テレビとうさん

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「多様性」 と 「包摂」

2023年04月05日 | 雑感
 「性同一性障害」が、病名であるのか単なる状態であるのかは判らないのですが、「障害」と書かれているので「性が心身ともに同一でなければ害が有る」と、少なくとも自認し客観的(科学的)に認められる必要があります。ここに客観性を無視した「性自認」が入り込み、更に「障害自認」も加わると別のビョーキが疑われます。

 「身体(外見上)の性」は本能(遺伝的記憶領域)が支配しているのですが、所謂「心(で思うところ)の性」は大脳皮質(書き換え可能な記憶領域)が考える性認識なので、生後の環境の影響を受ける可能性があります。

 若しも「性同一性障害自認」が病気と認められ救済するのなら、「能力同一性障害」も救う必要が有ります。「東大生自認」「首相自認」など、現在の学歴・地位と自分の能力(自認)との間に違和感を覚える人も救済する必要が有ります。

 性別と同様に学歴・職歴も「自認を優先し包摂」出来なければ、多様性を認めない「差別主義者」のレッテルを張られる事になり、多様性を包摂した時点で「包摂したくない人」の多様性は失われ、排除されます。

 それはさておき、「障害」は、元々は「障礙(障碍)」と書き、仏教用語で「煩悩障など、心を覆い隠し悟りを妨げる事」から、「邪魔」の意味で使われていたそうです。つまり、「障害者」は物質的に邪魔な者、「障碍者」は精神的に邪魔な者と云う意味になり、現在では「障がい者」と平仮名を使用するが主流になっているようです。

 「障がい」か、或いは「障害」か「障碍」かは当事者の問題なので、他人が口を出す問題ではないのかも知れません。

 それでも、「性自認」と自分の付属物が一致しない場合で、当人が「障害物」であると感じた場合は、現在の医学では簡単に「天からの授かりもの」を捨て去ることが可能でも、正常に付加する事は難しいようです。

 自分と他人は違うかも知れませんが、自分の「付属物」に対して違和感を覚えるのは、自分自身に「差別意識」が内在しているような気もします。多様性を尊重するのなら、「性別違和感のある自分の多様性も受け入れるべきです。

 「男女平等」を主張するのなら、自分のナニに対して忌避感を抱くはずは無いのですが、専用トイレの利用に関しては拘りが有るようです。「共用トイレ(みんなのトイレ)」も設置され始めていて、これが「多様性の包摂」と考えているようですが、芳醇な香りの好きな「落下型便所の愛好家」は包摂されていないようで、街中では殆ど見る事が無くなりました。

 また、「男子用小便器」は有っても「女子用小便器」も普及が遅れていて、座る暇も無いほど忙しい女性の仕事の妨げ?になる様な気もします。知らんけどww

 厚さが僅か数ミリしかない「大脳皮質(後天的脳)」が考える性別や合理性を、残りの99%以上を占める骨格体や「本脳(先天的脳)」に押し付けるのは、傲慢でしかありません。現在は、地球規模で「1%の富裕層」が世界を好きなように動かしていますが、少なくとも人体は「大脳皮質の奴隷」では有りません。




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