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東海道あるき旅⑤(保土ヶ谷~戸塚)

2015-02-09 | 東海道あるき旅

 今回は保土ヶ谷から戸塚までを歩きました。

お天気に恵まれ、冬だというのに歩き始めると汗ばむほどでした。

JR保土ヶ谷駅を出てすぐ左に曲がり、東海道保土ヶ谷宿に入ります。

江戸を出て最初の難所といわれる「権太坂」の手前にある宿場で、

当時の旅人はこの保土ヶ谷宿で休息し、鋭気を養ってから坂越えに挑んだそうです。

この宿内には金沢八景・浦賀へ通じる金沢道が分岐していて、その四つ角を「金沢横町」と呼んでいたそうです。

金沢道からは梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉江の島弁天参詣などへ

江戸や近在から多くの人々が訪れ、また、そうした人々によっても保土ヶ谷宿は賑わっていたようです。

日本橋から8里9丁(約33Km)、泊るにはやや近いけれども、

次の戸塚宿で泊まらせまいと、夕方には旅籠屋の前に、顔を真っ白に塗り紺の前垂を締めた客引きの女「留女(とめおんな)」が、

大勢立って客を引き込んだと言われています。当時の保土ヶ谷宿の賑やかさがしのばれます。

  
  道標4基がありました。
  右から・・・「円海山之道」  「かなさわ かまくら道」  「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花」  「富岡山芋大明神への道」

 

 ★  本陣跡(軽部家)

  軽部家は問屋と名主を兼ねた宿内の有力者です。

  現在は、門が残るのみですが、ご子孫が今もお住まいになっていらっしゃるようです。

  
          現存している門

 

 

 ★  保土ヶ谷一里塚跡

  日本橋から8里目になります。

  京都側の出入り口となる上方見附もこの近くにあったみたいです。

 

 

 ★  外川神社

 

 

 ★  樹源寺

  日蓮宗のお寺。身延山久遠寺の末寺として開山されました。

 

  
        静かなたたずまいの境内                            日蓮宗の紋

 

 保土ヶ谷宿をすぎいよいよ”権田坂”にさしかかります。

 江戸を発ってから東海道は海沿いの平坦な道が続いていましたが、 

 ここから本格的な長い傾斜のきつい坂道となります。

 昔は、道の両側に鬱蒼とした松の木が立ち並び、旅人にとっては最初の難所になっていたようです。

 どんなに急で長い坂道かと期待していたのですが、思った程ではありませんでした。(期待し過ぎてしまいました。)

 

 「権田坂」の由来には二つの説があるそうです。

 ・「老人の返事」説・・・ある時、旅人がこの坂で近くにいた老人に坂の名をたずねた所、その老人は自分の名前をきかれたと思い込み、

              「ごんたです。」と答え、その名が坂の名になったという事です。

 ・「本当は権左坂」説・・・昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいて出来た坂道「権左坂」が、

                いつのまにか「権田坂」と呼ばれるようになったという事です。

 さて、どちらを信じますか?と、書かれた説明板が、権田坂小学校の前に建っていました。

 

 
      権田坂の入り口

 
   坂を上り終え、少し行った所。     雪の富士山が遠くに見えました。

 

 ★  投込塚跡

  病や疲労のため、行き倒れた旅人を葬り埋めた塚。

  宿場の外れにはこのような無縁仏を葬る塚があったようです。

  やはり、昔の旅が過酷であったということだと思います。

 

 

 ★  境木立場跡

  権田坂を登ったところが武蔵国と相模国の国境で、”境木”と呼ばれていたそうです。

  境木には”立場”があり、権田坂を登ってきた旅人が一服しながら、名物の牡丹(ぼた)餅をたべたようです。

(立場とは、宿と宿の間にある旅人の休憩所で、数件の掛茶屋があったそうです。杖を立てかけて休む場という意味から立場と呼ばれました。)

 

 ★  境木地蔵堂

  武蔵国と相模国との国境の峠の頂上にありました。

  

 

焼餅坂は、坂の傍の茶店で焼餅を商っていたので名付けられたようです。

 

 

 ★  品濃一里塚

  日本橋から9里目の一里塚です。

  今でも、道の両側の塚がほぼ当時の形で残っています。両側とも残っているというのは、滅多にないとのことです。

 

 明治初期の品濃坂の写真があったのでアップしてみました。

 現在とあまりにも違うのでビックリです。

 

 
      品濃坂を下ると東戸塚の街が見えてきました。環状2号線を渡ります。

 

 

 
  東海道から分岐し、大山に向かう道(追分)の入り口です。大山詣でに向う人々が通りました。

 

 
  益田家のモチの木。県の天然記念物で神奈川名木百選にも選ばれています。今は誰も住んでいないようでした。

 

 ★  齋藤家と赤レンガ倉庫

  明治14年頃、齋藤家が日本人として初めてこの場所でハムの製造を始めました。

  当時、戸塚は鎌倉郡に属していたので、「鎌倉ハム」と称して全国的に知られるようになりました。

  今でも齋藤家の自家用貯蔵庫として、現役で使われているそうです。

 

 

 ★  戸塚宿の江戸方見附跡・戸塚一里塚跡

 
               ダイエー戸塚店の前に建っています。

 
        見附跡の先、吉田橋との間に10里目の戸塚一里塚がありました。

 

 ★  吉田大橋

   広重の「東海道53次 戸塚」には、この吉田橋と橋の袂にある旅籠の様子が描かれています。

   
    現在の吉田橋辺り

 

                                                                       

  昔の人は、一日に30~40Km歩いたと言われています。京都まで、平均12泊13日で歩いて行ったそうです。

やっと、江戸時代の人々の一日分の距離を歩くことができました。

昔の旅の過酷さ、水杯をかわして大勢のお見送りを受けて出発するというのがよくわかります。

またその過酷さ故に、めったに行くことが出来ない旅に対する憧れは、

今の人々よりも強かったのではないでしょうか?

この後のあるき旅も頑張りま~す。

       

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
東海道あるき旅⑤ (ナオ)
2015-03-01 22:25:58
へぇ~と感心することばかりです
保土ヶ谷や戸塚は駅を知っているぐらいでしたが
金沢八景や江の島に続く道として休憩していた
昔の時代の情景が浮かんできそうでした。
権太坂の言われはどちらでしょう
おじいさんのお話は面白いですね
『鎌倉ハム』の初めての製造場所
赤レンガ倉庫が残っているのですね
一日30~40キロを12泊。。。考えただけでも
過酷さが伝わってきます
昔の人が新幹線を知ったらすごく驚くでしょうね
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東海道あるき旅⑤ (おくさん)
2015-03-08 10:19:59
ナオさん
昔も今も、人が集まる所にはお店ができ栄えていくんですね~
権田坂の言われは、「おじいさん説」だと思いたいです。
ほのぼのしていい感じですものね
途中で薄ぼんやりとしてですが、富士山がみえました。
昔はもっと景色が良かったんでしょうね。
昔の人が現代にきたら、きっと目をまわしてしまうでしょうね
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