○○村役場から熊本空港へは、車で約1時間の旅でだった。長旅にもかかわらず、我々の滞在時間は一時間ほどだった。帰路の予定の便に乗るため、我々は空港へと急いだ。だが、空港へ近づくにつれ、周辺道路の警備が厳しくなった。
 「おそらく、明日から熊本国体が始まるからだと思う。」私は、フレッドに説明した。しかし、空港へ近づくにつれ、それは何か少し違うように思えてきた。路辺道路には警察・自衛官の数が次第に多くなっていったからだ。

 空港に到着すると、そこには何かを待つ人たちが溢れていた。皆それぞれが小さな国旗を持っていた。そしてその理由は、我々が搭乗する予定の熊本から羽田行き便が到着すると明らかになった。空港ゲートには何かを待つ人々で溢れかえっている。旅人の我々はその意味が理解できなかったが、人々が笑顔を投げかけているその先の到着ゲートを人々と同じように見守っていた。
 その時である、ゲートから現われたのは、穏やかな笑顔を浮かべながら出てくる皇太子殿下の姿だった。
 そしてその次の瞬間、待っていた人々からは溢れるばかりの笑顔がこぼれ、その割れんばかりの歓声が空港中に沸き起こった。フレッドもとても幸せそうな笑顔を浮かべながら手を振っていた。

 その夏のその日、その瞬間、熊本空港には、数えきれないくらい沢山の小さな旗が、幸せと平和の象徴としていつまでも揺れていた。



「 不幸な物語のあとには、かならず幸福な人生が出番をまっています。」
(寺山修司)

***あとがき***

 あまりにできすぎたような話で、今思い返すと、それは僕が観た夢物語ではなかったかと錯覚を起しそうになってしまう時もある。だが、これは事実としてすべて僕が見たものある。 
 時代の潮流にその人生を狂わされてしまった一人の老婦人と、異国の地で命を落としたその夫との哀しい最期の思い出。生きて帰ってきてほしいという祈りを込めた絹の旗は、その願いは届かず敵国であったアメリカ人の手に渡ってしまう。それが、半世紀以上という時の流れと、二つの世代を超えて、その旗は遥か海を渡って、再び持ち主のもとへ帰ることになる。
 この日、かつて哀しみの象徴であったその旗は、今では平和の象徴として揺れていた。

 不幸と幸福、哀しみと喜び、祈りと失意。人の人生というものは長い視線でみると、その運命というもののなかに、これらをどこかで帳尻があわせるような方程式が、そのどこかに隠されているのかもしれない、と僕は思う。


2005年に書いたものになります。

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