江藤淳は『小林秀雄』のなかで、
「小林秀雄以前に批評家はいなかった」
と述べた。
小林秀雄の出現によって、多くの作家が沈黙を余儀なくされたといわれるが、それは、小林秀雄の批評が、小説という表現の形式を壊し、文学という形而上学をその根底から覆すような要素を持っていたからであろう。
小林秀雄の批評は、文学という形而上学の前提としての近代的世界了解の認識論的構図への批判であったのではなかろうか。
そもそも、「批評」とは、文学研究や作品の解釈を内包してはいるものの、文学研究や作品の解釈とは異なり、文学研究や作品の解釈にとどまるものではない。
研究や解釈は、批評のための予備作業とはなり得ても、批評そのになることはできなく、また、「文学」を前提としており、決して文学そのものの「根拠」を問うことはしない。
それに対して、批評とは、まさにその文学の「根拠」を問うという作業によってはじめて成立した文学的表現形式に他ならないだろう。
確かに、小林秀雄以前にも以降にも、批評家「らしき」人物も、文学研究や作品の分析や解釈、あるいは文学的位置づけなどを業とする人物も無数にいたはずである。
しかし、彼ら/彼女らは、単に新しい文学理論や解釈学を外国から輸入し、普及させることを使命としており、
あまりそれらを自身の裡で日本のものと折衷したり、日本のものと接ぎ木することをしていないため、批評家とは呼べないように、私には、思われる。
特に小林秀雄以前の批評家と呼ばれた人たちが、単に新しい文学理論や解釈学を外国から輸入し、それを普及させることを使命とし、文学という近代物語のなかで安心して眠りを貪ることが出来たのはなぜだろうか。
それは、彼ら/彼女らに、文学というものに対する根本的な懐疑や文学に対する危機意識というものが欠如していたからではないだろうか。
彼ら/彼女らは、文学というものの成立根拠や、その存在基盤の普遍性をあまりにも疑わなかった。
そのことは、今日の文学研究者や文学愛好家たちにもいえるかもしれない。
さて、「批評家」小林秀雄の誕生によって、はじめて批評という問題が近代文学の言説空間に出現したことは、小林秀雄の批評が文学批判にほかならなかったことを示してはいないだろうか。
つまり、近代文学の成立根拠としての近代的世界認識の地平に対する危機意識の自覚こそが、「批評家」小林秀雄を生み出したのではないだろうか。
小林秀雄の出現により、日本の近代文学は、はじめて、その存立の危機に直面することになったのであるが、やはり、小林秀雄は、近代文学の理論的イデオローグではなく、また、近代文学の研究や解釈を行った人でもない。
ヴァルター・ベンヤミンのことばを借りれば、
小林秀雄は、コメンタールの人ではなくて、あくまでもクリティークの人なのである。
小林秀雄は『伝統と反逆』のなかで、自身の「批評」が生まれた背景を
「僕らは、現実をどういう角度から、どういう形式でもって眺めたらいいかわからなかった。
そういう青年期を過ごしてきた。
僕なんかが小説が書けなくなったその根本的理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。
例えば恋愛をすると、滅茶滅茶になっちゃったんだよ。
こんな滅茶滅茶な恋愛は小説にならねえから、諦めたんだよ。
諦めてね、もっとやさしい道を進んだのかどうかは何だかわからないけれど、もっと抽象的な批判的な道を進んだのだよ。
抽象的批評的言辞が具体的描写言辞よりリアリティが果たして劣るものかどうか。
そういう実験に取りかかったんだよ。
これは僕らの年代からですよ。
それまでには、ありはしません。
その前のリアリズムというものは、僕らの感じた暴風雨みたいなリアリズムじゃないよ」
と述べている。
小林秀雄の批評が、解釈や研究と違うことは明白だろう。
小林秀雄の批評は、言語表現上の危機意識であり、近代的な認識論的配置の解体と転換の自覚である。
小林秀雄が、
「小説が書けなくなった」というのは、
それまでの文学的な表現形式をそのまま模倣、反復することが出来なくなった、ということである。
やはり、小林秀雄の批評は、文学という形而上学の前提としての近代的世界了解の認識論的構図への批判であったのではなかろうか。
例えば、柄谷行人は、日本近代においては、ヨーロッパ文化圏においは「哲学者」が担っている役割を「文芸評論家」が担ってきた、と主張している。
確かに、少なくとも小林秀雄以降の批評的伝統は、単に文学というひとつのジャンルに限定できるようなものではなく、文学というジャンルを超え出ているようである。
もし、日本に哲学がなく、また哲学者が存在しないとすれば、それに相当する存在として批評家(文芸評論家)が存在するということが出来るだろう。
ところで、小林秀雄によって批評として自覚された問題は、文学や文学作品の問題でありながら、単にそれにとどまるものではなく、言ってしまえばそれは「認識の問題」であったのではなかろうか。
小林秀雄の場合、文学的問題の追及を通して、その結果としての認識の問題に触れたのであろうが、それは極めて大きな出来事であったのである。
さらに言ってしまえば、日本の近代史において、小林秀雄が果たした役割は、喩えるなら、中世スコラ哲学を批判したデカルトや、経験論と合理論を共に批判したカントのそれに近いものであるように思う。
デカルトもカントも、いわゆる伝統的な形而上学を批判し、解体した人である。
カントの形而上学批判をふまえて
「カント以後において形而上学はいかにして可能であるか」
という問題が、カント以降の哲学界のテーマとなったが、
同じく小林秀雄の場合にも、小林秀雄の文学批判をふまえて、
「小林秀雄以降において文学はいかにして可能であるか」
という問題が、小林秀雄以降の文学界のテーマとなったのではないだろうか。
そして、それがたとえ十分に認識されていなくとも、私たちが、
「小林秀雄以降において文学はいかにして可能であるか」
という問いから、自由になることはないだろう。
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