おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

レッテルは苦痛のメタファーであり、時代ごとにさまざまなものを反映している。

2024-06-24 07:23:41 | 日記
人間はあまり大きくは変わらないが、レッテルは違う。

人間の症状や行動は時代によってブレが多少はあるものの、基本的には安定していると言えよう。

これに対して、症状や行動に対する見方は音楽やスカートの長さの流行と同じくらい、大きく揺れ動くのである。

症状は苦痛は現実のものであるのだが、私たちは、よく「明らかに間違っている」のに、「あまりにも説得力がある説明やレッテルに囚われてしまうようである。

辞書たちは、スティグマ(stigma)という語を
「それとわかるしるし、病気の具体的な徴候、動植物の斑点や傷跡」と定義している。

しるしを「つけられた」人の不利を最も的確に表す語句として、
「精神病のスティグマ(≒偏見)」
という例を載せている辞書も在る。

「正常」であり続け、集団に適合するのは生き残る鍵なのかもしれない。

なぜなら、人間の本質には、自分たちと異なる者や部族の水準を満たさない者に対する厳しい警戒と冷淡な態度が進化の過程で組み込まれているからである。

精神疾患のレッテルは、大きな二次被害をもたらしかねない「しるし」になるのではないだろうか。

偏見はいろいろな形を取り、あらゆる方向からもたらされる。

露骨であからさまな場合もあるが、極めて捉え難い場合もある。

それは、残酷な言葉であったり、冷ややかな笑いであったり、集団からの追放であったり、就職機会の制限であったり、求婚の拒否であったり、生命保険の謝絶であったり、養子縁組の不許可であったりする。

しかし、希望が以前よりも持てなくなったり、必要でないときや頼んでいないときにまで助けの手を差し伸べられたり、本人が気まずくなるほどの同情をしきりに示されたりすることも、そのうちに入るのである。

さらに、精神疾患の心理的、現実的な二次被害は、自分に対する他人の見方だけから生じるのではない。

問題の多くは、自分に対する自分の見方が変わることによって生じる。

例えば、自分は、欠陥商品だ、正常ではない、価値がない、集団の立派な一員ではない、などと感じることによって生じるのである。

そもそも、偏見が精神疾患にたびたび結びつけられること自体、好ましくない。

しかし、まやかしの診断で誤ったレッテルを貼られた上に偏見を持たれることは、好ましくないどころではなく、何ひとつ良いことではない。

また、レッテルは、自己成就予言も生み出す。

「あなたは病気だ」と言われたら、本当にそんな気がして病人らしく振る舞ってしまうものだし、周りからも病人扱いされる。

さらに、病者役割などは、本当に病気で休息とケアを必要としているときはきわめて有益になり得る。

しかし、それらのせいで、以前より希望が持てなくなったり、気力がなくなったり、責任感が失われたりするのであれば、極めて有害になりかねないのである。

そして、社会が、過剰な診断を認め、構成員のかなりの割合を「病気」として扱ったら、その社会は、強靱な回復力のある社会ではなくなり、人為的に「病んだ」社会になる。

私たちの祖先は、現代の私たちには想像も出来ない戦争や窮乏を切り抜けてきた。

レッテルや薬の過剰な使用に頼らなくても、切り抜けてきたのである。

さて、神経衰弱は、1869年以来、ビアードというアメリカ人神経科医によって定義され、広められ、一時、大流行した。

ビアードは、診断の大きな穴を埋めようと試みていたのである。

彼は、疲労、虚弱、めまい、失神、全身性疼痛、睡眠障害、抑うつ、不安などといった、非特異性の心身の症状を抱える多数の人々に、どういうレッテルを貼るのかという問題に対して、「神経衰弱」ならば、この多岐にわたるありふれた症状を説明できそうだ、と期待したのかもしれない。

ビアードの原因理論はいわば流体力学のモデルにしたがっていて、電気機械の電源故障に似ていた。

ビアードは、心身の消耗を、中枢神経系のエネルギー供給の減退にもっともらしく結びつけたのである。

さらに、ビアードは、この減退を、社会的原因に拠るものとした。

つまり、目まぐるしく変化する技術文明や、都市化のストレスや、競争が激しくなる一方のビジネス環境に適応するのは、困難に満ちている→人々が病気になるのは、自分の忍耐や余力を使い果たすところまで追い込まれているからである。ほとんどの症例は、座って働きかつ勤勉な階級に見られる→自然は肉体を疲れさせようとしているのに、彼ら/彼女らは精神を疲れさせているからだ、と考えたのである。

当時、神経科医であったフロイトは自分の患者の多くによく当てはまったので、記述的診断をする上で神経衰弱は、有益だと認めた。

しかし、エネルギーの減退の説明に関しては、リヒドーの減退という、全く異なる理論を発展させた。

神経衰弱の治療は非常に多様で、非特異的で、馬鹿げてすらいた。

ビアードが好んだのは、電気療法でシステムを生物学的に活性化する方法であった。

フロイトはこれを「エセ治療」と嘲り、神経衰弱は、リヒドーの不足によって引き起こされるという理由から、精神分析を推奨しなかった。

他の医師たちも、安静療法、入浴療法、食事の変更、気晴らしなどを提案した。

......。
おそらくどれも、適当な偽薬くらいの効果しかなかったであろう。

なぜなら、神経衰弱は曖昧で、非特異的な診断であり、治療も曖昧で、非特異的で役に立たなかったからである。

しかし、それでも、神経衰弱が世界中で大いに流行ったことは、臨床現場での作り話が持つ危険な魅力をよく物語っていると言えよう。

ただでさえ、私たちには、雲の中に象を見つけたがる知的欲求がある。

また、たとえ、正確でなくとも、レッテルを作り出せば、医師は患者の苦しみを説明出来て、気が楽になるし、治療の対象も得られることにもなる。

レッテルは、苦痛のメタファーであり、その時代と場所の技術や世界観を反映しているのかもしれない。

誰もが、かつてのように、電力に興味を持っていれば、エネルギーの減退が苦痛のメタファーとなる。

人々が、今日のように、神経伝達物質に興味を持っていれば、「化学的不均衡」が軽薄な、しかし苦痛のメタファーとなるのである。

ここまで、読んで下さりありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。