テレビとうさん

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「本能」 と 「アフォーダンス」

2019年05月16日 | 思想・思考
赤ちゃんに「千円札」を渡しても、舐めるか投げるかです。少し成長すると、破るかもしれません。
この行為は教えられなくても実行しますが、「本能」と言えるかどうかは判りません。人が「本能」で対処できるほど「お札」の歴史は有りません。もしかすると、赤ちゃんは「お札」が食べ物かどうかを判断する為に舐めるのかも知れません。この場合は「本能的行為」と言えますが、「お札」にはその意味ありません。
 
「お金」が有ると、使いたくなる人と、貯めたくなる人がいます。この場合は、「お札」自体に意味が有る事を理解していると言えます。これは、他人から教えてもらった結果なので「お札」自体に意味が内在しているとまでは言えません。
 
この二つの事象の中間の状態も考えられ、それを「アフォーダンス」と言います。例えば、生まれて初めて「お札」を見た人が、無意識に貯金をした場合「お札には貯金をするアフォーダンスが存在する。」と言えます。実際には有り得ませんが。
 
「アフォーダンス」とは、動物に対して「環境や物性の与えられた意味や価値」を探索することで獲得できる事を意味し、動物の理性や知性に関係ない「本能的」な概念です。
行動心理学や認知心理学では、「実際に実行できる可能性」が重要で、そのモノの意味を認識でき、且つ実行できる可能性が有る事を「アフォーダンスが存在する」と言います。但し、実際に実行する必要もなく誘導される必要も有りません。「可能性」に注目しています。「(本能的)認知可動性」とも言えます。
 
「本能的」と「本能」は少し意味が違い、ドアに取っ手が付いていれば人間は「本能的」に取っ手をつかみ、ドアを開ける事も予想できます(アフォーダンスが存在する)が、熊は「本能」で取っ手やドアを叩き壊す(アフォーダンスは存在しない)かもしれません。熊は取っ手の「意味」には誘導されません。
 
何故人間の子供は「本能的」にドアを開けることが出来、熊の子は「本能」でドアを壊す行動に出るのかを考えると、
①、子供は親の行動を見て知識を頭脳に蓄積している(学習)。
②、子供には最初から遺伝子記憶と同様に「無意識の知識(本能では無い)」が脳に保存されていて、全知識の内の生後使わなかったり見なかった「知識」は記憶から消えて無くなり(忘却)、経験した事だけが固定概念として残存していく。
③、「本能的行動」は単なる「本能」に過ぎない。
等が考えられます。
 
学校では、先生は教科書を使って生徒に教え、生徒はそれを学び知識が増えていくように見えます。教科書や先生に「アフォーダンス」が在り、生徒が「本能的」に学習するのなら①の可能性も有ります。
 
子供が親の行動を見て真似するにしても、真似の仕方その事自体を教えることは出来ません。子供は勝手に真似をしているだけであり、そこには真似をする「本能」が有ると言えます。この場合は③に相当します。
 
時々、天才少年が現れて、カレンダーを見なくても過去や未来の日付と曜日を当てたり、小学生が微分積分を使って過去の理論の間違いを指摘したりします。これは、「知恵は知識の蓄積(学習)」ではない事を示唆しています。
 
②の可能性から考えると、「学習する事」で、元々有ったと思われる「無意識の知識」を忘却し、寧ろ全知識量を減らす結果になる可能性も考えられ、学習をやめて自ら思考する事で「無意識の知識」を「意識された知識」に変えることが、「天才」になる条件なのかも知れません。
 
思考は知識の相互作用で生まれるので、最初から知識が無ければ思考することは出来ません。自分の経験によってのみ自分の知識が増えるのなら、生後間もない熊も人の子も知識量はゼロと言えます。しかし、熊と人間の行動は最初から違います。
 
能力のある人が多くを学ぶと知識が増え、新しい発見が出来るように思うかも知れませんが、新しいと思われる発明発見でも、元々あった「無意識の知識」の中にあり、それを認識できただけなのかも知れません。
それは、多くの天才は子供のころは(先生から見て)あまり勉強が出来ない事を示唆しています。
あるモノに対する一般人の行動には「アフォーダンス」が確率的に存在し、他人にも予想可能ですが、これに反する行動をとる人に対しては、「普通の人」は否定的なレッテルを張りがちです。
 
「自分勝手」なトーマスエジソンは「アフォーダンス」の存在を無視した思い付きで多くの発明をしました。つまり、「アフォーダンス」とは単なる「常識」にすぎないと言えるかもしれません。
 

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