気ままな糖質OFF生活

八ヶ岳南麓と東京の二地域居住しているオヤジのつぶやきです。長年、糖質OFF生活を過ごし、楽しく生活しているおやじです。

泉岳寺Part2 「なぜ忠臣蔵は起きたのか」

2022年08月12日 | 日記
忠臣蔵 で知られる赤穂四十七士が眠る東京・高輪の泉岳寺 に行ってきました。
その動画をYouTubeにアップしました。
ご覧いただけると幸いです。

泉岳寺Part1 「なぜ仮名手本忠臣蔵と言うのか。」に続き
今回は泉岳寺Part2 「なぜ忠臣蔵は起きたのか」です。

忠臣蔵は江戸城松の廊下で赤穂の浅野内匠頭長矩が高家(作法指南)の吉良上野介義央を切りつけた事に起因する。

浅野の殿様はもちろん武士である。
当時の武士であれば、小太刀で十分に殺すことはできたであろう。
小太刀だから殺せなかったのでは、なぜ武士は二本差しをしていたのだろうか。
殺せなかったのではなく、殺すつもりがなかったのだ。

物語では、切りつけた動機はすごく簡単に、ワイロを渡さなくいじわるされたからとされている。
そんな私心の小さな動機では、赤穂浪士四十七士に及ぶ討ち入りは行われなかったであろう。

中朝事実を記した山鹿素行と言う学者がいる。
尊王思想の持主で、江戸払いを受けた。
幕府のおひざ元で尊王を主張されても困るからだ。
そして山鹿素行を赤穂藩が受け入れた。
そして、赤穂藩で説いた。

それがどうしたと言われそうだが、天皇からの勅使を接待する作法を高家の吉良から指導されていた浅野にはある思いがあった。
それは天皇の勅使が下座になる作法を指示されたのだ。
足利幕府以来の作法でもあった。

浅野は本来天皇の名代なのだから上座にするのが本道だと考えていた。
普通はそうですよね。
尊王思想の薫陶を受けていた浅野は1度我慢したが、2度目は異議を申し立てようと考えたようだ。
しかし、普通に異議を申したてても無視される。

だが、江戸城内での刃傷沙汰となれば、調べが行われるだろう。
そこで主張できると考えた。
そして幕府も背景を理解していたと思う。

神君家康公以来の作法を否定されるのは、幕府は困る。
山鹿素行の影響を赤穂藩が受けていた事も理解していた。
その為、喧嘩両成敗を無視して、場内での刃傷沙汰を根拠にすぐ切腹が命じられる。

これが、忠臣蔵の背景だと考えています。

なお、忠臣蔵については色々な説があります。
当時、江戸幕府を批判することは慎重に避けられ、時代や人名など変えて物語が作られた。
ドキュメンタリーではなくとも、推察するする知性を江戸庶民も持っていたと思っています。
そこで私たちも「私はこう思う」。
「いや私はこう思う」と楽しみましょう。


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