オメガねこ

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「生きる理由」 と 「死ぬ理由」

2019年05月31日 | 科学

 アポトーシス(自死)は、自身が死ぬことで全体を保全する場合を言い、寿命による「自然死」と、環境の変化による「自発死」が考えられ、どちらにしても自分の組織の一部が、残った細胞の役に立つために死にます。

 ネクローシス(壊死)は、自分が死ぬことで組織的な異常を残す場合を言い、自身が不完全だったり周囲の影響を受けて死にます。

 皮膚などが自然に入れ替わる為に、上皮が剥がれ落ちて捨てられることは、残った他の細胞に直接的な影響を与えないので、単なる寿命による「廃棄」と言えます。勿論、その「廃棄物」は他の生物の栄養素になるので無駄ではなく、他の生物を別個体と考えるのなら「生態系の循環」と言えます。また、自然環境が一体と考えれば、拡張された「アポトーシス」と言えます。

 これらは生物の細胞の話ですが、個々に「死ぬ理由」が有って死後に於いても何らかの影響を残します。 逆に、細胞の「生きる理由」は、遺伝子によって生存命令を受けているからとも言えます。

 世の中には「生き甲斐」を失って死ぬ人がいるようですが、その人に「死ぬ理由」があったようには思えません。  「生きる理由」が無くて死のうとする人に「死ぬ理由」を訊くと、多くの場合「生きる理由が無いから」と答えます。これは独善的で、生物の道理に反しています。つまり、「ヒトでなし」と言えます。 生物の道理は自分が決めるのではなく、遺伝子や環境が決めます。自分一人の思考で自然の道理を変えようとするのは、独裁者と言えます。ヒトラーは独善の限りを尽くして、最後は「生きる理由」を失い、自死しました。

 自ら「生きる理由」を失って死ぬ事は、細胞や他の生物では考えられず、人間特有の精神的な病からくる「理由なき死」です。勿論、本人は十分な理由があると信じて死ぬのですが、病に侵されているので気が付きません。

 これはネクローシスのうちの、自分が不完全だった場合の死と言えます。

 一部の宗教の信者が、自爆テロや集団自決をする理由に、天国で幸福になる事を挙げます。これも、ネクローシスと言えます。洗脳などにより、脳に十分な栄養(知識)が行き届かず壊死状態になったと考えられます。 実行犯は、同時に殺された人も天国で幸せになれると信じているようですが、この独善の「煩悩」の結果として、この世で異常事態が発生します。

 「生きる理由」も「死ぬ理由」を見つけられず、自暴自棄になり道連れ殺人をする人は、がん細胞に似ています。宿主である正常細胞を殺してしまえば自分も確実に死にます。 現在の医学では、がん細胞の多くはウィルス等の外的要因で発症するとされています。もしかすると道連れ殺人は、社会環境の異常さが外的要因かもしれません。

 集団飢餓の中で口減らしの為に自死する場合や、戦闘行為での特攻隊の死はアポトーシス(自発死)と言えます。  人の「生きる理由」が、自分自身の為ではなく、より多くの人が生き続ける事であると信じている場合に、このような行為に出ると思われます。集団の利益には「アフォーダンス」が有り、本能的に生死を決めているのかも知れません。

 遺伝子情報のインスタンス(実態)である細胞の、インヘリタンス(継承)により生物が生成された事を考えると、知的生命体と言われる人類もアポトーシスやネクローシスの呪縛から逃れることは出来ない事が理解できます。

 寿命による自然死(アポトーシス)で逝きたいものです。

 



2 コメント

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mobileさんへ。 (テレビとうさん)
2019-05-31 19:09:12
コメント有難うございます。

「漢字の音符+倫」では、「人と人とのきちんと整った関係。」です。そこから考えると「倫理」は相互に「善」出なくてはなりません。

倫理:他人から見ても善である事。
道徳:自分自身が善と考える事。

と定義すると、ヴィトゲンシュタインは「万人を満足させる善は、この世には存在し無い」と悟ったと云う事でしょうか?

しかし、道徳は「自分が満足する」だけで成り立ちます。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり。」で有名な葉可久礼では、赤穂事件も批判していますが、この時代は「自と他の社会理念」が一体化していて「倫理」と「道徳」の区別は必要無く、それ故にアポトーシス由来の「死ぬ理由」を「見つけた」ようです。
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生きる理由 (mobile)
2019-05-31 17:29:17
哲学者ヴィトゲンシュタインは『神や倫理に代表される世界の価値は、論理空間の外側にあるに違いない』と言っています。そもそも有限な世界に生きるニンゲンに『生きる意味』なぞ見出せるハズがないのです。
その意味ではニンゲンは『生きる意味』を求め続ける存在であります。『自己が完成するとき』は他ならぬ『死ぬとき』なのですから『自己実現』とは永遠の彼方にあると言っていいでしょう。自分を求め続ける(俺は何なのか?)こと、それがニンゲンの宿命なのです(で、実はその回答は『俺は・・・俺だ』なのですが)。実に因果なことです。
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