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新聞によると 、
・・組合員55人のうち10人が亡くなった釜石市の「大町商店振興組合」は8月下旬、壊れた立体駐車場を修理して再開させた。営業再開しているのはまだ15店だが「商店主たちを鼓舞するため、いち早く復旧させた。駐車場は、商店街の復興を助ける“金の成る木”にもなると、小田島圭二理事長は、期待する。
津波の被害を受けた商店街が立ち上がれない。後継者不足や大型店進出で苦境に陥っていた中で、大震災の津波で被災して、休止や解散へ追い込まれているところもある。
・・とある。
友人知人、親戚がここ釜石にいる。
・・・6月、母の葬儀に参列いただいたお礼に、名簿に記載してあった避難所へ伺った。
「銀行からの帰り道に地震に遭った。商店街駐車場へ戻ったが、命からがらお薬師山へ登って逃げた。避難するすぐ後ろを津波が襲ってきた。その津波が全部持って行ったから、何・に・も・ね・えー・ぐ・なっ・たー(全て失って無くなってしまった)」と力なく話した。周囲に広がる避難所の様子に気が沈んだ。
・・・老舗商店主は、大町商店街のメインストリートで、もう10年位以前から店のシャッターを降ろしていた。建物は2階の上まで瓦礫に浸かって全壊。心労が重なって診察を受けた盛岡市の病院で、ガンが見つかり即、入院手術をした。今は、仮設住宅住まい。
・・・海産物加工業のおじさんは、震災に遭遇した3月は、年度末ということもあり倉庫いっぱいに海産物を仕入れてあった。が、それを全部失った。会社の建物、車両、従業員の生活、事業再建見通しなどなど。津波で億単位の財産を失った。3月にお宅へ伺った時は、姿に言葉を失いました。その後、震災後初試合となる釜石シーウエイブズの試合グランド(6月5日釜石・松倉)では、もっとゆっくり会話したかった、けれど。
・・・運転免許証の更新に行った(釜石湾近くにある)警察署で地震発生。実家のある天神町へ様子を伺いに行ってみようかと思って運転し始めた。が、路上の混雑に、躊躇しながら車を走らせた。バックミラーを見て気が動転した。津波だ。黒い塊の津波が押し寄せてくるのが見えた。必死に釜石駅を通り過ぎて我が家へ急いだ。家の中は地震の惨状はあったが、幸いなことに小佐野の自宅にまでは、津波が押し寄せてこなかった。
「先日届いたDVDレターも、まだ見ていません。すみません」と、あれ以来、心身不安定といい、前よりも話す言葉が少なくなったようだ。
・・・未だ行方不明のおじさん
・・・手紙が届かずにいる知人
・・・釜石からのハガキ。電話はまだ回復していないという。
ところで、いまも「被災地無料電話」はあるのだろうか?
震災直後は、西日本方面のNTTから資材と人を投入して、いち早く無料電話が架設されていたことは承知しています。現に、持っていた携帯電話が通じないので、釜石からの発信電話はここを利用させていただきました。が、釜石の4日間でしたが、その架設場所まで歩いて電話をしに来ている人は、いませんでした。半年以上が経った今の時期こそ、架設無料電話は、必需品だと思います。いま仮設住宅に電話がある、のかな?
・・組合員55人のうち10人が亡くなった釜石市の「大町商店振興組合」は8月下旬、壊れた立体駐車場を修理して再開させた。営業再開しているのはまだ15店だが「商店主たちを鼓舞するため、いち早く復旧させた。駐車場は、商店街の復興を助ける“金の成る木”にもなると、小田島圭二理事長は、期待する。
津波の被害を受けた商店街が立ち上がれない。後継者不足や大型店進出で苦境に陥っていた中で、大震災の津波で被災して、休止や解散へ追い込まれているところもある。
・・とある。
友人知人、親戚がここ釜石にいる。
・・・6月、母の葬儀に参列いただいたお礼に、名簿に記載してあった避難所へ伺った。
「銀行からの帰り道に地震に遭った。商店街駐車場へ戻ったが、命からがらお薬師山へ登って逃げた。避難するすぐ後ろを津波が襲ってきた。その津波が全部持って行ったから、何・に・も・ね・えー・ぐ・なっ・たー(全て失って無くなってしまった)」と力なく話した。周囲に広がる避難所の様子に気が沈んだ。
・・・老舗商店主は、大町商店街のメインストリートで、もう10年位以前から店のシャッターを降ろしていた。建物は2階の上まで瓦礫に浸かって全壊。心労が重なって診察を受けた盛岡市の病院で、ガンが見つかり即、入院手術をした。今は、仮設住宅住まい。
・・・海産物加工業のおじさんは、震災に遭遇した3月は、年度末ということもあり倉庫いっぱいに海産物を仕入れてあった。が、それを全部失った。会社の建物、車両、従業員の生活、事業再建見通しなどなど。津波で億単位の財産を失った。3月にお宅へ伺った時は、姿に言葉を失いました。その後、震災後初試合となる釜石シーウエイブズの試合グランド(6月5日釜石・松倉)では、もっとゆっくり会話したかった、けれど。
・・・運転免許証の更新に行った(釜石湾近くにある)警察署で地震発生。実家のある天神町へ様子を伺いに行ってみようかと思って運転し始めた。が、路上の混雑に、躊躇しながら車を走らせた。バックミラーを見て気が動転した。津波だ。黒い塊の津波が押し寄せてくるのが見えた。必死に釜石駅を通り過ぎて我が家へ急いだ。家の中は地震の惨状はあったが、幸いなことに小佐野の自宅にまでは、津波が押し寄せてこなかった。
「先日届いたDVDレターも、まだ見ていません。すみません」と、あれ以来、心身不安定といい、前よりも話す言葉が少なくなったようだ。
・・・未だ行方不明のおじさん
・・・手紙が届かずにいる知人
・・・釜石からのハガキ。電話はまだ回復していないという。
ところで、いまも「被災地無料電話」はあるのだろうか?
震災直後は、西日本方面のNTTから資材と人を投入して、いち早く無料電話が架設されていたことは承知しています。現に、持っていた携帯電話が通じないので、釜石からの発信電話はここを利用させていただきました。が、釜石の4日間でしたが、その架設場所まで歩いて電話をしに来ている人は、いませんでした。半年以上が経った今の時期こそ、架設無料電話は、必需品だと思います。いま仮設住宅に電話がある、のかな?