おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

グスタフ・マーラーの交響曲第6番イ短調「悲劇的」が本当に悲劇的なのか??について(前編)

2024-04-14 07:25:22 | 日記
グスタフ・マーラー(1861~1911年)というひとりの人間のなかに、20世紀初頭の時代精神、すなわち躁と鬱、葬送と祝祭、絶望と歓喜、ユーモアとペーソスが宿っているといったら、言い過ぎであろうか。

マーラーは、自らがヨーロッパの歴史と伝統の申し子であることを自覚し、死と頽廃と没落の瘴気を胸一杯に吸い込んでいたからこそ、彼は、自信を持って、
「やがて私の時代が来る」
と言えたのではないかと、私は、思う。

マーラーという人間の背景を考えるとき、ヨーロッパについても考えなければならない。
ヨーロッパについて、私たち日本人は、ともすると、華美で壮麗なヨーロッパ文化を思い描きがちであるが、それは、皮相に過ぎないのかもしれない。

そもそも、ヨーロッパ文化は「人間」という言葉に必ず「やがて死すべき」という形容詞をつけることを忘れなかったギリシャ人からはじまり、中世の「メメント・モリ(汝死を忘るることなかれ)」という標語や、モンテーニュの「エセー」に代表される死の省察、あるいは、土俗化したキリスト教の殉教崇拝、といった具合にもともと死の影が蔓延しているのである。

ルネッサンスの美術作品が端的に示すように、美や若さ、といったものを、ヨーロッパ人が求めて止まないのは、美術史家W・ペイターが指摘するように、それがすぐに失われ、やがては死に奪い去られることがわかっているからである。

そのようにして至り付いた19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ世界は、ワイルドが耽美主義を標榜し、ニーチェは「神は死んだ」と言い出し、ショーペンハウアーは「この世界は私たちの心が勝手に創り出した幻影に過ぎない」と説いていた。

......。
虚無感と刹那主義が社会を覆い、世界を収奪した白人達は、いよいよ戦争の準備を始め、小声ながら、西洋の没落か囁かれ始めていた。

このような背景の中に、マーラーは立っていたのである。

マーラーは妻アルマと共に、最も幸福と言える時間たちのひとつを過ごしている最中に、交響曲第6番イ短調「悲劇的」に取り組んでいた。

第6番目の交響曲は、この世で生きようと決心した人間に降りかかってくる、ありとあらゆる災難と苦難が描かれ、その圧倒的な困難を克服した勝利の喜びのうちにフィナーレを迎えるのではなく、打ちのめされてばったりと倒れてしまう、というプロットを持っているのである。

幸福にあるひとが、不幸を描き、不幸にあるひとが、美しい幸福を描き出すという、芸術の不思議は、ある程度は天才の不可解な精神活動に帰属するかもしれない。

しかし、それでも、ある程度は、その人の性格や背景にも揺らぐことのない人生への確固たる態度、終生不変の眼差しからも解明できるのではないだろうか。

マーラーという人間を特徴づけるものは2つあるように思う。

ひとつは、その出自と環境である。

現在のチェコ(当時はオーストリア領ボヘミア)の村で生まれ、指揮者としてウィーン宮廷歌劇場の芸術監督となったユダヤ人である彼は、自らのことを
「オーストリアにおいてはボヘミア人とみなされ、ドイツにおいてはオーストリア人とみなされ、そして、どこに行ってもユダヤ人とみなされる。私は、世界のどこからも歓迎されないのだ」
と述懐している。

20世紀初頭のユダヤ人を取り巻く環境は、現代からは想像を絶するほど過酷なものであった。

物価が上昇しても、失業率が上がっても、他国に領土を奪われそうになっても、いつでもどこでも、ありとあらゆる悪いことはユダヤ人のせいにされたのである。

こうした反ユダヤ主義はあまり表立って現れることはあまりなかったものの、表出しない感情は、人々の心の奥深くへ根を張り巡らし、ひとつの前表で突然荒れ狂い、噴出したのである。

それが、ドレフュス事件であり、後のナチス台頭であった。

マーラーの周囲にもこのユダヤ人指揮者の成功を羨む人間は大勢おり、社会的な意味においてもマーラーの人生は戦いそのものであったのかもしれない。

さらに、敵は、マーラーの内部にもいた。
幼少期から、身近にいて、何の前触れもなく、1番失いたくないものに狙いを定めて、家族や友人を奪ってゆく「死」である。

マーラーは、幼くして病死した弟エルンストや同じ作曲家を志した弟オットー、そして才能溢れる友人フーゴー・ヴォルフを亡くしたつらい経験から、常に喪失の不安に怯え、何かを手に入れると、手に入れたそばから、もうそれを喪うことを想い、蜜を収穫しながらも、それを知らない人のように、死に追い立てられ、ひたすら死から逃走するのである。

マーラーの第1交響曲から第4交響曲までは、まさに死からの逃走であった。

救いを最後の審判や天国での楽しい生活という宗教的幻影に求めることはもはや不可能な時代でもあったのである。

検死官ニーチェは、神の死亡診断書を書き散らし、不安に生きる大衆は第2第3のドレフュス事件を探していた。

もはやシューベルトやシューマンのように、憧れと共に天国を幻視する時代ではなかったのである。

その一方で、マーラーの内面の変化もあった。

20歳近く年下のアルマとの結婚をきっかけに、マーラー自身が逃げることをやめ、確実に訪れる死に、決然と対峙することを決めたのである。

マーラーは初めて、誰の身にも訪れる死を見据えようと決心した。

なぜなら、あの世のものでなく、この世のものに愛を抱く以上、いずれはこの世の愛するものと別れなければならないことは明白だからである。

喜びが激しければ激しいほど、ますます強くその歓喜の終焉を意識せずにはいられないのがマーラーという人間なのであろう。

マーラーという人間を特徴づけるものの、もうひとつは、彼が卓越したオペラ指揮者であったということである。

正確にいえば、卓越したドラマ演出家であったにもかかわらず、オペラを作曲しなかったのである。

声楽が嫌いだというわけではなく、むしろマーラーの本領は歌にあるといっても過言ではなく、彼はオーケストラ伴奏付の巨大な歌曲集「子供の不思議な角笛」「リュッケルトによる5つの歌」「亡き子を偲ぶ歌」などを作曲し、第8交響曲や「大地の歌」など自作の交響曲にも声楽をたくさん取り入れている。

歌曲とオペラの距離は、抽象と具象の距離でもある。

オペラでは、特定の状況にある特定の個人、例えば、愛する娘を永久に炎の山の中に閉じ込めざるを得ない神ヴォータンの嘆きが歌われるが、歌曲においては、我が子を亡くした親の普遍的な嘆きが歌われる。

マーラーという人間の精神は、常に具体的なものの背後に抽象性を見出さずにはいられないのである。

交響曲第6番の長大な第4楽章で、私たちは、まさに概念のオペラを聴くのである。

それは、理念の闘争であり、人生という舞台の登場人物、すなわち、愛、困難、平安、悲嘆、卑劣、笑いなどといった諸概念が動き回り、そして最後に、「死」が登場して幕を引くのである。

ここまで、今回を「前編」、続きを次回を「後編」として、マーラーの交響曲第6番イ短調「悲劇的」について、さらに掘り下げて描いていこうと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今回の続きになりますが、次回もよろしくお願いいたします( ^_^)

今朝も、綺麗な晴れで、なんだかうれしいです(*^^*)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。