アインシュタインが認識していたように、部族主義は、未熟さそのものであり、成長によって、部族主義から、脱することができるようである。
かつて、アメリカでは「青色」(北軍)と「灰色」(南軍)が戦った。
ロシア内戦では、「赤軍」が「白軍」と戦った。
私たちは、旗を振り、ひいきのスポーツチームを応援し、自国を愛する。
白人はあらゆる有色人種に対して寛容でなかった歴史がある。
そして、今も、アメリカでは、「赤」の州を支配する共和党と「青」の州を支配する民主党は、国家の問題を解決するための基盤となる一致点を見出すのにひどく苦労している。
ウイリアム・ゴールディングの著作である『蠅の王』が出版された1954年、
ザファー・シェリフによってロバーズ・ケーブ州立公園で、ある実験が行われた。(→ロバーズ・ケーブ実験とよく呼ばれている)
私は、ロバーズ・ケーブ実験は、私たちの世界を引き裂く部族主義について、説得力のある具体例を示しているように、思う。
また、この実験は、部族主義を終わらせる道標ともなっているのではないかと、も思うのである。
実験では、5年生の男子から構成される2つのグループが、オクラホマ州南東部の山の中での「サマーキャンプ」体験に招かれる。
招かれた全員が、中流階級の家庭で育ったプロテスタントで、同じ地域から参加し、疾患がない、知的機能が平均以上とされる子どもたちだったそうである。
各グループは、まず一方のグループから隔離された状態で、1週間のキャンプ活動に参加した。
各グループは、自然と団結力を高め、さらにはグループに「イーグルズ」と「ラトラーズ」という象徴的な名前まで付けたのである。
その後、両グループが互いに接触することを許されるとすぐに、「私たち」対「彼ら」という対決姿勢が生まれた。
キャンプ指導員たちは、彼らにとって価値のある賞品やトロフィーが与えられるゲームを用意した。
すると両グループは、大小さまざまな問題で衝突し始め、
特に資源が不足したとき(一方のグループが夕食に呼ばれる前に、夕食用の食料が底をついてしまった場合など)、競争が激化したのである。
スポーツ競技では、相手を挑発するような言葉を発し、典型的な侮辱の応酬となった。
間もなく両グループは、互いの小屋に侵入し、持ち物を壊し賞品を盗んだ。
また、チームの旗を燃やし、威嚇し、相手を直接攻撃する計画を立てた。
この実験は、まさに部族主義から戦争への課程の縮図となったのである。
そこで、キャンプ指導員は、こうした敵意をなくさせるために、両グループを競争を伴わない、さまざまな活動に一緒に参加させることにした。
例えば、食堂で一緒に食事をさせたり、皆でピクニックに行かせたり、日々の雑用を一緒にさせたりしたのである。
しかし、互いを嫌がり、相手と交わりたくないという気持ちは根強く続いていた。
両グループにつながる団結力が見て取れたのは、実験のために仕組まれた数々の「災難」に両グループが向き合ってともに作業をし、互いに犠牲を払わざるを得ないときだけであった。
反目し合う集団がひとつになるのは、集団間の相違よりも、共通の利益が重要になったときだったのである。
しかし、このことは、思わぬハッピーエンドに繋がった。
キャンプ終了時、一方のグループが賞金を勝ち取ったとき、そのグループはもう一方のグループと賞金を分け合うことにし、その結果最期に皆で、一緒にオーツミルクを飲むことが出来たのである。
キャンプ指導員の仲裁により、ようやくその争いは収まったのであるが、これは、1954年に、オクラホマの山中で起きた、まさにゴールディングの『蠅の王』の物語である。
このような実験の研究における科学も、ゴールディングの『蠅の王』における芸術も、原始時代の部族に見られた攻撃性が、無意識のうちに現れてしまうことを示している。
それは、私たちの社会生活に関わるDNAに刻み込まれているようである。
その悪い面は、部族に帯する忠誠という、一見良さそうな大義名分の下に、私たちは、実に酷いことを簡単にやってしまうという面であり、良い面は、人々が共通の困難に対応したり、共通の敵に立ち向かったりするために互いを頼らなければならないときに、集団間の敵意が薄れる面である。
残念なことに、競争意識を生み出すことは、それを解消させることよりもずっと簡単なのである。
しかし、幸いなことに、条件が整えば、競争に代わって協力し合うことが可能になるのである。
しかし、さらに、残念なことに、部族主義は、現代生活の至るところに存在する。
そして、人口増加の圧力が高まり、資源が不足しつつあるために、部族主義は、激しさを増している。
前回も述べたように、さほど単純な構造ではないにせよ、シーア派がスンニ派を害し、スンニ派がシーア派を害するのは、そのためでもある。
イスラエルとパレスチナは和平プロセスに約80年間も関わっているが、平和はもたらされた、とは、到底言い難い。
人間が持つ部族主義には、進化の過程を生き抜く上では、大きな価値が在った。
私たちの祖先である狩猟採集民族は、経済の面でも安全の面でも、自分が属している集団に全面的に頼っていたため、そこから追放されたり、離れたりすれば、ほぼすぐ命を落とすことになったからである。
しかし、今や縮小した世界に住む私たちにとって、過去から受け継いだ部族主義は、先の見えない未来に向かう途中で致命的な問題になりかねないのである。
世界のなかで、二極化をなくし、そして、二極化が徐々に民主主義を蝕むことを防ぐために、「私たち」と「彼ら」という部族的感覚で広がりつつある亀裂は埋められなければならない。
まずは、単純な発想かもしれないが、議論がかみ合わなかったり、互いに罵り合ったり、紛らわしいことばを使ったり、聞く耳を持たなかったりすると満足のいく解決策を練り上げることは出来ないので、自分の味方だけに通じることばをわきに置いて、どんな解決策が有効であるか、そうでないかを、わかりやすいことばで話し合うことから始めてみよう、と、私は、思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
ゴールディングの『蠅の王』でラルフが、
「賢明にルールを守り、正しく生きようとしたんだ......なのに......。」
と涙を流すシーンは、いつでも、どんな場面でも繰り返して欲しくない悲しいシーンです(T_T)
本当に、難しい問題ですね......考えながら描き進めてみたいなあ、と思います^_^;
今日は、貴重な、洗濯日和ですので、少し頑張ろうと思います( ^_^)
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。