予定外の病気をすると、なんだか、病気をする前よりは、たいせつなものと、そうでないものが解るようになるように思う。
先日亡くなった星野富弘さんの詩に
「いのちがいちばん大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが嬉しかった」
とある。
星野富弘さんの花を想う葉と、実を想う花の絵に、幼い頃から感動を禁じ得なかった。
星野さんの視座に倣えば、実は、私を幸せにするものは、
(大事なものを確りと考え、努力すれば)
まだすぐ近くにあり、まだ、だいたいは、ほぼ無料で、簡単に手に届くものであったりする。
たとえば、肌に季節ごとの風や太陽を感じること、その風が髪を通り抜けること、母親とワイドショーのゴシップを話しながら家事をすること、昔の映画や小説を観て学ぶこと、(病気で読めなかった)大好きな本を読み直すこと。
私は、......やっと震え止めなしでこの文章を描けていること。
......また観ることができた朝日、橙の夕焼け、正しいことをした、と思うときの満足感。
.....後遺症が治っている実感とともに、私はなるべく、使い切れない飾り物のガラクタを買わずに余生を送りたいと、私は、願っている。
さらに、出来れば、運がよければ、私は、自分の好きな人たちを失うことなく、可能になればそうした人たちと助け合いながら生き、病になった経験を活かしながら、あまり重荷にはならずにいたいとも思う。
私たちは、モノの豊かさ、長寿、個人の安全、比較的平和な状況、低い犯罪率、まだきれいな空気と水、脅威的なテクノロジーに恵まれたかつてない時代に生きている。
歴史上の標準的な環境と比較して、現代は、先進国に住む大部分の人々にとって、恵まれた時代であることには、変わりない。
(私たちの乗っている)船がスムーズに進んでいるときに満足を感じるのは比較的簡単かもしれない。
しかし、犠牲を免れた未来の幸福を期待することは、誰ひとりとして出来ないのではないであろう。
私たちは、好き嫌いに拘わらず、モノをもつことよりも、1度拒否したような、ひととの関わりを重視して生きることを学ばなくてはならないのかもしれない。
私たちには、実は、絶望する理由も、自らを気の毒に思う流通もない。
人間として生きることは、これまでも決して容易なことではなかった。
今の、私たちの抱える難題は、困難に思えるかもしれないが、黒死病や三十年戦争、また世界で最も読まれている聖書にあるような干ばつに比べれば、たいしたことはない。
ただ、それならば、未来を守るか破壊するかが、私たちの手にはかかってはいるのである。
社会(または個人も)抱く幻想は、蓄える価値のないもの、また本当の幸福と健康にとって本質的でないものを守ろとする。
しかし、人類は危機に直面しては、跳ね返してきた長い歴史がある。
私たちは、しなやかに、そして、しなやかに困難に立ち向かってきた。
私たちは、しなやかに、強かに、困難に対処する力を秘めている。
星野富弘さんが
「ひとつの花のために
いくつの葉が
冬を越したのだろう」
と花を見つめたところから、先述の詩は始まっている。
私も、花をみつめる詩人が、花自らの思いを描いた心持ちに寄り添ってみよう、と 、思った。
私は、まだまだ、優しくなれていないな、と思った。
でも、頑張ろう、と思った。