気ままな糖質OFF生活

八ヶ岳南麓と東京の二地域居住しているオヤジのつぶやきです。長年、糖質OFF生活を過ごし、楽しく生活しているおやじです。

富士見高原と文化人【長野県富士見町 高原のミュージアム】

2020年03月01日 | 日記
気になっていることがあった。
富士見高原には明治期より多くの文化人・文人が訪れ、この地を題材にした、小説・詩歌などが多かった。
それは、何故か。

思っていた理由の一つは、結核の治療院として有名な高原のサナトリウム・富士見高原治療所だった。
すみません、それは文学者と肺の病という単純なイメージでした。

しかし当時の結核は、抗生物質も無く不治の病とされてた。
絶望の中、ある意味個人の体力で回復するしかなかった病。

そして、ここで多くの文人が治療を行った。
新型コロナウイルスを恐れる人よ。
残念ながら、人々は昔から、治療法・薬のない病気と向かい合っていたのだ。

疑問を持って富士見町「高原のミュージアム」を覗いた。
運がよければYouTubeの動画にできたらと思っていた。

このミュージアムでは、富士見高原と文化人の関係を分かりやすく展示している。
しかし残念ながら撮影禁止だった。


富士見町と文化人とのゆかりのは、明治37年に中央線の富士見駅が開駅されたことに始まる。
鉄道によって八ヶ岳・富士山・入笠山・甲斐駒ヶ岳などが一望できる高原の世界が開けた。
そして、実際、伊藤佐千夫や島木赤彦のアララギ派の歌会が富士見駅前の油屋旅館で、幾度も行われた。
今でも、富士見駅のホームには「アララギ之里」と題された拓本が展示されている。

また、駅ができたことによって文化人が別荘を構える。
(犬養毅・白林荘、尾崎喜八・分水荘、井伏鱒二・夏の家など)

そして大正15年に設立された富士見高原診療所(現富士見高原病院)。

しかし、いくつもあったサナトリウムなのに、このサナトリウムに文人が多く治療に来たのかと思っていた。
展示を見て理解した。
初代所長は医師であると同時に「不如丘」と号する俳人でもあった。
文化は文化を呼ぶ。
人は人を呼ぶ。
不如丘は結核を患った竹久夢二に
----君、富士見に来ないか---
と誘った。
その他、風立ちぬの堀辰雄、横溝正史、久米正雄など多くの文人が治療を受けている。

綺麗な空気と明るい太陽の下で、栄養と安静を取ることが主な治療法だった時代。
その絶望感は如何ほどだったろうか。
今とは比較にならない恐れだったろう。
そして、じっと耐えていたのだろう。
その時、誰かがトイレットペーパーを買い占めていたのだろうか。

残念ながら動画にできませんでした。
ごめんなさい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 記憶という味【横浜 カップ... | トップ | 私のおかげ、いいえそれは企... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事