「自分とは何か?」を考察し、「私は、私の脳である」との定義を考え付いた人がいます。これに似た命題に、デカルトの「方法序説」に書かれた「我思う、故に我あり」があります。
死にたくなった「脳」は、直接「自分の脳」を殺す事が出来ない為、普通は「自身の体」を利用して「自分の脳」を殺します。
ところが、「自身の体」は「自分の脳」に痛さの信号を送り、これを阻止しようとします。「脳自体」には痛点が無いのですが、自身の痛さに耐えかねて死を躊躇します。痛覚は、痛点と脳の認知機構との連携で生まれます。但し、「自身の痛点」を通さなくても、催眠術や事故現場を見るなどして脳が痛いと感じた場合は、身体の特定の部位の痛みや「心の痛み」を感じる事もあります。
そこで「悪賢い脳」が考え付いたのが、他人を利用して「自分」を殺す事です。「死刑制度」もこれに利用されます。
若し「私は、私の脳である。」のなら、自殺したくなったら勝手に「自分の脳」が死ねば済むのですが、これが「自分の意志」で出来ないと云う事は「私は脳ではない」事になります。99%以上のヒトが痛さのせいで死ねないのなら、「自分の脳」に命令をしているのは「自身の体」と言え、「私は、私の体」が正しい言い方になります。「私の体」は自然の法則に則り「自死」は有っても、「自殺」は考えません。
「自分の生命」を維持するための装置の一つが「自身の脳」であり、「脳」を維持するために「自分の体」がある訳では無いと言えます。
「国家論」にも色々あり、昔は「支配者」を支える為に「人民」がいると云うのが一般的な考え方で、その「人民」もまた同様な思考で、「ヒト」を支える為に「奴隷」がいると考えていました。しかし、時代が進み最近では「国民」の生活を維持する為に存在するのが「自からの政府」であり、「政府」を維持するために「国民」がいるわけでは無いと云う考えが主流になりました。
しかし、これはあくまでも「主流」なだけで、今でも「脳」の為に「体」があると考えている「支配者」も存在します。無神経な「脳」に体の痛みを伝える事で、自殺を止める事が出来るかも知れませんが、自らの「国家破綻」の痛みに耐えられないと考えた「支配者」もいて、隣国を利用する「悪賢い国家」も散見します。
自分は賢いと思っている支配者は「我思う、故に我あり。」「私は、私の脳である。」と考えているのかもしれません。当然その支配者は「我こそ国家なり」と考えています。
現実の世界では、思うか思わないかには関係なく、自分は「過去クラス」のインスタンスであり、他人も同様にインヘリタンスされています。たまにバグが発生することがあり、デバッグが必要な場合もありますが、「自分」と「他人」は、他の「他人」から見ると「同クラス」です。
日本の国会を見ていると、戦争が間近のような気もします。